【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
昨夜の強制終了(SIGKILL)の悪夢から一夜明け、結衣は恐る恐るコンソールを開きます。
データは無事なのか? 泥濘(マッド)バッファと急造オアシスによる「環境パッチ」は、三百年後の世界でどういう結果を残したのか?
「生存率100%」という美しいグラフを前に、データサイエンティストとしての矜持を取り戻した結衣。
しかし、その数字の裏側に隠された「現場の惨状」を、彼女はまだ知る由もありません……。
金曜日の朝。オフィス街の無機質なコンクリートのジャングルを歩く
重い足取りで会社のゲートを潜り、エレベーターの冷たい手すりに寄りかかる。胃の奥底が、鉛を呑み込んだようにズキズキと重く痛んでいた。
昨夜、午前零時ちょうどに執行された労務管理システムの死刑宣告――【
通常のシャットダウン処理である
だが、あの憎き労務管理システムが放った【SIGKILL】は違う。一切の
(消えてる……絶対、データが消えてるわ……。私が月火に命を削って溜めた残業代も、昨日必死で組み上げた
自席に辿り着いた結衣は、ガタガタと震える手でデスクの椅子を引き、祈るような気持ちでメインコンソールの電源ボタンに指を伸ばした。
もし昨夜のパッチが
「……お願い、生きてて。私の残業代と、完璧な
電源を入れる。低い駆動音と共に、液晶グラスの奥でミネルヴァのシステムが立ち上がった。
『おはようございます、オペレーター。昨夜二十四時零分零秒、社内システムからの強制切断シグナルを受信し、全プロセスを強制終了しました。本日の業務を開始しますか?』
「ミネルヴァ! 昨日のダンプファイル! 私が最後に叩き込んだパッチの
結衣が悲痛な声で叫ぶと、ミネルヴァは数秒の沈黙の後、淡々とした合成音で答えた。
『ログの解析結果を出力します。……ステータス:
「え……?」
『【SIGKILL】シグナルがプロセスを強制終了させる直前、残り三ミリ秒のタイミングで、ホットパッチのメモリキャッシュがマスターデータへと正常に
「……生きてる」
結衣の口から、魂の抜けたような声が漏れた。
奇跡だ。システムが完全に息の根を止められる直前、瞬きの千分の一というタッチの差で、結衣の書き直したホットパッチは本番環境の歴史へと滑り込んでいたのだ。
「よかった……! 本当に、本当によかった……!」
張り詰めていた緊張が一気に解け、キリキリと痛んでいた胃が急激に軽くなる。
結衣は深く息を吐き出すと、デスクに突っ伏しそうになるのをこらえ、さっそく昨夜のイベント――遊牧民襲来の最終結果を確かめるべく、タイムラインの
結衣のコンソールには、現地の凄惨な戦闘映像や、泥まみれになって悲鳴を上げる部族の生々しい姿などは一切映らない。データサイエンティストである彼女の前に提示されるのは、冷徹な数式と、一本の「生存率の統計グラフ」だけだ。
「ミネルヴァ。フェーズ2終盤、イベント終了時までの詳細な
『了解しました。時系列に沿ってグラフを展開します』
空中にホログラムの折れ線グラフが浮かび上がる。それは実にドラマチックな軌跡を描いていた。
『木曜日のシミュレータ時間軸において、ユーザーCの破壊活動に起因する
グラフの線が地の底を這うような真っ赤な警告色に染まっているのを見て、結衣は改めて背筋を凍らせた。
「あの脳筋建築士……! マジで私のプロジェクトを更地にするところだったじゃない……。それで、私のパッチが当たった後は?」
『午後十一時三十分十五秒。オペレーターが投入した【二大水源(地下水脈爆破)パッチ】が稼働を開始。その直後、第一水源が作り出した
ミネルヴァの言葉と共に、地の底を這っていた赤いグラフが、カクンと鋭角に上を向いた。
『泥濘による物理的な
「ふふっ……あはははっ! 見たか脳筋建築士! これぞ流体力学とデータサイエンスの悪魔合体よ!」
急上昇する緑色のグラフを見つめながら、結衣はデスクの椅子を大きく回転させ、ガッツポーズを決めた。
『そのまま曲線は上昇を続け、最終的なイベント終了時において、Bの部族の生存率は天井である「一〇〇パーセント」の直線へと完全に固定されました』
画面の中央で、大きなポップアップが誇らしく明滅する。
【200 OK / フェーズ2:正常終了(正常クローズ確認)】
「よしっ! 生存率一〇〇パーセント! イベントは無事に完全クリアね!」
ミネルヴァはホログラムの端に、いくつかの細かなエラーログを提示した。
『報告。トラフィックの異常混雑によるパケットの激しい衝突、および第二水源の出現位置における局所的な環境値の乱高下――大規模な水害、ならびに洪水の兆候がログに記録されています。現地の詳細な被害状況をレンダリング(視覚化)しますか?』
「必要ないわ。非表示で」
結衣は即座にその提案を却下した。
一時的に大洪水が起きようが、部族が泥沼の中で死に物狂いの遅滞戦闘を強いられていようが、結果としての数字が「一〇〇パーセント」で完璧なら、途中の泥臭いプロセスなど上流工程には関係のないことだ。現場がどれだけ悲鳴を上げていようと、最終的な成果物(ログ)が正常であれば、システムとしては「大成功」なのである。
「やっぱり、私がCの開けた大穴の脇に『オアシス(水源)』を配置してあげたから、それが防衛の要、環境的アドバンテージとして完璧に機能したんだわ! 急な仕様変更にも即座に対応して環境を再定義する。さすが私の環境デザイン、データサイエンスの勝利ね!」
結衣は自分の施したホットパッチが、狙い通りに美しくワークしたのだと確信し、誇らしげに胸を張った。自分の天才的な機転が、原始的な部族に豊かな水と平和をもたらし、彼らを救ったのだと信じて疑わなかった。
彼らが今頃、突然の熱風と大洪水によって滅茶苦茶になった土地で、途方に暮れていることなど知る由もない。
「さて、と。結果のレポート(掲示板へのドヤ顔書き込み)の構成でも考えながら、今日の定時退勤に向けて、まったり
すっかり胃の痛みも消え去り、全快した気分でコーヒーのマグカップを手に取る。
金曜日の朝。世界で一番憂鬱な週の終わりは、結衣にとって至高の達成感に満ちた朝へと変わっていた。頭の中ではすでに、土日の休日リソースを使って、二度とユーザーCに環境を荒らされないための「完璧な隔離システム」を構築する計画が回り始めている。
自分が次に行う【C対策】のシステム構築が、後のフェーズ3において、Bの部族に更なる絶望を与える「管理社会の罠」になるとは思いもせずに。結衣は鼻歌交じりで、現実の生々しい社畜業務(週報作成)へとキーボードを叩き始めた。
第17話をお読みいただき、ありがとうございました。
生存率100%のグラフを見てドヤ顔をする結衣と、彼女の「環境デザイン」によって大洪水と泥沼の二重苦を味わったであろうBの部族たちの温度差、いかがでしたでしょうか。
「結果がすべて」と信じて疑わない上流工程のエンジニア・結衣。
彼女は自身の成功に酔いしれながら、次の週末、さらなる「完璧な管理社会」を築くためのKPT(振り返り)へと向かいます。