キヴォトスにおいて、ゲヘナ学園の風紀委員会といえば、不眠不休でトラブルを処理する過酷な部署として知られている。
毎日どこかで爆発が起き、毎日誰かが治安を乱すこの学園で、風紀委員たちの仕事が途切れることはない。
しかし、その例外がただ1人だけ存在した。風紀委員会の行政官であり、実質的なNo.2である天雨アコだ。
16時50分。
風紀委員会室には、凄まじい速度で書類をめくる音と、キーボードを叩く爆音が響き渡っていた。
アコの指先は残像が見えるほどの速度で動き、ゲヘナ中から集まった膨大な報告書を次から次へと処理していく。
万魔殿からの嫌がらせのような予算申請、温泉開発部の破壊活動による始末書、美食研究会がやらかした食堂爆破の賠償請求。
それらすべてが、アコの完璧なロジックによって一瞬で仕分けられ、適切なファイルへと収まっていく。
アコがここまで驚異的なスピードで仕事を終わらせようとしている理由は、ただ1つ。まもなく17時、すなわち定時がやってくるからだ。
「(あと3分……! この申請書を却下して、万魔殿への抗議文の署名を終わらせれば、今日のタスクはすべて完了。絶対に17時ジャストにこの部屋を出る……!)」
アコは青い髪を揺らし、鋭い視線を画面に走らせる。彼女のトレードマークである大胆な衣装や、首元のカウベル、手首の手枷が、激しい動きに合わせてチャキチャキと音を立てた。
普通なら誰もが音を上げるような激務だが、今のアコには底知れぬエネルギーが満ち溢れている。
「よし、これで終わりです! 完璧、非の打ち所がない処理能力ですね、私は!」
16時59分50秒。アコは最後の書類にハンコを押し、パソコンのシャットダウンボタンをクリックした。
画面が暗くなると同時に、彼女は素早く席を立ち、私物が入ったバッグを手にする。
しかし、その完璧な脱出計画を阻むように、部屋の奥の扉が静かに開いた。
現れたのは、風紀委員長である空崎ヒナだった。
いつも以上に疲れ切った表情をしたヒナは、手にある1束の書類を見つめながら、申し訳なさそうにアコへと視線を向けた。
「あ、アコ……。悪いんだけど、今さっき万魔殿から緊急の通達が届いて……。トリニティとの合同会議に関する資料なんだけど、どうしても今日中に確認しておきたくて。少しだけ、残業できないかな……?」
普段の、そして世間一般のイメージにおけるアコであれば、大好きなヒナの頼みとあれば二つ返事で引き受けたかもしれない。
ヒナのために尽くすことこそが、アコの生き甲斐の1つであることは間違いないからだ。
だが、今の時間は17時00分00秒。定時だ。アコの表情から一切の躊躇が消え去り、きっぱりとした、しかし事務的な笑みが浮かんだ。
「申し訳ありません、委員長。17時を過ぎましたので、私はこれで失礼します」
ヒナは驚いたように目を丸くした。あのヒナ至上主義のアコが、自分の頼みを、しかもこれほど冷徹に断るなど、普通の生徒が見れば天変地異の前触れだと思うだろう。
「えっ……? でも、アコ、これ本当に急ぎで……。私1人だと、万魔殿の嫌がらせの裏を読むのに時間がかかりそうで……」
「その仕事の重要性は理解しています。ですが、私の本日の労働時間は終了しました。その資料に関しては、明日の朝一番で私が完全に処理し、万魔殿の鼻を明かすような完璧な返答を用意しておきます。ですから、今夜は机の上に置いておいてください。それでは、お疲れ様でした!」
「あ、ちょっと、アコ……!?」
ヒナの引き止める声を背中で聞き流しながら、アコは流れるような動作で委員会室のドアを開け、廊下へと飛び出した。
アコがゲヘナ学園に入学してから、残業をしたことはただの一度もない。どれほど大きな抗争が起きようとも、どれほどヒナが困っていようとも、17時になった瞬間にアコはすべての業務を放棄して帰路に就く。
それが天雨アコという人間の、絶対に譲れない鉄の掟だった。
「(ヒナ委員長、申し訳ありません……! でも、今日という日は、私にとっても、我が家にとっても、絶対に遅れるわけにはいかない神聖な日なのです……!)」
