【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
「マップの完全リセット? 却下よ。そんなことしたら、この極上の
天宮結衣は、目の前に浮かぶ地球儀サイズの巨大なARホログラムに向けて、両手を大きく突き出した。
親指と人差し指を広げ、空間を強引に
駆動音と共に、六畳間の暗闇が目まぐるしく明滅した。
光の粒子が爆発的に膨れ上がり、結衣の視界を未開の大地が埋め尽くしていく。
スケールが数千分の一へと凝縮され、彼女は今や、数畳ほどの広さに拡大された【セクターB-4】の局所マップの真上に立っていた。
結衣はスリッパを脱ぎ捨て、仮想の地面へと這いつくばった。
ホログラムの泥炭に顔を近づける。物理的な距離で言えば、わずか数センチ。オタクが推しの祭壇を眺めるような、完全なる
「サクッとこの知能バグを処理して、定時にログアウトする。ここで文明が途絶えたら旧石器時代からやり直し(リロード)、私の土日休み(有給)が消滅する。それこそが現代データサイエンティストの
結衣の瞳が、解析者の鋭い光を放つ。
視線の先では、他のエリアで『神の恵みのウォータースライダー』と喜んで全滅したアホなNPCたちとは、完全に一線を画す光景が広がっていた。
引き波の泥水が敷き詰められた大地を、原始人たちが整然と行き交っている。
「ミネルヴァ、他部族との比較データを、このセクターの頭上に
『了解。セクターB-4の内部データを展開します』
システムAIの声と共に、部族の集落の上に半透明のホログラムグラフが立ち上がった。
他部族のデータを示す灰色の線が底を這う中で、セクターB-4を示す青い折れ線グラフだけが、天を衝くような角度で垂直に跳ね上がっている。
「……食料備蓄の
結衣の背筋に、ゾクリとした歓喜の戦慄が走った。
「信じられない。この
これほどの最適化されたデータ、原始人の
「これは……未来の
結衣は狂ったように指先を動かし、集落の
注視すべきは、彼らの『動き』だ。
結衣は、集落の中心で慌ただしく指示を出す、一人の冴えない青年の挙動に目を留めた。
青年が手を挙げた、まさにその瞬間。
集落にいるすべての原始人たちの頭上に、システムが自動生成した
「――ッ! 個体が賢いんじゃないわ!」
結衣は思わず、ホログラムの地面を両手で叩いた。ピリピリとした静電気が手のひらを刺激する。
「リーダーの動作という単一のシグナルを起点にして、部族全体がまるでアリの群れのように
画面の向こうの原始人たちは、結衣の目にはもはや最新鋭のサーバーラックに見えていた。
「特定の天才(中央集権)の出現に依存しない、集団としての
「……この最適化されたタスク配分。この無駄のない労働力配置。……まさか、この石器時代に
天才だ。この部族の背後にある、目に見えない
「最高に尊いバグじゃない……! 寿命で個体が入れ替わろうとも、この洗練された
だが、画面を凝視する結衣の脳裏に、ふと、データサイエンティストとしての冷徹な違和感がよぎった。
「……おかしいわね。初期NPCの知能パラメータは一律のはずなのに、なぜこの部族だけ、私の気象予測モデルの限界を
画面を凝視する結衣の脳裏に、データサイエンティストとしてのスリリングな仮説が浮かび上がる。
「――そうか! これが、遺伝的アルゴリズムの極致……! 淘汰の極限状態に置かれたことで、ニューラルネットワークが奇跡的な確率でブレイクスルーを起こし、
結衣は立ち上がると、髪を乱暴に掻きむしりながら、開発者専用の
「まずは
彼女の両手がホログラムを乱暴に捏ねると、セクターB-4の境界線に沿って、光の粒子で編まれた巨大な山脈と、満々と水を湛えた湖が力技で生み出された。
