「待たせたな」
その先には、床几にどっかりと腰を据えて、三柱とアシタカとの邂逅を、沈黙を守って見届けたオンテギの姿があった。
黄金の絹で編まれた天蓋の下、背後には見事な太刀が飾られていた。
だが、どちらも押しのけて、或いはその違いを受け入れ呑込む自然さで、そこに見事なまでに同居していた。
足りた姿なり。
また、過ぎたることもなし。
だが、それはいわば虚像。
アシタカの眼には、天蓋も刀も一瞬しか映らず、その真名己を灼いたのは。
「では…貴方が…」
「そうだ、私がオンテギだ」
「そうか…」
アシタカが目にしたのは、柔らかい、無邪気な笑みを浮かべたオンテギの姿だった。
雄々しく、逞しく、猛々しく、しかし、それだけではない。
温かく、滲むように篤実さが透けて見える、そういう面持ちであった。
穏やかな。
戦場には到底不釣り合いに穏やかな。
尽くして優しい、衒いのない微笑みに、アシタカは太陽を思い出した。
堂々たる苛烈さと、沁み入る様な温厚さとが混在する在り様に、アシタカは意図せずして腰を低くし。
気が付けば、膝を折っていた。
「貴方様に、伺いたきことがある!」
首から上だけが、健在であった。
「どうして、ここまで、ここまで惨いことを成されたのか!貴方様が真の神であるとするならば、どうしてあの夥しい侍たちを福の外に置き捨てられた!」
キッと強く射抜く様な瞳には、曇らんとするものと、曇るまいとするものとが入り乱れ、他ならぬアシタカが最も苦しんでいることを、オンテギは自然と感じ取り気づけた。
気づけたのであれば、あとは簡単な話である。少なくとも、オンテギにとっては。
「謝らぬ。赦せとも言わない。よく来てくれた、歓迎しよう。例え、私を、このオンテギを傷つけようとも」
「ただ…すべてを決めるのは、後からでも足りると思うんだ。だから、今はこれで我慢してくれないか?すべてを、その曇りのない真名己で見定めたと確信を得るまでは」
そう言って、オンテギは背後に掛けられてある太刀を取ると、梅咲く小枝を配るように、困憊した様子のアシタカに差し出した。
「これ、やる。君なら、オンテギに手傷を与えることくらいは、造作もないだろう。抜いてご覧よ」
「これは…」
促されるままに引き抜いた刀身は、緋色に輝く斑鋼で出来ていた。
見たこともない神秘的な美しさを湛える其れに、アシタカは呑まれまいとして、そっと視線を逸らした。
それは外からはわからぬほど、必死の抵抗の上でのことであった。
そうしてオンテギは、アシタカを真名差し独白を始めた。
そして、ゆっくりと、途切れ途切れに独白を始めた。
「アシタカ。オンテギは神ではないが、神だと呼ばれる限りは少しでも、そう称えてくれる誰かに好くしたいと思う」
「森へ、タタラ場へようこそ、アシタカ。君たちが来てくれて、オンテギはとても嬉しい。だからどうか、先ずはゆっくり休んで欲しい」
「考えて、考え抜いてから、オンテギは侍を傷つけることを選んだ。死んだ彼らは戻らない。でも、祀ることは出来る」
「オンテギは神ではない。だから、出来ることしか出来ない。でも、それが人より少しだけ多いから、それをする」
淡々とした口調からは考えられぬほど苛烈なことを言いながら、同時に心底からオンテギはアシタカの一族の来訪に歓喜していた。
そんなことは、アシタカにも、否、アシタカにこそ痛いほど伝わった。
「貴方は、タタリが怖くないのか?」
だからこそ、アシタカは問わずにはいられなかった。
だが、オンテギは動じない。自然体で語る。
「彼らを焼くために、ずいぶん、森を燃やしてしまった。だが、それを蘇らせるのに十分な数は揃えた筈だ」
