【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
火曜日、午前十時。
定刻通りにオフィスに出社した結衣は、給湯室で淹れたブラックコーヒーをデスクに置き、深く息を吐きながらデュアルモニターの電源を入れた。
休日の穏やかな空気はすでに跡形もなく消え去り、そこにあるのは無機質なサーバーの駆動音と、容赦なく迫るプロジェクトのマイルストーンだけである。結衣はメインモニターに
画面上にレンダリングされているのは、昨日あの『安全第一』を自称する一般ユーザーC(玲奈)が残していった、無惨極まりない建築データの残骸だった。
本来の
「本当に、現場の素人に直接本番環境のソースコードを触らせるなんて、どこの三流SIerよ……」
結衣は悪態をつきながら、慣れた手つきでキーボードを叩く。彼女の現在のタスクは、この崩壊しかけた不整合な地形データを『正式な仕様』として強制的にシステムへ
キーを叩くたびに、コンソール上に地形の再計算プロセスが走る。土砂崩れを防ぐための物理的な安息角は、Cが冗長に投入した謎の粘土質データのおかげで辛うじて維持されている。
しかし、その代償として鉱山の底面構造は完全に大気の循環機能(換気ルート)を失っていた。流体力学のシミュレーションを走らせると、空気の流れを示す青い矢印はすり鉢の中腹で完全に停滞し、底へと向かう気流はゼロになっている。
「……まあいいわ。とりあえず地形のジオメトリデータはこれで
結衣はコマンドプロンプトをアクティブにし、システムで許容されている最大値のバッチ処理コマンドを入力した。
『 /time_skip -years 150 --force_execute --ignore_warnings 』
エンターキーを強く叩く。
その瞬間、結衣のデスクの下にある演算処理用のローカルサーバーが、悲鳴のようなファンの駆動音を上げた。システムが150年分のシミュレーション演算を一気に開始したのだ。結衣にとっての数分の待ち時間は、あの仮想の箱庭環境下における一世紀半の経過を意味する。
プログレスバーがじりじりと伸び、やがて100%に到達する。コンソール画面に『プロセス正常終了』の緑色の文字が点灯した。
結衣は伸びをして凝り固まった肩をほぐし、最新の環境モニタリングツールを起動した。
「さて、150年後の状況はどうなっているかしら。あの劣悪な換気不良環境じゃ、良くて細々と採掘を続けているか、最悪の場合は有毒ガスで全滅して、初期スポーン地点からプロジェクトやり直しね……」
独り言は、途切れた。
モニターに表示された最新のサーモグラフィーと、大気成分のヒートマップを見て、結衣は自分の目を疑った。
鉱山の最深部、すり鉢の底にあたる採掘現場。そこの環境データは、致命的なエラーを示す真っ赤な警告色で完全に塗りつぶされていたのだ。
【クリティカル警告:環境温度 摂氏48度〜55度を検知】
【クリティカル警告:高濃度の硫化水素(H2S)および一酸化炭素(CO)の滞留を検知】
【クリティカル警告:大気中の有毒微粒子濃度、致死量超過】
「……嘘でしょ。これ、完全に
結衣は絶句した。Cが無作為に被せた土砂の蓋が、地下から湧き上がる地熱を完全に閉じ込めていた。さらに、採掘を効率化するために現場で燃やされたであろう大量の石炭の排気ガスと、鉱石から揮発する有毒成分が抜け道を失い、比重の重い「見えない毒の沼」となってすり鉢の底に分厚く滞留している。
それは人間が生存できる環境ではない。現代における深刻な原発事故の復旧現場や、極限の化学プラント事故の
結衣は慌てて、現場のNPCの生体ステータスログを確認した。全滅しているはずだ。これなら「環境パラメータの不適合によるシミュレーション失敗」として、もう一度地形データをロールバックしてやり直す正当な理由になる。
しかし、ログが示す数字は結衣の常識を根底から裏切っていた。
【現在稼働中の労働ユニット総数:1,240】
【鉄鉱石の採掘量(日次トラフィック):当初予測値の415%で推移中】
【プロジェクト進捗率:順調】
「……は? 稼働中? 達成率400パーセント超え!?」
結衣は思わずモニターに顔を近づけた。バグか? センサー群の監視デーモンがダウンしているのか?
