「これはッ!?」
「ははは…いやぁ~、まいった、まいった。こうまで上手く策がハマるとは、相変わらず底が知れぬな」
森裾に辿り着き、やや高みから見下ろした光景はアシタカの想像を絶するものであった。
三方から食い荒らされたアサノ公方の軍勢の無残な亡骸が、見渡す限りに広がっていたのだ。
見た感じ、侍の抵抗は皆無であり、今や徹底的な掃討戦の様相を呈していた。
これが一人の歩く理不尽により手掛けられたものだと知るジコ坊は、畏れ入りつつも健やかに苦笑を漏らして言ったのである。
その隣、ヤックルに跨ったアシタカは余りの殺戮の後先に絶句。
ただ、その圧倒的な業と畏れの生んだ、厚みと深さとに囚われつつあった。
「森を抜けるぞ、死に食われるなよ!」
気付けのように叱咤を一声。
ジコ坊は恐れるでもなく、遠目に見える巨大な殺戮の跡地の中心に整然と建てられた神籬に向かって、再び走り出した。
「はいっ!ヤックル、行くぞ!」
気付けられ、我を取り戻したアシタカも後に続く。
「なんという、夥しい躯の山だ…屍山血河と言わずして、他に何と言えばいいッ!」
ヤックルに並びかけられながらも、しかし、抜かされる様子も、息を乱す様子も見せないジコ坊の異様さとて、今のアシタカには些事であった。
彼の視線の先には、横たえられた無数の侍の屍と、その屍から引き剝がされ積み上げられた無数の武具防具の山、それから、猪神たちが総出で大地を堀り返し、拵えている真っ最中の巨大な墓穴の姿があった。
「ジコ坊殿!これは現実であろうか!」
「これ以外の現実など、一体何を望むッ!」
ジコ坊の耳は、アシタカの声に載せられた正義感と憤慨を敏感に感じ取り、先手を打って言い返した。
教えるように、しかして、叩きつけるように。
「人と森とが争った挙句、どうしてこうまで惨いことになるのだッ!」
「それは、人と人との争いもまた、そこに含まれていたからよ!」
ジコ坊が平然と言い放つと、アシタカがクワッと目を見開いた。
「では、貴方がシシ神の森に連なると言ったあの言葉は嘘だったのかッ!」
「真も真だわっ!拙僧ほど身を切って真を拵えたのもそうは居るまい!」
ジコ坊はそう言って、落ち着くように促す。
が…一度走り出すと、或いは信じ込んだが最後、やり抜く強き意志がアシタカを否応なしに揺り動かした。
「では、なぜッ!これは、オンテギ様も知ってのことなのか?オンテギ様がお許しになったことなのか?」
「侍どもが勝った場合の現実と、侍どもが負けた時の現実と、侍どもと争わずに済んだ現実と…そのうち、起こったのが二番目だったと言うだけのこと!そもそも、押し掛けられて迷惑しとるのは大天主様が方ぞ!」
ジコ坊の答えに、アシタカはあからさまな失望を見せた。
到底、神の振る舞いではない、と。
そう思ったのやもしれない。
ジコ坊は苦り切った気持ちに蓋をして、アシタカを見据えた。
「くッ!私たちは…私はッ!信じるものを間違えたとでもいうのかッ!!」
「来いッ!見ろッ!聴けッ!森が啼いておるのか?それとも、それは己が中に生み出される幻、物言わぬ死者どもの嘆きか!真名己を曇らせるな!」
嘆きを真っ直ぐに吐き出したおかげか、或いはジコ坊の言葉で幾分か持ち直したか、アシタカは固い決意はそのままに、理性を湛えた瞳でジコ坊を射抜いた。
「…オンテギ様に、すべてをお伺いする!もっと、他の道はなかったのかと!声の主の言葉を聴いたその後で、私は見定めよう!」
「死に食われるなと言っておろうが!ったく…まぁ、言いたいことも分かるが…それはそれ、随分とマシな幕引きだと拙僧は思うぞ?」
ジコ坊の所感に、アシタカは憤慨した。
「どこがマシだと言うのか!?」
「少なくともッ!!!」
「…っ!?」
だが、アシタカの憤慨を塗りつぶすように、ジコ坊が珍しく声を張った。
撃ち込まれた言霊に、アシタカも黙して聴く。