「森はシシ神に任せる。好きにすればいい。もちろん、オンテギも好きに木を植えるけど…それはさておき、この平野に広がるのはニンゲンの業だから、それを片付けるのはニンゲンの仕事だ。それは、オンテギがする」
「タタリは…怖がっているだけでは、いけない…と、思う」
「だから、ここには大きな慰霊碑を建てる。オンテギたちは勝ち、彼らは負けた。だから、勝者であればこそ、敗者の無念をも呑んで祀ろうと思う。それだけの余裕を残していなければ、勝っても意味はなかったから」
オンテギは申し訳なさそうに続けていった。
悲嘆に暮れてはいない。ただ、純粋に悲しかった。
「生きてるうちに、幸せにしてやれなかったし、褒めてもやれなかった」
「少しでも苦痛が少なくなるようにとも思ったけど、数が多くて大変だったし、味方には誰にも死んでほしくなかった」
「だから、数合わせで侍をいっぱい傷つけて殺した。選んで殺した。オンテギにはこれ以上に、出来ることがなかったか、或いはやらなかったんだと思う」
くるりとその瞳が巡るように瞬き、余りにも明瞭に、オンテギは断言した。
そして、続けて宣った。
「気づかなかったのか、面倒くさかったのかは知れないけど。それはオンテギにもわからないから、君たちが決めるといい」
「殴ってもいい。刺してもいい。でも、たぶん、オンテギは死ねない。ただ…」
言葉を切ったオンテギは、大地を指差し。
「ただ、ここに立ち続けるだろう」
こう、言い切った。
そして、こうも付け加えた。
「すべては君の自由だ、アシタカ」
アシタカを蝕む傷口を撫で、癒し、抱擁するようにそう言い、オンテギは弁解とも自己否定とも取られ兼ねない、言葉足らずを終えた。
「…どうだろう?少しは、納得できた、かな?」
オンテギはアシタカを真名差しながら、そっと添えるように尋ねた。
「わかりません。ただ…貴方を刺すことなど…私には、出来ない。貴方を割り切ることなど…それだけは、はっきりと知ることが出来ました」
アシタカはそう言い、太刀を返そうとした。
だが、オンテギは首を振る。
「それはもう、アシタカのものだ。好きにして欲しい。そもそも、それは君の為と思って拵えたんだから」
「私の為に、この太刀を?」
言われて、アシタカは瞠目した。
そして思い出す。
必死に背いた、あの見事すぎる有り様を。
だが、オンテギはアシタカの内で燻り出した莫大な情動を余所に、ニッコニコで重ねて言う。
「うん、然う。内容はともかく、署名したのは覚えてるけど、それとは別にね」
「…貴方は、強い御人だ。一族を呼びますが、迎え入れて下さいますか?」
さらっと書状の中身を知らないことを曝け出すオンテギ!
しかし、感動に打ち震えている今のアシタカは無敵である。当然、唐突なカミングアウトの内容は聴こえていない。今の彼の中にあるのは、目の前の好漢に対する大きすぎる報恩欲求だけだ。
「モチの論!早く行っておいでよ!城の中に真っ直ぐ行っていいからね?挨拶とか、そういうのはエボシが…えーっと、妻がよろしくやってくれるからさ!」
「ほら、早くっ!ヒイ様とカヤを迎えに行ってあげなよ!」
会ったこともない、聞いたこともあるはずがない隠れ里を見つけ出し、そこに書状を送り届けさせたのみならず、そこに住まう者の巫女や長、その妻の名前まで知悉しているとは、誰が想像しただろう。
アシタカは目の前の存在が自分の理解できる範疇を、遥かに超越していることに、今更ながらに気付かされた。
「はいっ!行って参ります!」
そして、ジコ坊の言葉を思い出していた。
「心の準備とは、このことかッ!」
ヤックルに飛び乗って駆け出す、青い衣の少年。
「行ったなぁ…」
