【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
迫り来る24時の強制終了シグナル、その絶対的な期限を前に、結衣は地質データと流体力学を駆使した「二大水源による泥濘(マッド)バッファ」という奇跡のパッチを組み上げます。
しかし、システムエンジニアにとって最も恐ろしいのは、バグそのものではなく、作業を強制中断させる冷酷な管理システムです。
メモリキャッシュの書き出しすら許さず、すべてを無に帰す【SIGKILL】。果たして結衣の必死の構築は、無事にマスターへマージされるのか。絶望のデッドラインが今、幕を開けます。
キーボードを叩く打鍵音が、もはや一つの連続した駆動音となって深夜のオフィスに鳴り響いていた。
時計の針は午後十時を回った。
液晶グラスの向こうでは、数万の遊牧民を示す真紅のパケットが、砂漠化の
「泣いても仕様書は変わらない。
結衣はギラついた目で画面を睨み、地中深くのデータ構造へと、岩盤を強引にこじ開けるための
ターゲットは、地殻の奥深くに
本来であれば、地表へ水を汲み上げるには莫大な電力と巨大なポンプの
だからこそ、彼女は「バグ」そのものを利用することにした。
ユーザーCのやらかしによって開いた山脈の大穴。そこを吹き抜ける暴風は、
地下は超高圧、地表は超低気圧。この二つの間には、今まさに決壊寸前のダムのような、圧倒的な『
「地表の最も脆弱なポイントを指定……。ここに
午後十一時。
すべてのソースコードが組み上がり、結衣は狂ったようにエンターキーを叩きつけた。
「
『パッチ適用完了。現在時間軸の
ミネルヴァの機械的な応答と同時に、三次元シミュレーションマップの上で、劇的な変化が巻き起こった。
山脈の大穴の出口――敵の遊牧民が必ず通過する最短ルートの起点において、大地が内側から爆散するように激しく弾け飛んだのだ。
その瞬間、封印されていた地下水脈が、数百年の圧力を解放されて天高く激しく噴出した。数十メートルに及ぶ巨大な間欠泉が、大穴の出口にいくつもポップする。
湧き出た冷気の塊である大量の地下水は、大穴から吹き出す灼熱の熱風と衝突し、
それだけではない。極限まで乾燥しきっていた大地へ、毎秒数百トンもの水が容赦なく流れ込む。乾いた砂は瞬時に水を吸い込み、ドロドロとした底なしの湿地帯、すなわち移動コストを最大化する
「さらに、水脈の終点……! Bさんの集落の目の前も
もう一つの大爆発と共に、Bの部族が身を寄せる居住区の目の前にも、こんこんと湧き出る巨大な泉が出現した。枯れかけていた草木が潤いを取り戻し、砂漠の真ん中に豊かな急造オアシスが緊急デプロイされる。
「よしっ!
結衣が拳を握りしめる。
大穴を抜けて突撃してきた遊牧民の赤パケット軍団が、その第一水源が作り出した泥濘地帯へと次々に突っ込んでいく。馬の足が深く沈み込み、彼らの進軍速度は四百パーセントから、わずか十パーセントへと大暴落した。
突然の泥の沼に足を取られ、敵のアルゴリズムが混乱を起こしているのがログから見て取れる。それと同期するように、垂直落下を続けていたBの部族の生存確率グラフが、底を打って急激に右肩上がりへと反転した。
午後十一時十分。
勝った、と結衣は確信した。あとは敵がこの泥濘に阻まれて完全に戦意を喪失し、シミュレーションが正常終了
しかし、システムが想定するよりも、学習を積んだ敵の
泥濘にハマり、移動速度を極限まで制限されながらも、遊牧民のパケットは泥を這いずり回り、オアシスの先にあるBの集落を目指して、泥まみれになりながらジリジリと前進を続けているのだ。わずかに泥濘を突破し、第二水源のオアシスへと近づく個体が出始める。
「嘘、まだ進んでくるの!? しぶといわね……! 早く撤退ログを吐き出しなさいよ!」
時計の針は、無情にも午後十一時四十分を指していた。
イベントの完全防衛成功が確定し、システムログが正常
「あと二十分……! あと二十分だけ持ちこたえて! 画面が変わって、
結衣は祈るようにコンソールにしがみついた。心臓が痛いほどに脈打つ。
無情にも時が流れ、液晶グラスの時計が、午後十一時五十九分五十九秒を刻み――そして、午前零時ちょうどへと切り替わった。
その瞬間。
なんの前触れもなく、オフィスの主電源が完全に落ちた。
視界を埋め尽くしていた鮮やかな三次元ホログラムも、コンソールの明かりも、すべてが一瞬で消失し、オフィスは完全な静寂と漆黒に包まれた。デスクの隅にある、会社が導入したスマート電源管理システムの、冷酷な赤色LEDだけが闇の中でぽつりと点滅している。
「待ってえええええ! まだ防衛成功のステータスコード(200 OK)を見てない! それどころか、メモリキャッシュの書き出し(マスタデータへの保存)すらしてないのよ! 今プロセスを殺されたら、今回のホットパッチの全ログが消失して、月火であれだけ命を削って溜めた残業代も、私の
暗闇のオフィスで、結衣の悲痛な絶叫が木霊する。
通常のシステム終了(SIGTERM)であれば、終了処理の猶予が与えられ、メモリ上のデータをマスターへ書き出すクリーンアップが行われる。だが、二十四時を回った労務管理システムに、そんな生ぬるい例外処理は存在しない。
スマートフォンの画面が、嫌がらせのようにポップアップを発光させた。脳内へと直接響くような、ミネルヴァの非情なアラートが通知される。
『猶予はありません。【
プツン、と最後の残響すら残さず、すべての通信プロセスが完全に遮断された。
「私の……月火の残業代と、ファイブナインが……」
自分の放ったホットパッチが成功したのか、それとも書き出しが間に合わず、ログごと揮発してBの部族が全滅したのか。
その結果を一切確認することを許されないまま、結衣はただ一人、深夜零時の真っ暗なオフィスに取り残された。データサイエンティストとしてのプライドも、数百年の平和の行方も、現実の冷酷な労務管理ルールという名の暴力によって、文字通り「なかったこと」へと強制終了させられたのだった。
第16話をお読みいただき、ありがとうございました。
「月火で貯めた残業代とファイブナインが……!」という結衣の悲痛な叫び、共感していただければ幸いです。システムエンジニアにとって、深夜0時の強制電源断は、まさに物理的なテロと言っても過言ではありません。
ついに迎えてしまった強制終了。泥濘に足を取られた遊牧民たちはどうなったのか、そしてBの部族の運命は……?