いや、トラフィックログは正常に流れている。絶え間なく、狂ったような速度で、鉄鉱石の採掘データが現場からシステムへとアップロードされ続けているのだ。
結衣は震える手でマウスを操作し、現場の光学カメラモジュールの映像と、彼らの行動パターンを解析するヒューリスティック・ログを展開した。
そこで結衣が見たものは、IT業界の「デスマーチ」などという生ぬるい言葉では到底表現できない、地獄のような労働環境の極致――そして、それに過剰適応したNPCたちの異常な
映像の中のNPCたちは、およそ人間の営みとは思えない異様な風体で作業をしていた。
彼らは素肌を一切露出していなかった。有毒ガスと酸性の粉塵から身を守るため、獣の皮を何重にも重ね、その上から泥と油を厚く塗りたくった、まるで即席の
外気温が50度に迫る中、全く通気性のない防護服と全面マスクを装着しての重労働。それは自らの体温で自らを茹で上げているに等しい。
結衣は彼らのバイタルデータを覗き見た。
労働者たちは皆、息も絶え絶えだった。分厚い木炭フィルター越しに酸素を吸い込むため、彼らは絶えず過呼吸を起こしている。ヒートマップは彼らの防護服の中が異常な高温になっていることを示していた。流れ出る汗は逃げ場を失い、分厚い長靴の中にタプタプと溜まっているのがデータから読み取れた。
もしこの環境下で、息苦しさに耐えかねてマスクの隙間を少しでも開ければ、即座に高濃度の有毒ガスを吸い込んで即死する。彼らは、自らの吐き気や汗、そして圧倒的な閉塞感と共に、隔離されたマスクの中でツルハシを振るい続けているのだ。
だが、真の恐怖はそこではなかった。結衣を戦慄させたのは、彼らが自律的に行っている「運用システム」そのものだった。
モニター越しに見下ろす彼らの動きは、もはや個としての人間性を喪失し、ひとつの巨大で精密な機械か、あるいは
【行動解析ログ:第4集団、レッドゾーン(最深部)へ突入】
【行動解析ログ:中腹の安全地帯にて、計時用の巨大な水時計が稼働中】
最深部の毒の沼の中で、NPCたちは狂ったような速度でツルハシを振るう。
しかし、突入から正確に『2分45秒』が経過した瞬間。
中腹の安全地帯(グリーンゾーン)に設置された巨大な銅鑼が、監視役のNPCによって激しく打ち鳴らされる。
その音が響いた瞬間、最前線の労働者たちは、どんなに作業が途中であろうと、足元にツルハシを投げ捨てて一斉にエリアから走り去った。数秒の遅れが、致死量の毒の吸収に繋がることを本能で理解しているのだ。
彼らが退避したのと完全に同調(シンクロ)する形で、中腹で待機していた次の集団が即座に突入していく。ライン稼働の停止時間は、わずか0.8秒。
これを、24時間、休むことなく、途切れることなく無限に繰り返している。
「……累積……上限値管理……?」
結衣はさらに深い生体データログを解析し、乾いた唇から呆然と単語を漏らした。
NPCたちは、時計による数分単位のローテーションだけでなく、もっと恐ろしいものを自律的に管理していた。現代の極限災害現場における『被曝線量管理』と全く同じロジックである。
システムが弾き出すNPCの人口動態パラメータと、彼らの社会的役割(ジョブ)の推移グラフ。それを照らし合わせた結衣は、彼らの胸元にぶら下がっている「石のペンダント」の役割に気がついた。
それは、ただの装飾品ではない。鉱山特有の有毒ガスに反応して、徐々に変色していく特殊な鉱石だった。つまり、原始的な
NPCたちは、採掘現場に入るたびに自らの体に蓄積される『見えない毒の量』を、その石の色で厳密に計測していた。
石が規定の濁り――つまり、これ以上毒を浴びれば確実に死に至る(あるいは後遺症で労働力にならなくなる)限界の黒色に染まった者は、どれだけ若く体力があろうとも、二度と最前線には立たない。最前線の小隊から自律的に離脱し、安全な後方支援や農業プラントへと移動していく。
一人の人間が一生の間に浴びても死なないギリギリの総量(生涯稼働限界値)を、彼ら自身が冷徹に計算し、労働力を
「狂ってる……」
結衣は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
誰も直接指示など出していない。ただ、150年の歴史の中で「そうしなければ全滅する」という環境の圧力が、彼らをこの冷徹なシステムへと最適化させてしまったのだ。
警鐘が鳴れば作業を捨てる。倒れた者がいれば、救助に時間をかけることなく即座に引きずり出し、後続の突入を1秒たりとも遅らせない。彼らの群れ全体が一つの『採掘機械』として、極限の効率でうごめいている。
環境というインフラのバグ(致死領域)を、人間の命を少しずつ削ることで強引にカバーし、プロジェクトを前進させる。上流のシステム管理者として、これほど恐ろしく、かつ吐き気をもよおすエラーへの適応はない。
【警告:労働ユニット#812が過呼吸によりマスク内で嘔吐。気道閉塞によるバイタル低下】
【行動解析ログ:周囲のユニットが#812を物理的搬出。予備ユニットが作業を即時引き継ぎ。ライン停止時間:1.2秒】
結衣は限界だった。
画面の向こうから、汗と泥と鉄の錆びた臭いが、そして防毒マスク越しの荒い呼吸音の合唱が、物理的な圧力を伴って自分の首を絞めに来るような錯覚を覚えた。これ以上この狂ったアリの巣のようなログを見続けていれば、自分の精神までこの極限状態の労働基準に汚染されてしまう。
「……もう嫌。こんな、事故処理現場の最前線みたいなログ、これ以上見てられない」
結衣は視線をパソコンの右下、タスクバーの隅にあるシステム時計へと移した。
時刻は、17時30分。結衣の就業規則における、絶対的な終業時間である。
システム上、今日のタイムスキップのクォータ(150年)はすでに使い切った。強いて言えば、この狂気の現場をリアルタイムで監視し続け、少しでも生存率を上げるために微細なパラメータ調整を残業して行うことだが――。
「定時よ。私は帰るわ」
結衣はきっぱりと呟き、稼働中のコンソールのウィンドウを次々と最小化し、監視デーモンをバックグラウンド処理へと移行させた。
「私のミッションは、あくまで『鉄器時代への移行』をシステム的な観点からサポートすること。NPCの
結衣は一切の未練を見せず、デスクの上のコーヒーカップを片付け、PCをスリープモードへと移行させた。
彼女は極めて優秀なシステム管理者であり、同時に、自分の査定と定時退社を何よりも重んじる、冷徹なサラリーマンであった。箱庭の世界で数千人が防毒マスクの中で汗に溺れながらツルハシを振るい、血の滲むような『寿命管理シフト』を自律的に回していようとも、結衣の火曜日の業務は、かくして無慈悲に終了したのである。
明日の朝、出社したときにあの鉱山が死体の山になっていようが、それは現場の構築責任者であるBの管理責任だ。
「……がんばれBさん。あなたの遺した完璧で狂ったマネジメントで、明日の朝までにどうか全滅しないでいてね」
誰もいないオフィスにそう言い残し、結衣はタイムカードを打刻して足早に去っていった。