タカタ!タカタ!と小気味好い蹄の音が遠のいて行くのが耳に届き、オンテギはそれを優しい笑みと呟きを添えて見送った。
『あの小僧、見違えて出て行ったね』
『だな、唐傘連のようにゲンコツを貰わなかった分だけ、邪気はなかったということであろう』
『うむ…元気になって出ていきよった』
「いやぁ~、まいった、まいった。バカでも、大バカには勝てんかったか…」
両脇で、ここに来た時は夜叉のように重苦しかったというのに、今や人が変わったように、穏やかで晴れ晴れしい微笑を浮かべて去っていった少年を黙って見送った三柱+ジコ坊は、しみーじみとぼやくのだった。
「不思議な、方だった…あれほど重苦しかったのに、今は胸の痞えがとれている…」
「いっそ、晴れやかなほどに…」
再び森に分け入り、一族を招くために駆けるアシタカの心の中は、不思議と凪いでいた。
撫で摩られた角が取れて丸くなり、激しさを宥めすかすように抱き締められて、挙句、苦しみを全て受け止めて肩代わりされたような感覚は、夢見心地と快なり。
アシタカはここに来るまでの道中でジコ坊に見せた以上に、和かな、また法悦に浸る様な澄み切った面持ちで、森の中を進んだ。
深く暗き森を照らす太陽は、中天を過ぎても未だ温かいが、風が涼やかさを運んできていた。
まだ晴れの内に降り注いだ慈雨は、戦火を洗い流し、燃え盛る炎を鎮めてくれていた。
あの喧騒と怨嗟の響動きが嘘だったかのように、静寂が支配する森の中を、アカシシに跨る少年は、中天に掛けられた虹の橋を渡るが如く、軽やかに駆け抜けていく。
「あれを見ろ!ヤックルだ!アシタカが帰って来たぞーーー!」
「ヒイ様とカヤを呼べ!ヒイ様ーーー!カヤーーー!アシタカだーー!アシタカが帰ってきたぞーーーーー!!」
森を抜けてヤックルから飛び降り、勢いを殺すまでもなく、駆け寄ってきた一回り小さな影とぶつかった。
「兄様!よくぞご無事で!」
許嫁であり、長となるにあたってアシタカと夫婦となったばかりのカヤだった。
涙さえ流して、幼妻カヤは夫の帰還を誰よりも喜んでくれた。
だが、喜びはそこでは終わらないのだ。
「カヤ!好い報せだ!好い報せを持ってきたぞっ…オンテギ様は我らを歓迎して下さっている。あの御方は、我らには解らずとも、我らのことを見守って下さっていたのだ!」
「そうでなければ、カヤのことも、ヒイ様のことも知ってなどいるものか!」
底知れない相手に強い興味関心を持たれていること、それは恐怖をも招くが、同時に福音でもあった。
まして、誰からも忘れ去られたエミシの一族の、その中から更に選んで自分たちを素直に好んで、あちら側から真筆まで添えて招いてくれたという事実が、今更になって立ち上がってきたのだ。
蜃気楼が晴れると、眼前には豊かな新天地。
強く慈悲深い神の腕の中に、寵愛と共に落ち着いたのだ。
「兄様…涙が…」
「ああ、カヤっ…私は嬉しいんだ…やっと…まさか、こんな日が来るなんて、私は考えもしていなかったっ…」
興奮と安堵が感動となって押し寄せ、アシタカの心を強く縛ったのである。
招き寄せられたように、カヤもまた涙する。
長夫婦が泣くのだ、周りも誘われて泣き出す。
なにせ、あのアシタカが涙するのだ。それは吉兆に違いなく、腰に佩かれた神聖さ迸る見事な太刀が、その何よりの証となった。
と、そこへ一族の男に負ぶわれて、巫女であり、西への旅立ちを一族に示唆したヒイ様がやってきた。
「おお、アシタカヒコや、よく戻ってくれた。それで、如何、出逢った?」
ヒイ様からの問いに、アシタカは強い確信を込めて答えた。
「ここが我らの新天地となるでしょう。この太刀が他ならぬ証です。オンテギ様は、自らを傷つけ得る神器を、私に預けてくださったのです!」