アコは早足でゲヘナ学園の校舎を抜け、夕暮れ時の街へと歩を進める。その足取りは、まるで見えない何かに急かされるかのように速い。
だが、ゲヘナの街がアコを大人しく帰してくれるはずもなかった。
路地裏から、武器を手にしたゲヘナの不良生徒たちがゾロゾロと姿を現し、アコの行く手を阻むように立ち塞がった。
彼女たちは、日頃から風紀委員会に恨みを持っているお馴染みの連中だった。
「おいおい、見ろよ。風紀委員会の行政官様が、1人でコソコソどこへ行くんだ?」
「いつも偉そうに説教してくれやがってさあ! 今日は委員長もイオリもいねえみたいだし、日頃の恨みをたっぷり晴らしてやるよ!」
ニヤニヤと下品な笑みを浮かべる不良生徒たち。しかし、彼女たちは決定的な勘違いをしていた。
今のアコは、世界で最も急いでいる。そして、最も邪魔をされたくない瞬間を迎えているのだ。
「……どきなさい」
アコの声は、地を這うように低く、冷たかった。その瞳には、いつもの理知的な輝きではなく、野生の獣のような怒りの炎がメラメラと燃え盛っている。
「ああん!? 何言ってんだお前、形勢逆転だって分かって――」
「どけと言っているのが分からないのですか、このド低脳どもがアアアアッ!!」
アコは走る足を一切止めなかった。それどころか、さらに加速して不良たちの集団へと突っ込んでいく。
「な、なんだあいつ!? 撃て、撃――」
「邪魔をするなあああああああッ!!!!」
アコは手にした重い鞄を容赦なく振り回し、先頭の生徒の顔面に叩きつけた。鈍い音が響き、1人が派手に消し飛ぶ。
すかさず別の生徒が銃口を向けるが、アコは信じられない身のこなしでそれをかわし、相手の懐に飛び込むと、日頃の激務で鍛え上げられた強烈なストレートを腹部に叩き込んだ。
「ガハッ!?」
「私の、私の神聖な時間を1秒でも無駄にしたら、万死に値します!!」
怒髪天を突いたアコの戦闘力は、普段の後方支援モードからは想像もつかないほど圧倒的だった。
銃を撃つ暇さえ与えず、走る勢いのまま拳とキック、そして鞄の角を使った容赦のない一撃で、襲いかかってきた不良たちを次々と殴り倒していく。
「ひ、ひえええっ!? 化け物かよ!!」
「待ちなさい! まだ1人残っていますよ!」
逃げようとした最後の1人の襟首を掴み、そのまま地面に叩きつける。路地裏には、あっという間に十数人の不良生徒が気絶して転がることになった。
アコは呼吸を乱すこともなく、乱れた衣服をサッと整えると、再び猛然と走り出した。
「(急がないと……! 計算では、もう始まっているかもしれない……!)」
アコが向かったのは、ゲヘナ自治区の高級マンション街にある、彼女自身の自宅だった。
ハアハアと息を荒くしながらエレベーターに飛び乗り、自身の部屋の前へとたどり着く。鍵を差し込み、勢いよく扉を開けた。
「ただいま戻りました……!!」
扉を開けた先にある光景は、一般的な女子高生の部屋とは到底かけ離れた、異様な世界だった。
玄関を入ってすぐの床には、隙間なく並べられたプラスチック製の飼育ケース。廊下の両脇にも、整然と積み上げられた透明なケースがズラリと並んでいる。
ケースの中には、入念に発酵された黒々とした腐葉土が詰まっており、いくつかのケースからは「サク、サク」と、何かが土を噛むような微かな音が響いていた。
そう、天雨アコは、キヴォトスでも知る人ぞ知る、筋金入りの『カブトムシ愛好家』なのである。
彼女が手塩にかけて育てた個体たちは、マニアの間で『天雨ブランド』と呼ばれ、驚異的な美しさとサイズを誇ることで有名だった。
「ああ、みんな、お留守番偉かったですね……!『ママ』が帰ってきましたよ!」
先ほどまで不良たちを殴り倒していた冷酷な行政官の姿はどこへやら、アコはとろけるような笑顔を浮かべ、廊下のケースの1つに顔を近づけた。
「よしよし、今日も元気に土を食べていますね。本当に可愛い我が子たちです……!」
アコはケースを踏まないように慎重に、かつ急いで廊下を進み、リビングへと入る。そこはもう、カブトムシ博物館そのものだった。
