【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
火曜日の午前九時。
澄み切った青空が広がるオフィス街の喧騒を背に、天宮結衣は専用オフィスのドアを開けた。足取りは羽のように軽く、その表情には充実した休息を経た者だけが持つ、清々しい生気が満ちていた。
昨日の月曜日。彼女は午前中のうちに、あの忌々しい『先週の
そして定時を告げるチャイムと同時に、誰よりも早くPCを
デスクに鞄を置くと、結衣はそのまま給湯室へ向かい、お気に入りの豆から丁寧にドリップした淹れたてのホットコーヒーをマグカップに注いだ。湯気と共に立ち上る香ばしいアロマが、これからの知的生産活動に向けた心地よいスイッチとなる。
「よし、最高の朝ね。脳の
自席に戻り、人間工学に基づいた高級ワークチェアに深く腰を下ろす。結衣は優雅にホットコーヒーを口に含みながら、メインコンソールの電源を入れた。
「さあて、一晩寝かせておいたあの地下の巨大熱源バグを、サクッと
『了解しました、
ナビゲーターAIの合成音声と共に、空中に仮想モニタが展開される。
だが、画面に表示されたステータスコードを見た瞬間、結衣の口元に浮かんでいた余裕の笑みがピタリと凍りついた。
鳴り響くはずの警告アラートは一切ない。
コンソールのステータスバーは、不気味なほどにクリアな『
「……え?」
結衣は怪訝な顔で眉をひそめ、すぐさま温度分布マップのレイヤーを呼び出した。
しかし、昨日あれほど地下第四層(洞窟エリア)で限界突破の真っ白な光を放ち、周囲の環境データを焼き尽くしながら不規則に蠢いていた規格外の
画面中央には、何事もなかったかのように冷徹なシステムメッセージがポップアップしている。
【対象消滅:環境安定化プロセス正常終了】
「消えた……? 嘘でしょ、自動の
背筋を冷たい汗が伝う。データの破損は、インフラエンジニアにとって最も避けたい致命傷だ。結衣はマグカップをデスクに叩き置くようにして置き、即座にログビューアを引っ張り出した。自分が退社した後の時間帯に何が起きたのかを突き止めるため、システム全体の
タイムラインを数時間単位で巻き戻していく。
そして――結衣が定時退社をキメて、オフィスを意気揚々と後にした直後のタイムスタンプに目を留めた瞬間、彼女の顔から完全に血の気が引いた。
「な……っ、何よこれ……ッ!?」
タイムスタンプに刻まれていたのは、結衣が帰りの電車の中で「今夜の晩ご飯は何にしようかしら」などと平和な思考を巡らせていた、まさにその時刻だった。
【昨時 18:15:05 | ユーザーC:地形修復コマンド(土砂大量充填)の連続コミット】
【昨時 18:22:12 | ユーザーC:斜面剛性率・摩擦係数の強制上書き(安息角の固定)】
【昨時 18:25:40 | ユーザーC:物理衝突(圧殺)による動的オブジェクトのライフゼロ判定】
非同期レイヤーから
――【ユーザーC(玲奈)】。
ログには、泥臭くも圧倒的な力業の形跡が、リアルタイムで生々しく記録されていた。
結衣はそのログの羅列から、Cが昨晩やらかした蛮行の全貌を瞬時にブレインマッピングし、戦慄と共に理解する。
「信じられない……。異常発生した動的熱源オブジェクトの演算処理に対して、膨大な『土砂の
それは、洗練されたプログラミングとは対極にある、あまりにも野蛮な解決策だった。
システム内部で発生した高熱の動的バグに対して、ユーザーCは「地盤沈下のリスクを孕んだ環境異常」と即座に判断。地形修復用の土砂オブジェクトデータを何百万トンという単位でサーバーへ流し込み、物理的に『生き埋め』にして圧殺(ハメ殺し)したのである。
「ただの
結衣は怒りと頭痛でこめかみを押さえながら、改変された地下第四層の
緑色のワイヤーフレームが再構築され、目の前に現れた「現在の地形」を見た瞬間、結衣の胃がキリキリと音を立てて激しく軋み始めた。
そこに描画されていたのは、彼女がミリ単位の流体計算と等高線の美しさにこだわって作り上げた、あの芸術的なカルデラ(露天掘り用鉄鉱山)の真下に穿たれた、幾何学的に美しくも無残な「超巨大なすり鉢状の穴」だった。
「な、なによこの不格好な穴は……! 土砂崩れを防ぐための『
安息角。それは土木工学において、土砂が自然に崩落せずに安定を保つ最大の角度のことだ。ユーザーCが流し込んだ土砂データは、この安息角のパラメーターにおいて寸分の狂いもなく、完璧なすり鉢状の斜面を形成して固定化されていた。
土木施工の安全基準としては、これ以上ないほど「ぐうの音も出ない完璧な安全対策」である。これならどれだけ地殻変動が起きようが、絶対に崩落することはない。
だが、インフラデザイナーとしての結衣のプライドはズタズタだった。スマートな流体計算で構築したはずの空間が、泥臭い「安全第一」の思想で完全に上書きされている。
そして、被害はそれだけではなかった。
環境シミュレータの深層データを開いた結衣は、さらなる絶望的な事実に行き当たる。
「しかも、この土砂の蓋のせいで、地下に
結衣が設計漏れした膨大な熱エネルギーは、Cが強引に大量の土砂で蓋をしたせいで、地下の密閉空間にガチガチにカプセル化されてしまった。
「システム的には『熱源の封じ込め完了(正常終了)』扱いになってるから、これ以上私が下手にパラメータを弄ったら、熱量データの不整合で世界が
一度「正常終了」として
結衣の手による
「火曜の朝一番から、
せっかくの淹れたてのホットコーヒーの香りは、一瞬にして口内に広がった胃液の酸っぱさに掻き消された。
ガラッ! と引き出しを乱暴に開け、常備薬のキャベジンボトルをひったくる。
ボリボリボリボリボリボリッ!!!
静かなオフィスに、緑色の錠剤を凄まじい勢いで親の仇のように噛み砕く、荒々しい咀嚼音が響き渡る。
データサイエンティストとしての完璧主義と、抗いようのないシステム上の事実。
その二つの間で数秒間だけ激しく葛藤した結衣だったが――やがて彼女の瞳から、スッとエンジニアとしての熱意が消え失せ、代わりに淀んだ社畜特有の濁りが浮かび上がった。
「もういいわ……システムが
結衣は冷え切った声でそう呟き、エンターキーをターンッ! と乱暴に叩いて画面を閉じた。
「どうせ、未来の現場で掘る連中が、地下の超高温環境で熱中症になるか、密閉空間で酸欠になるかするだけだし。私の知ったこっちゃないわ。文句があるなら、勝手に土砂流し込んで蓋をしたあのアホ(C)に言いなさいよ」
結衣は完全に冷めきったコーヒーを喉の奥へ流し込むと、この歪な「安全すぎる蟻地獄の鉄鉱山」と「超高温に濃縮された地下環境」を、正史の仕様として無慈悲に
昨日の定時退社のツケは、最悪の胃痛という形で火曜日の朝に支払われた。
だが、そのツケの本当の恐ろしさを味わうことになるのは、この後、何も知らずにこの過酷な労働環境へと放り込まれることになる、未来の現場責任者(ユーザーB)たちなのである。