甲高い鏑矢の音が天地の間に遍く響き渡ると同時、シシ神の森の奥深く、森林火災の延焼を防止するための境界線となっている、間伐の後地である『谷間』の様子は、上空から見れば開けて森の中がよく見えた。
天の視点から見れば、そこを慌ただしく横断する巨大な塊が無数に蠢いていた。
猪たちだ。
全身に分厚く、余すところなく、毛皮を覆い隠すほどたっぷりと泥を塗りたくった姿は異様の一言に尽きた。
それは戦化粧とも異なるものであり、もしもこの場にジバシリどもが居たのならば、何らかの意図が見え隠れしていることに警鐘を鳴らしたかもしれない。
だが、今、彼ら猛る猪の突撃と対峙している者たちの中には、ジバシリどもは含まれておらず、彼らは純粋に戦果を拡張しようと神秘の森へと土足で踏み込んできた地侍ども…侵入者でしかなかった。
誇り高く、賢く、そして巨大なナゴの守に率いられた戦士たちと地侍との衝突は、目前に迫っていたのだ。
時間は開戦の前夜に遡り、互いを友と呼び合うオンテギとナゴの守は、大戦を前にした緊張感とは別に、ある種の興奮と共に月を肴に酒を飲んでいた。
オンテギは漆の酒器に手酌で注いで舐める程度、ナゴの守は洗濯桶のような巨大な酒樽に鼻先を突っ込んでガブガブと。
月は欠けたるところがない満月であったので、明るく、互いの姿はよく見えた。
酒飲みの場所に選んだのはシシ神の森にあるナゴの住処、崖の上の見晴らしの良い洞窟の前にて。
二人はしばし無言だった。
招いたのはナゴで、誘ったのはオンテギだった。
オンテギは杯を飲み干すと、酒器を脇にどけた。そして、徐にそれまで脇に置いていた革の大袋に手を伸ばした。
「ナゴ、明日からは戦だ。鉄を嫌う君たちに我慢を強いるのは心苦しいが、それを呑んでくれて私は救われた」
『なんの、戦も祭りのようなもの、正々堂々ぶつかるためには、我らにも鉄の皮が必要だと考えていたところだ』
だから、貴方が謝るべきことはなにもない。
と、ナゴは言うのである。
オンテギは笑みを浮かべると、ナゴに手元に寄せていた大袋の中身を見せた。
『これは?もしや…先代の?』
それは、表現するならば付け歯のようなものだった。太く、鋭く、立派な猪の牙だった。それの根本に通した鉄の輪で締めることで、猪の牙に装着することができる代物だった。
「あぁ、親父さんか、お爺さんかは知らんが。デカくて強かったのを覚えてる」
オンテギは言った。
「ずっと殿堂に祀られてたんだが、もっとふさわしい場所があるだろうと思ってな」
そう言い、その付け牙をナゴの二本牙の根本にそれぞれ装着してやった。
「さ、これでナゴも四本牙になったぞ」
オンテギは誇らしげにそう言い、一緒に持ってきていた手鏡にナゴの姿を見せてやった。
『おおぉ…これでは、まるで、乙事主様のようではないか』
ナゴはそう言い、しばし、自分の四本牙に見とれた。
「明日はその上に鉄の鎧を着せてやる。石火矢なんかで死ぬな。思う存分、暴れてこい」
『ああ。ああ。我が友、オンテギに最大限の感謝をッ!』
そう言い、ナゴは鼻先をオンテギにぐいぐい押し付けた。オンテギからは猪族が敬愛してやまない、勇ましくも温かい、美しく澄んだ薫りがするのだ。
それは猪神の最高の愛情表現に違いなかった。
『このナゴの守、明日は必ずや勝利を勝ち取って見せよう』
「ああ、そうだ。正面から、正々堂々と、祭りと同じだよ」
オンテギはそう言うと、再び酒に手を伸ばした。
二人はまた、心地よい沈黙を共有するのだった。
『ピィイィイィイイィイィィイィィィイイィイッィイィ!!!!』
『ナゴの守様!オンテギ公からの合図です!』
側近からの声掛けに、先日の回想に浸っていたナゴの守は我を取り戻した。
そして、その蹄まで鋼で覆われた巨躯を武者震いに奮わせて、一族の戦士たちへの下知を下した。
『戦士たちよ!これより我らシシ神の森の猪神族は突撃を敢行するッ!』
『応!』
戦士たちが応えた。
ナゴの守は続けてこう言った。
『一度目の突撃で終わりだと思うな!オンテギ公の御言葉を思い出せ!混乱の中にある侵略者どもを蹴散らし、火の壁を潜り抜けてからが本番だッ!』
『応!!』
ナゴの守は更に言葉を繋げて言う。
『汝らは炎の壁を恐れるか!』
『否!!!』
戦士たちの威勢のいい声に満足して頷くと、ナゴの守は確かめるように蹄で地面を掘り返し、大地を撫でた。
『それでこそ誇り高き猪神族の戦士たちだ!いざ、突撃!』
『隊列を崩すなよ!』
『我に続けェッ!!!!!』
『ブモオオオオオオオオオオオオオッ!!!!』
ナゴの守の下知のもと、全身を不自然なまでに泥で覆った戦士団が横陣を形成しながら森の中を疾駆し始めた。