壁一面に特注の棚が設置され、天井に届くまでびっしりと飼育ケースが積み上げられている。
温度管理と湿度管理のためのエアコンや加湿器がフル稼働しており、部屋全体が独特の、心地よい腐葉土の香りに包まれていた。
世界中のありとあらゆるカブトムシが、この部屋でアコの英知によって管理されているのだ。
アコが昔からカブトムシを愛している理由は、その完璧な造形美と、無駄のない生命のサイクルにある。
風紀委員会でのドロドロとした人間関係や政治劇に疲れたアコの心を癒してくれるのは、いつもこの静かで美しい甲虫たちだった。
だからこそ、彼女はカブトムシの世話を何よりも優先する。
もし、この部屋にいる「天雨ブランド」のカブトムシたちに値段がつけられるとしたら、世界的なオークションに出せば相場の最低でも『30倍』の値がつくことは確実だった。
例えば、一般的なヘラクレスオオカブトの成虫ペアの相場が『1.5万クレジット』だとすれば、アコが育てた個体は『45万クレジット』を超える。
コーカサスオオカブトの相場が『3000クレジット』なら、天雨ブランドは『9万クレジット』だ。
その圧倒的な角の太さ、傷1つない漆黒のボディは、マニアなら全財産を投げ打ってでも欲しがる至高の芸術品なのである。
「(でも、売りませんけどね。この子たちは私の家族であり、命そのものですから)」
アコはバッグを床に置くと、部屋の中央にある特別な保温室へと直行した。
そこには、世界最大級の重量を誇るカブトムシ、『アクティオンゾウカブト』の蛹が入った人工蛹室が設置されている。
ケースを覗き込んだアコは、小さく息を呑んだ。
「……あ。間に合った、本当に間に合いました……!」
人工蛹室の中で、巨大なチョコレート色の蛹が、かすかにピクリと動いた。
蛹の背中の皮が縦に裂け、中から湿った、純白に近い淡い黄色の前胸背板がのぞいている。羽化が、今まさに始まったのだ。
アクティオンゾウカブト。幼虫期間が3年近くに及ぶことも珍しくない、飼育者の忍耐が試される超大型種だ。
アコはこの「坊や」を、卵の段階から3年以上、毎日毎日、温度をコンマ1度単位で管理し、最高級の腐葉土を与え続けて育ててきた。
「頑張れ……頑張れ、私の坊や……!」
アコは床に膝をつき、ケースの前に座り込んだ。ここからが最も危険な時間だ。
ゾウカブトはその巨体ゆえに、羽化の際に自分の重みや足の引っかかりで、羽が綺麗に伸びきらない「羽化不全」を起こしやすい。もし羽が曲がって固まってしまえば、命に関わることもある。
アコは息を潜め、手元にピンセットと湿らせたティッシュを用意した。もし坊やの足が滑りそうになったら、優しくサポートしなければならない。
じっと見つめるアコの目の前で、アクティオンゾウカブトの坊やは、ゆっくりと、しかし確実に古い皮を脱ぎ捨てていく。
巨体が波打つように動き、白い上翅が少しずつ露出していく。
1時間が経過した。アコは微動だにしない。足が痺れようが、背中が痛もうが、視線を1秒たりとも逸らさなかった。彼女の全神経が、坊やの生命の神秘に集中している。
「(うう、なんて美しいフォルム……。この圧倒的な厚み、重厚感……。3年間、暗い土の中でじっと耐えて、ようやく光を見るのですね……!)」
さらに1時間が経過し、羽化開始から2時間が経った頃。アクティオンゾウカブトの坊やは、完全に皮を脱ぎ終え、人工蛹室の中で仰向けになりながら、まだ柔らかい白い羽を美しく伸ばしきった。
歪みは一切ない。完璧な、文字通り完璧な羽化だった。
「う、うう……。おめでとう……おめでとう、坊や……!」
アコの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。2時間、極限の緊張状態でサポートし続けた疲れと、それ以上の深い感動が胸に押し寄せたのだ。
まだ体液で潤んでいる坊やの体を愛おしそうに見つめながら、アコは何度も目元を拭った。
「本当によく頑張りましたね……。ママは、ママは本当に嬉しいです……!」