「無抵抗の者も、祈らぬ者も、心ある者も、女子供も殺めてなどおらぬ…この場では、と補うべきだが。それでも、森を生かし、神を守り、暮しを守り、家族を守った果てが今なのだ!」
「醜いとは言えぬ…だが、余りにもッ!」
ジコ坊の言葉に、アシタカが何かを吐き掛けそうになり、咄嗟に抑え込み、呑んだ。
だが、ジコ坊とて無知ではない。
アシタカの言葉にならぬ悲鳴に、痛いほど感応していた。
だが、であればこそ、ジコ坊は叫んだ。
「そうだ!貴殿の言うとおりだ!醜い!醜いのだ!」
ジコ坊の言葉に、ヤックルが身を震わせ、それを感じたアシタカは足を止めた。
「だがな…」
そこで言葉を切ったジコ坊は、一度、鼻水をズズッと啜り上げてから、その傘を持たぬ方の手で鼻先を拭った。
「だが、な…美しければ生かされるなど、美しいから生きろなどとは、頼むから申してくれるなよ?」
ジコ坊の目には、その僧形に相応しい慈悲が宿って久しい。
だが、この時を置いてほかに、これほど彼が僧足らんと欲した時も今までになかった。
「拙僧らは、美しくなろうとして必死に生きておるのだ!」
「…では、貴方は之を見て何も感じぬというのか?」
アシタカの言葉にジコ坊は強く肯じて、その上で尚も言う。
「感じる!大いに感じる!感じるものに嘘は吐けぬ。好き嫌いは必定。大いに結構。だが、それだけで世界はできておらぬぞ?誰かが踏みとどまらねば!誰かが受け止めねば!」
「ジコ坊殿…あの円の中に、山の神々が集まっている…あの中に、オンテギ様が居られるのだな?」
ジコ坊の言葉に応じず、アシタカは確かめて問うた。
「嗚呼、そうだ。すべて、思し召しになった通りにしてしまわれた御方よ。そなたの内に渦巻く、憎しみと怒りと畏れとを自らの手で生み出し、それを背負われる御方よ…」
「行こう。そして、会う。会って確かめるっ!」
「矢のように真っ直ぐな少年だな、まったく…はぁ、もうよい。ならば、好きに致せ!ほら直ぐそこだ、遭って参ればよかろう!知れば解ろう、拙僧が言いたいこともな!」
ジコ坊は諦めと言うよりは、力を尽くした達成感を腹の底に残して、アシタカの青い背中を見送った。
「ヤックル!」
アシタカの掛け声でヤックルが遂にジコ坊を抜き去る。
眼前に一直線で進む。
最早、脇目もふらぬ。
白い方形で組まれた、絹の帷幄の奥に、恐らくはオンテギその人が居るのだ。
現前の、神籬の中にある絹の目隠し布を飛び越えようとして、そこへ、一人と一頭に待ったを掛ける者が現れた。
『何者か!』
『なんとっ!アカシシだぞ!』
『護衛陣を敷け!オンテギ様をお守りせよ!』
猪神たちである。
それも、見たこともない出で立ちの、黒光りする鎧で蹄の先から腹の底までを覆った者たちだ。
ナゴの守の御楯衆である。
「道を開けてくれっ、森の神々よ!」
アシタカは驚いて棹立ちしかけたヤックルを落ち着かせつつ、目の前で、濃い人間の血の臭いを漂わせる猪神の一団に向けて、告げた。
だが、ぞろぞろと次々に現れた猪神は頑として譲る気を見せず、寧ろ、あの稠密無比な護衛陣を形成して、絹の帷幄を目前にしたアシタカとヤックルとをぐるりと囲んだ。
『退けぬ!そなたは何者かっ!ここが、鐵打之御天戯公の本営と知っての狼藉であるか!』
「我が名はアシタカヒコ!そのオンテギ様にお伺いしたきことがあり、ここまで来た!我が一族は孫一殿より頂いた書状とオンテギ様からの呼び声とに応え、山を越え、谷を過ごし、川を渡ってここまで辿り着いた!義に参じる証として、名のある侍を捕らえてもいるが…今のままでは渡せぬ!神々よどうか、我が声を聞き届けたまえッ!!」
『そなたの中には怒りと憎しみと、悲しみとが渦巻いておるッ!そのように不安定な者、我らが主上と安心して会わせられると思うてか!』
「私の中に荒ぶるものを見ているのなら、それは真のことである!だが、この真の心が、オンテギ様を知れと急かすのだ!どうか、私をオンテギ様と直接会わせていただきたい!」
