【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
過去の履歴が「マージ済み」のため、切り戻し(ロールバック)不可能という絶望的な状況に追い込まれた結衣。
しかし、彼女は諦めません。地学と流体力学を融合させ、バグによって生まれた「大穴」すらも、システムを救うための冷却ポンプとして利用する「極限のハッキング」を開始します。
深夜十時、刻一刻と迫る24時の強制終了(SIGKILL)の足音。
上流工程の誇りを賭けた、結衣の怒涛のホットパッチ作成劇をお楽しみください!
「画面が赤すぎる……。目が、チカチカする……」
液晶グラスの向こうでは、ユーザーC――あの脳筋一級建築士の
山脈に開けられた巨大な大穴。そこから吹き出す
「嘘でしょ……生存確率のグラフが、ナイアガラの滝みたいに垂直落下してるじゃない。何よこれ、マイナス九〇パーセント!? 私の、私の完璧な
結衣は半狂乱になりながら、コンソールにコマンドを叩き込んだ。
「ミネルヴァ! 今すぐ環境データを一世代前へ
エンターキーを親指で激しく叩きつける。しかし、スピーカーから返ってきたのは、結衣の焦燥をあざ笑うかのような冷徹な電子ビープ音だった。
『却下。要求されたロールバック処理を実行できません』
「なんでよ!? 私はこのプロジェクトの環境責任者よ!? なんで切り戻し権限が拒否されるのよ!」
『ログの解析結果を出力します。……当該の地形データDELETE、および大穴の生成命令は、すでに過去のローカルブランチからマスターブランチへ
ミネルヴァの淡々とした宣告が、結衣の頭を殴りつけた。
「マージ済みの過去データをRevertできない!? そんなのってないじゃない! 上流工程のテロを、
絶叫しながらデスクを叩く。だが、システムは非情だ。
非同期開発における最大の恐怖。それは「すでに過去の共通データに混入し、マスターにマージされてしまったバグ」だ。過去が書き換わったことで、そこから分岐した三百年分の歴史のすべてがバグを前提として確定してしまっている。未来にいる結衣がどれだけ「無かったことにしてくれ」と叫んだところで、すでに積み上がってしまった三百年分の歴史の因果関係を逆流して消去することは、タイムパラドックスの例外エラーを起こすためシステムが絶対に許さない。
ピピピピピ、と不穏な追加アラートが鳴る。
『警告。大穴のバイパス化に伴い、侵入パケット(遊牧民軍団)の進軍速度がさらに加速。予測到達時間まで、システム時間で残りわずか。防衛ラインの消失により、ユーザーBの部族の生存確率は……算定不可。ゼロに収束します』
「う、うそ……」
結衣は目を見開いた。
大穴が開いたことで、敵にとってそこは「罠の張られた狭隘な渓谷」ではなく、「防衛手段の存在しない高速道路」へと変貌している。数万の超精強な遊牧民の赤パケットが、砂漠化してパニックに陥っているBの集落へと、猛烈な速度で直撃コースを突き進んでいた。
「あ、頭が痛い。っていうか、胃が、胃がちぎれそう……!」
結衣はデスクの引き出しを乱暴に引っ張り開けた。中には書類ではなく、大量の市販の胃薬――の形をしたラムネ菓子のボトルが転がっている。
彼女はボトルのキャップを歯で引き抜き、白い粒を手のひらに数粒ぶちまけると、それを一気に口の中に放り込んだ。ボリボリ、ボリボリと、オフィスに湿った咀嚼音が響く。強烈なブドウ糖と酸味が、パニックでシャットダウンしかけていた彼女の脳細胞を、強制的にエンジニアモードへと再起動させた。
「落ち着きなさい、天宮結衣。泣いたって仕様書は変わらないし、バグは消えない。これがデプロイ直後の
ボトルをデスクに叩きつけ、液晶グラスの奥のデータを睨みつける。
視界の端の時計は、すでに午後九時三十分を回っている。
「過去のマスターブランチが書き換えられないなら、大穴を物理的に塞ぐコードはない。切り戻しができないなら……現在進行形のこの断面に、直接上書きで環境バフの