無事に羽化を見届け、完全に緊張の糸が切れると、アコの腹から「グウゥゥ」と大きな音が鳴り響いた。時計を見ると、すでに19時半を回っている。
「あ、あら……。すっかりお腹が空いてしまいましたね」
アコはヨロヨロと立ち上がった。カブトムシへの愛情は海より深いが、彼女自身の食生活は極めて質素だ。
なぜなら、収入の9割以上が、世界中から取り寄せる最高級の発酵腐葉土や、温度管理のための莫大な電気代、特注の飼育ケース代に消えていくからだ。
カブトムシの食費(ゼリーや栄養剤)は惜しまないが、自分の食費は限界まで削る。それが天雨ブランドを維持するための鉄則だった。
「とはいえ、倒れてしまってはみんなのお世話ができませんからね。今日も激安メニューでサッと済ませましょう」
アコはキッチンに立ち、手際よく自炊を始めた。今日のメニューは「もやしと豆腐の激安卵とじ丼」だ。
材料費は、キヴォトスの激安スーパーマーケットで底値を狙って買ったものばかりである。
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【本日の夕食(材料費内訳)】
・もやし(1袋):30クレジット
・豆腐(半丁):20クレジット
・卵(1個):25クレジット
・ご飯(冷凍保存の残り):30クレジット
・調味料(醤油、みりん、出汁の1回分換算):15クレジット
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合計:120クレジット
120クレジットという、100クレジット台の驚異的な激安飯。アコはフライパンでシャキシャキのもやしと豆腐を炒め、出汁と醤油で味を整えると、溶き卵を回し入れて一気にとじた。それをホカホカのご飯の上に乗せれば完成だ。
どんぶりを手に、アコは再び飼育部屋へと戻ってきた。床に座り、まだ羽が白く神秘的に輝いているアクティオンゾウカブトのケースの前に陣取る。
「いただきます」
スプーンでもやしとご飯を口に運ぶ。出汁の味が染みたもやしは、安くても十分に美味しい。しかし、アコの味覚を満たしているのは、目の前の素晴らしい光景だった。
「ふふ…美味しいです。でも、目の前で美しく輝く坊やの姿を見ながら食べるご飯は、どんな高級レストランのディナーよりも贅沢ですね……」
アコはどんぶりを抱えながら、ケースの中の坊やに向かって、優しく語りかけた。
「見てください、坊や。あなたのその立派な体を作るために、ママは毎日頑張って働いているんですよ。ゲヘナの風紀委員会なんて、本当にバカバカしくてやっていられない仕事ばかりですけれど、すべてはあなたたちをこの手で育てるための資金稼ぎですからね」
スプーンを動かしながら、アコはさらに周囲のケースを見渡した。別の棚では、ヘラクレスの「坊や」たちがモゾモゾと動き、メスの「姫ちゃん」たちがゼリーを舐めている。
「みんな、本当に良い子たちです。ヒナ委員長は私のことを、仕事熱心だとか、自分を支えてくれる大切なパートナーだなんて言ってくれますけれど……ふふ、もし私が、委員長と同じくらいあなたたちのことを愛しているって知ったら、どんな顔をするかしら?」
アコは激安の卵とじ丼を綺麗に平らげると、満足げに息を吐いた。
「定時で帰る私を、みんな不思議そうに見ていますけれど、当然じゃないですか。こんなに可愛い我が子たちが家で待っているのですよ? 1秒でも早く帰って、お世話をして、こうして見守る。これ以上の幸福が、このキヴォトスのどこにあるというのですか」
アコは空になったどんぶりを置き、再びアクティオンゾウカブトのケースに顔を近づけた。少しずつ、坊やの羽に黒みが混じり始め、本来の漆黒の重戦車のような姿へと近づきつつある。
「さあ、ゆっくり休んで、体を硬くするのですよ、私の可愛い坊や。明日の朝も、ママはあなたたちのために、誰よりも早く仕事を終わらせて帰ってきますからね……」
世界を揺るがすゲヘナ学園の裏で、行政官・天雨アコの、カブトムシに全てを捧げた狂熱の日々は、まだ始まったばかりだった。