「よもや、これほどとは…」
「間違いありません。曇りなき真名己にて見定めました」
アシタカの瞳には涙の膜が張られてキラキラと輝いていた。
澄み切った眼差しに、ヒイ様は頷いた。
「ふむ…葛藤の、或いは憤怒の相も出ていたが…呑まれずに済んだのは、その御方の御蔭かや?」
「はいっ…割り切れるものではないということを、諭されました…青かった、いっそ傲慢でさえあったはずです。しかし、あの方はそれさえも捧げよと、呑んでくださいました…」
アシタカはグッと嗚咽を飲み込んだ。
この丈夫は、男泣きに泣いているのだ。
アシタカの涙など、誰も見たことがなかった。
「皆の衆、長の言葉を聴いたな?支度をいたせ、さ、行くとしよう…我らの新しい故郷へ」
ヒイ様が促すと、皆、涙を流しながら動き出した。
エミシが大和朝廷との戦に敗北してから、この時既に五百有余年の年月が過ぎていた。
狭い村の中で濃くなりすぎた血とその末を巡って、恐怖と不安が渦巻いていた。
希望となるアシタカを導く声と、その声と合わせたとしか思えぬ時期に使者・孫一の手で書状が届けられた。
見たこともない上等の紙と、最上級の賛辞と敬意が込められた文調、何よりも新天地にお招きし、然るべき土地まで贈るという言葉に、諸人は希望と、その希望が偽りであった時に浴びる絶望と苦痛への不安を新たに抱いたのだ。
そして、新に長となったアシタカは声に身を任せ、導きに従うことを決め、一族はこれに殉じることを決意したのである。
旅路は長かったが、導きもあってか誰一人と欠けたるところはなく、一族は毀れのない状態で遥か西の地に辿り着いた。
そこで東へと逃げ散るアサノ公方を捕捉し、これ幸いとばかりに討ち滅ぼし、或いは悉く虜囚に墜としたのである。
これもまた、アシタカに語り掛ける『声』の導きによるものだった。
にっくき大和朝廷の使嗾で神の森を滅ぼしにやってきた武士どもを、悉く屠ることができたのは痛快の極みであった。
そして、今である。
遥かなる城塞へと続く街道の途上で、山犬の遠吠えが響き、猪神の雄たけびが木霊し、猩々に至っては流暢な言葉で歓迎の意を口口に告げた。
『よくきたな、古いニンゲン。シシ神の森へようこそ』
『オンテギ様、お前たちが来てくれて喜んでいる。だから、わしらも嬉しい』
『よく来たな。よく頑張ったな。わしら、お前たちを歓迎する』
猩々たちが去ると、今度は夥しい数のコダマが沿道にびっしりと現れた。
カタカタと頭を鳴らしながら、まるで古きニンゲンの森への凱旋を喜ぶように、彼らはエミシの一族を見守っていた。
エミシの人々は、この地を治める神々が、我らを祝福してくれているのだ、と思いを強く新にした。
そして、太陽に成り代わり、燦燦と燃えるような明るい満月が姿を現す頃。
戦い已んで、静まり返った戦場も後にして、アシタカに率いられたエミシの一族はタタラ場への入城を果たしたのである。
国破れてなんとやら…太陽は明るく、月もまた明るい。
アシタカとエミシの人々の心と同じように、夜空は祥なりと晴れ渡っていた。
山場を無事に越えることもできたし、きりもいいので、ここいらで完結とさせていただきます。沢山の感想、評価、誤字報告をありがとうございました。執筆する上で大変な励みになりました。
約一月の間、拙二次創作を読んでいただきありがとうございました。細かい部分で書かなかった所もままありますが、そこはご想像にお任せします。楽観的な終わり方に仕上げられたかなと…ホッとしております。お付き合いいただきありがとうございました。重ねてお礼を申し上げます。書いてて楽しかったー!気が向けば超外伝を書くかも。
では、また。