向かう先は目と鼻の先、相手どるのは突然の火の手に退路を断たれて混乱の渦中にある地侍ども数万である。
頭数の差は二十倍以上。だがしかし、戦力差としてみれば、相手にとって不足はなし。
疾駆すること暫し、混乱から回復しつつあった地侍どもの姿が遠目にも見えた。
奴らの姿を森の浅層に認めて、ナゴの守は更に加速した。
そして、ナゴの守は蹄までを覆う、オンテギ謹製の斑鋼の全身甲冑に身を包み、父祖の付け牙に刃付けした鋭い鋼を被せた完全武装の上から、火除けの泥を被った姿で、一族の先頭に躍り出た。
『汚らわしい人間どもめ!!猪神一族の意地を目に焼き付けよッ!!!』
叫ぶ。
『突撃!突撃!!突撃!!!』
叫ぶ。
『すべてを蹂躙せよッ!!!』
叫んだ。
「うろたえるな!ぼやだ!ぼやに過ぎん!落ち着かんかぁ!」
「それでも公方様の郎党か!天朝様の御親兵か!」
「我らは神殺しに挑む勇者であるぞ!このようなことで怯懦を晒すでないわッ!」
背後、森のあちこちが、鏑矢の音がしたと思った直後に、大地を揺らがすように爆ぜたのだ。
湧きおこった爆炎により木々は松明のように煌々と燃えていた。
森の中は真昼よりも明るく、火の中のように熱かった。
それが数万にも及ぶ人間の頭上に同時多発的に降りかかったのである、収拾をつけ、集団に冷静さが戻るまでは時間が必要だった。
圧倒的な兵力を誇る自軍の威容に安心感と勝利への自信とを抱いているもののふどもは、口々に叫びをあげて叱咤する各々の上長のもとに徐々に固まりつつあった。
結果論から言えば、それが不味かった。
蹴散らすに申し分のない、小粒の集団が無数に森の中で停滞している状況を、一突きにて瓦解させる衝撃と恐怖が今。
来た。
「ありゃ、なんだ?」
「ん?この地響きはなんだっ!」
「ひぃいぃぃッ!見ろ!猪だ!猪どもが出たぞおぉぉおぉッ!」
森の奥から一直線に、恐るべき速さで迫りくる巨大質量の大津波を前に、地侍どもは早くも恐慌に陥った。
だが、一部には冷静な者もいるものだ。
「ええい、うろたえるなと言っておろうが!こちらには天朝様より授かった石火矢があることを忘れたか!」
「あれがあればもののけなど恐れるに足りぬ!石火矢衆ッ!用意ができ次第、よく引き付けてから放て!」
アサノ公方から目付として使わされてきた武者がそう命じると、おっとり刀で石火矢の用意を始めた石火矢衆。明らかに練度が足りていなかったが、貸与されてから日が浅いのだからさもありなん。
しかし、使うことはできるし、もののけを撃退できることは強く言い含められていた。ゆえに、その点に自信はあったのだ。
「ようし、馬鹿な猪どもめ今に見ていろ、いいかぁ?ぃよーく、引き付けろぉ…」
石火矢の、と言うよりは火薬の臭いに敏感に反応したナゴの守が一声。
『御楯衆!!前へ!!密になれ!!』
戦士たちに下知をすれば、雷のような速さで、入り組んだ、足元も悪い森の中で隊列を組み換えた。
最前列に出たのは他よりも一回りも二回りも巨大なナゴの守の親衛隊である。彼らもまた、分厚い皮をさらに覆い隠すように泥で全身を覆っていた。
侍たちはその変化に意味があるとは微塵も思わず、石火矢衆がもたもたと準備に手間取るのにやきもきするのだった。
そして、先頭を駆けるナゴの守と、侍大将の目が合う距離、視線が交錯した瞬間。
「今だッ!石火矢っ、はなてーーーーーーーーッ!」
ゴロゴロゴロッ!!!
命令一下、石火矢が火を噴いた。
もうもうと煙が上がり、蹄の音が一瞬やんだかと思ったのもつかの間。
『ぶもおおおおおおおおおッ!!!!』
健在だ!猪たちは毒礫をものともせず、ついにそれぞれの目の前に捉えた小集団に突撃を果たした。
「放て!放て!放てーーーーーー!」
ゴロゴロゴロッ!!!!
残りの石火矢も火を噴く。
だが……
ごいんっ!がいんッ!ばきんッ!
「なッ!な、なぜ止まらぬ!!なぜ止められぬッ!!」
侍大将の悲鳴が響くも、それを掻き消すようにナゴの守が吠えた。
『これぞオンテギ公の黒鉄の力ッ!!』
泥がはがれた場所から垣間見えたのは、凹みすらしていない黒鉄。タタラ場の鋼を使い、猪用に誂えられた『鎧』であった。
特に、オンテギ謹製の斑鋼の鎧を纏ったナゴの守を含む生え抜きで構成された『御楯衆』は金城鉄壁。
猪神たちは石火矢の礫も物ともせず、その鋼で覆った牙を振り乱して、侍どもへの蹂躙を開始した。
『進め!進め!戦士たちよ!』
『御楯衆は最前列で横陣を崩すな!身を寄せ合い、互いを守り、敵を切り裂けッ!!!』
『ぶもおおおおおおおおッ!!!!』
ナゴの守を先頭に、猪神の戦士たちは三万に対して一千という数的不利をも物ともせず、突撃!突撃!突撃!
数万の侍たちをじわじわと炎の壁へと追い詰めていくのだった。