障害の分析を開始する。
現在発生している問題は二つ。
一つ目は、
二つ目は、
原始的な武器しか持たないBの部族が、この砂漠化のデバフを受けながら、超絶強化された遊牧民の直撃を受ければ、一瞬で消滅する。
「壁が作れないなら、敵の足を止める別のリソースが必要……。砂漠化を食い止めつつ、敵の進軍コストを最大化できるような、都合のいい環境オブジェクトなんて……」
結衣はホログラムの深度を切り替え、地質データレイヤーを深く潜っていった。地表の茶色い砂漠を透過し、その下にある岩盤の構造を、エンジニアの執念で凝視する。
その時、彼女の目が、ある特定のデータ構造に釘付けになった。
「……これ、私が水曜日に施工した時の
山脈の麓、地中深くの遮蔽された領域に、莫大なエネルギーの塊が眠っていた。
結衣が
「地下には、数百年分の圧力が蓄積された超高圧の地下水脈。そして地表の大穴には……
結衣の脳内で、バラバラだった地学と流体力学の数式が、一つの美しいアルゴリズムへと収束していく。
「……繋がった。圧力の、『
結衣の唇が、自然と吊り上がった。
「大穴を吹き抜ける暴風のせいで、地表の気圧は極端に下がっている。それに対して、地下の水脈は超高圧。つまり、この二つの間には、今この瞬間に猛烈な『
それは、炭酸飲料のボトルに穴を開けるようなものだ。あるいは、極限まで膨らんだ風船に針を刺すようなものだ。
地下の高圧水は、外部からの動力ポンプなんて一切使わずに、大気圧のポテンシャル差という自然のエネルギーだけで、地表へと一気に、爆発的に噴出する。
「しかも、この地下水脈のデータライン……都合のいいことに、大穴の出口から、Bさんの集落の目の前まで一本のパイプラインとして繋がっているわ。だったら、大穴の出口だけじゃなくて、二箇所同時に岩盤を
結衣は即座にキーボードを引き寄せ、猛烈な速度でホットパッチのソースコードを書き始めた。画面に、緑色の幾何学的な設計図がホログラムで高速展開されていく。
設計思想は「二大水源による遅滞戦闘と
「まず第一水源。大穴の出口、敵が必ず通過するバイパスの起点。ここに地下水を大噴出させる。湧き出た大量の冷水が、大穴から吹き出す熱風を直接冷却し、
どれだけ敵の騎馬軍団が精強だろうと、馬の足が完全に埋まるほどの泥濘の中では、進軍速度は極限まで低下する。強制的なトラフィック制限、移動コストの超絶デバフだ。
「そして第二水源。水脈の終点である、Bさんの集落のすぐ目の前。ここにも同時に水を噴出させ、豊かな『急造オアシス』を
カタカタカタカタカタカタカタッ!!!
結衣のタイピング音が、夜のオフィスに激しく響き渡る。
画面上の時計は午後十時。
全社PC強制シャットダウン、猶予一切なしの【
「ユーザーCのバグで開いた大穴を、冷却水の吸い上げポンプの動力源へと反転させてやったわ。上流工程を舐めないことね。仕様変更の負荷すら、システム構築のエネルギーに変換してやるのが、プロのデバッグよ!」
結衣はグラスの奥の目をギラリと光らせ、両腕をARホログラムの大地へと深く突き刺した。
ここからは、一分一秒の遅延も許されない、リアルタイムの
第15話をお読みいただき、ありがとうございました!
「過去のコミットが消せないなら、現在にパッチを当てるしかない」という、エンジニアの執念(と胃薬)が生んだ逆転の発想、いかがでしたでしょうか。
「二大水源による遅滞バッファ」という設計は、結衣の完璧主義者としての真骨頂です。しかし、どれほど素晴らしい設計も、デプロイが完了しなければ意味がありません。
時計の針は22時を回り、残るはあと二時間。
迫り来る強制終了シグナルと、暴走する大自然。次回、16話にていよいよ結衣の運命が決まります。
深夜のオフィスで繰り広げられる、最後のデバッグ・クライマックスをぜひ見届けてください!