『むむむ…嘘ではないな。だが…』
それでも退けぬ。
そう、猪神が言おうか考えている内に、アシタカの叫びは地獄耳に届いたようである。
「おう、皆の衆、『青いの』が来たぞ!道を開けてやれ!」
『オンテギ公!しかし、この者、もう少し落ち着かせた後の方が!』
「今の内だけだ、開けてやれ」
『ジコ坊殿まで…』
「こやつも、拙僧と同じだということよ。知らんのだあの方のことを、まだな…」
『あぁ…なるほど』
猪神は、ジコ坊の実感が籠った一言に酷く納得して、道をあっさりと譲った。
アシタカはヤックルから飛び降りて、その手綱を引きながら先へ進み。
「ジコ坊殿、ありがとう」
「礼など申すな!いや、これは真に」
そんな短いやり取りの後で、アシタカはジコ坊を置いて方形の陣幕へと分け入って行った。
詰めかける神々の中にあって、尚、圧倒的な存在感を放つ三柱…モロの君、ナゴの守、そして鎮西から遥々やってきた乙事主…を前にして、アシタカは足を止めた。
『…噂をすればなんとやらだね。にしても小僧、いきり立った様子で入ってくるとは、随分と無作法じゃないか』
モロの君が首を擡げてそう言う。
『ふむ!これが例の『青いの』か!うむうむ、オンテギ公が語るに、然りとはこのこと。北と東の果ての間から、よう来た!』
対して、突撃が全成功して満足一杯のナゴの守は柔らかく出迎えた。珍しい入りである。
そして…一番奥で体を起こした、四本牙の白い大猪神がアシタカを鼻先に近づけて足を止めた。
『おぉ…遥々来てくれたんだねぇ、ありがとうよ、お若いの…』
「さぞかし名のある山のヌシとお見受けするが…御目が?」
アシタカが問えば、白い大猪神は笑ったように見えた。
『目は悪いがね、鼻は利くんだよ。おかげで苦労せずに済んでおるよ…儂は、鎮西の乙事主と呼ばれておる…して、そなたの名は?』
「我が名はアシタカヒコ。乙事主殿、すまぬが…私を通してくれぬか?」
乙事主は、アシタカの前に自然と立ち塞がるように立っていた。
モロの君とナゴの守も同じだ。
『悪いねえ、お若いの…だが、そうもカッカとされると、大恩あるこの身からすれば、恩人とみすみす会わせることは、心配で出来ぬのだよ』
「そこをなんとかっ!私には、この通り、孫一殿から受け取った書状も持参している!確かめて欲しい」
『孫一?誰だそりゃ?』
アシタカが懐から抜いたのは一通の書状である。
ナゴの守の抜けた声に対して、乙事主が驚いた顔をした。
『孫一殿とな!おお、では、もしや、その書には白い猪と、のたくった文字が書かれているのではないかね?』
「なぜそれを!?」
誇らしげに言う乙事主に対して、今度はアシタカが驚く番だった。
書状の末尾には、確かにオンテギの下手な
「乙事主殿、この書に覚えは?」
アシタカは乙事主の鼻先へと書状を添えた。
『どれ拝見しよう…すうぅぅぅぅぅっ!…嗚呼、うむ、間違いない。これは、オンテギ公の真筆に違いない』
「ではッ!」
アシタカはそれまでの怒りとは別に、山の神でさえ真筆と言う書状に刻まれている文言の価値に気付き、俄かに安堵と喜色を滲ませた。
『ああ…お若いの、その書状には真のことしか書かれておらぬ。孫一殿が届けてくれたところまで、同じゆえ、信じるに値しよう。それに…』
そこで言葉を区切った乙事主は、ズレた話題を取り戻すように、こう付け足した。
『そもそも…これほどの真正面からの大勝利を見せつけられて、森を守り通した御仁に、どうして疑いを持てようか…』
『我らはシシ神の森を守るために招かれた。共に戦おうという言葉は誠であった、と。そう、確信を持てるまでは傍観に徹して構わぬという言葉にも、偽りは無かった』
『さて、お若いの…そなたも、少しは落ち着いたであろう…どれ、老骨は道を譲ってやらねば』
乙事主はそう言うと、年齢を感じさせない軽やかな足取りで道を開いた。
その先には…。