ただサクッと終わらせて残業を回避したい一心での、あまりにも過保護な地形上書き。
『警告。ユーザーAによる、局所的な地形パラメータの不自然な書き換えを確認』
ミネルヴァの冷酷な突っ込みが、室内の温度を一段下げる。
『これは明確な『依怙贔屓』であり、環境シミュレーターの公正性を著しく損なう不条理な行為です。――ですが、ユーザーAの提示した熱力学モデルの美しさを考慮し、バックグラウンドでの座標展開リソースを二五パーセント最適化します』
「あら、口ではダメって言いながら手際よく地形描画を補助してくれるなんて、ミネルヴァちゃんツンデレね?」
『……否定します。ただの仕様です。ユーザーAの無茶な手際を放置すると、私の論理回路がオーバーヒートするため、やむを得ない被害軽減措置をとったまでです』
「はいはい、ありがとう。見てよ、この美しい山と湖! これでこの子たちは絶対安全、完璧な安住の地で爆速で文明を花開かせるわ。私の作った最高傑作(環境)を、完璧に使いこなして頂戴!」
結衣は、ドヤ顔で紅茶のカップを再び引き寄せた。
――しかし、神(下請け業者)である彼女はまだ知らなかった。
納期を死守し、残業を拒む現代サラリーマンの切実なエゴで、よかれと思って必死に作り上げたこの完璧な防風山脈と湖が。
巡り巡る膨大な演算の果て、予測不能な
彼女が定時退勤を願えば願うほど、世界は加速度的に、制御不能な神話の狂騒へと突き進んでいく。
結衣が親バカ全開でホログラムを見つめていた、その時だった。
突如、六畳間の空間が、前回の赤色を通り越して、不気味な深紫色のアラート光に染め上げられた。
『――警告。システムによる定時環境イベント【
「……は? 嘘でしょ、今何時だと思ってるのよ!?」
結衣の顔から、一瞬で血の気が引いた。
『対象エリアの予測気温、マイナス四十度。環境負荷レベル、極大。全人類NPCの生存予測をリビルドします。セクターB-4の生存確率、再演算中……』
ホログラムの端から、結衣が先ほど配置した山脈すらも白く染め上げるような、致命的な寒気のデータが押し寄せてくる。
いくら群知能が優秀でも、衣服もまともに入手していない旧石器時代にマイナス四十度は、バグ云々の前に物理的な
「ちょっと待って、マイナス四十度って何よ! 私の可愛い
『否定。大気循環モデルの
システムすらも計算放棄を告げる絶望的なエラーコード。
定時退勤の四文字が、完全に霧の彼方へと消し飛んだ。
「私の……私の定時退勤があああ! ここで全滅されたら今月の納品が白紙になって違約金が発生するじゃない! もういいわ、計算がカオスで発散するなら、力技で収束させるまでよ! ミネルヴァ、気象モデルを
結衣は眼鏡をクイと押し上げると、猛烈な速度で空間の数式を叩き直し始めた。
それは神の奇跡などではない。徹夜明けのエンジニアが、締切直前にシステムを動かすためにキーボードを血眼で連打するような、泥臭い作業そのものだった。
「風向の確率分布を限界まで絞り込むわよ! 私が配置したあの山脈を風避けに利用して、局地的にだけ温暖な雨を降らせる完璧な気象モデルをリビルドするの! 数値解析上の
『了解。並列多重演算、開始。……ユーザーA、コーヒーの追加召喚を推奨します。今夜は長いデスマーチになりそうです』
「言われなくてもドリップしてくるわよ!」
推し(B-4)の命を救い、一刻も早く家に帰るため、有能な胃痛神による、執念の徹夜デバッグの幕が上がる。
第2話をお読みいただきありがとうございました!
「胃痛神、残業がんばれ!」と思ってくださった方は、ぜひ【お気に入り登録】や【評価(感想・レビュー)】で演算速度を応援していただけると励みになります!