【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
水曜日、午前九時五十分。
結衣は重い足取りでオフィスに出社した。憂鬱な水曜日の朝である。
昨晩の記憶がフラッシュバックする。B(健太)が仕組んだ、被曝線量管理にも似た狂気の「
どう考えても、あれが長続きするはずがない。
「どうせあの毒の沼地じゃ、一夜明ければ労働力は全滅しているわね……。今日は朝から地形データを
結衣はため息をつきながらデスクに座り、PCの電源を入れた。
最悪の事態を想定し、システム復旧用のコマンドを頭の中で反芻しながら、メインモニターの
「生存率0パーセント、プロジェクト失敗(フェイタル・エラー)。はいはい、分かって……えっ?」
結衣の指が、マウスの上で完全に硬直した。
表示されたグラフは、結衣が想定していた「ゼロに向かって這いつくばる絶望の平坦線(フラットライン)」ではなかった。
鉄鉱石の生産量を示す折れ線グラフは、深夜のデータ更新タイミングから突如として垂直に近い角度で跳ね上がり、信じられない数値を叩き出していた。
【現在稼働中の労働ユニット総数:1,580(微増)】
【鉄鉱石の採掘量(日次トラフィック):目標値の120%達成・継続中】
「……はぁ!? 生きているどころか、生産ラインが倍速になってる!? あの致死領域でどうやって!?」
結衣は慌ててモニターに顔を近づけ、監視カメラモジュールの映像と、昨晩から今朝にかけての行動ログを高速で巻き戻した。
一体、彼らはどうやってあの死の環境を生き延び、あまつさえ生産性を向上させたのか。システム的なバグによるチートか? それとも不正なパラメータの書き換えか?
ログの解析を進めるうち、結衣は信じられない現象を目の当たりにした。
それは、システム管理者である結衣ですら予測できなかった、極限のストレス下におけるNPCの『自律進化』であった。
Bが初期に構築したトップダウン型の強制労働システムは、世代を重ねるごとに現場の末端へと権限と知見が委譲され、最適化されていた。個々のNPCが自律的に連携し、全体としてひとつの有機的な生命体のように機能する
「……信じられない」
結衣は、映像の中で蠢くNPCたちの異常な効率性に戦慄を覚えながら、深層学習(ディープラーニング)の解析モデルに彼らの行動パターンを当てはめた。
「与えられた『寿命(滞在時間)』という絶対的な制約の中で、生存と生産のスコアを極限まで最大化するために、群知能としてのAIが独自の
結衣が目を見開いて注視したその『局所解』――NPCたちが自力で到達した物理的な解決策。それは、巨大な『重力式・自動運搬ベルトコンベア』だった。
一番のボトルネックは、最深部(レッドゾーン)で採掘した重い鉄鉱石を、急斜面を登って安全地帯(グリーンゾーン)まで「人力で運び出す」という工程にあった。有毒ガスの中での重労働は、NPCの滞在可能時間をわずか2分45秒にまで削っていた。
そこでNPCたちは、採掘と運搬のプロセスを完全に分離した。
彼らが作り上げたのは、電力や蒸気といった動力を一切必要としない、純粋な物理法則だけを利用した大規模なロジスティクス網だった。
結衣は、その構造の要となっている『地形』を見て、あっけにとられた。
それは、昨日C(玲奈)が無計画に大量の土砂データをプッシュした結果生まれた、崩壊寸前の「粘土質の急斜面」だった。
「嘘でしょ……。Cちゃんが作った『安息角の蟻地獄(バグ)』を、重力位置エネルギーの変換装置として、意図的に
Cが被せた粘土質の土砂は、表面が異常に滑りやすかった。
NPCたちはその急斜面に木のレールを敷き詰め、摩擦係数を極限まで下げた巨大な滑り台(シューター)を構築していたのだ。
最深部で採掘された鉱石は、滑車の原理を利用した巨大な木製の籠に放り込まれる。そして、その籠を引き上げるための「動力」として使われていたのは、なんとCが中腹に残していった『余剰な粘土の塊(土砂)』だった。
上部から重い粘土をカウンターウェイトとして落とし、その自重による落下エネルギーを利用して、底部の鉱石を一気に安全地帯まで引き上げる。
まさに、ピタゴラスイッチのようなカラクリ。
この非同期の自動物流インフラが完成したことで、現場のNPCたちは重い鉱石を背負って斜面を登る必要がなくなった。限られた『2分45秒の寿命』のすべてを、「採掘」という一点のみに全振りできるようになったのである。
無駄な体力を消耗しないため、呼吸の乱れは最小限に抑えられ、有毒ガスの吸入リスクも激減した。結果として生存率は跳ね上がり、採掘効率は目標値の120%を突破するという奇跡のブレイクスルーを果たしたのだ。
結衣は背もたれに深く寄りかかり、天を仰いだ。
「現場のブラックな執念が……物理法則の壁をハックして、システム要件を力技で突破しちゃった……」
その直後。
結衣のコンソール画面の中央に、黄金色の豪奢なエフェクトと共に、待ちに待ったシステム・アナウンスがポップアップした。
『マイルストーン達成:【鉄器時代への移行】を完了しました。フェーズ3・クリア』
「……やった!」
誰もいないオフィスで、結衣は両手で力強くガッツポーズを決めた。
胃を痛めながら仕様の不整合と闘い、吐き気をもよおすようなブラック労働のログを見守った苦労が、ついに報われた瞬間だった。
フェーズ3のクリア要件を満たしたことで、システム内部のバックグラウンド処理が走り出し、時代を制御していた様々なリソースの制限が解除されていく。
そして、結衣のサブモニターの隅で、これまでグレーアウトして『オフライン』となっていたタスク管理ツール――Bとの直接連絡用システムである『JIRA(ジラ)』のアイコンが、数日ぶりに鮮やかな緑色に点灯した。
【通信制限解除:現場レイヤーとの同期通信ネットワークが再開されました】
「よし、JIRAも無事に自動開通した!」
結衣は歓喜の声を上げた。
通信回線が復活した直後、JIRAのダッシュボードには「ピコン!」「ピコン!」と連続して通知音が鳴り響き、Bからの新規チケット(メッセージ)が凄まじい勢いでキューに溜まり始めた。アイコンのバッジは瞬く間に「99+」という赤い警告色に染まる。
しかし、結衣はマウスのカーソルをそちらへ向けることはなかった。
彼女の意識はすでに、システム管理者としてのタスクから、一人の俗物的なサラリーマンのそれに切り替わっていた。
「未読のクレーム? どうせあのBさんのことだから『環境が劣悪すぎる』だの『仕様のせいでおれの部下が何人倒れたと思ってる』だの、恨み節の連発でしょ。フェーズ3の重要マイルストーンをクリアしたんだから、細かい環境バグの修正なんて、リリース後の保守(マイナーアップデート)対応で十分よ」
結衣は軽快な手つきでコンソールのウィンドウを閉じ、システムのステータスを『正常稼働』でロックした。
「これで今期のプロジェクトは私の完全勝利、文句なしのA査定よ! 冬のボーナスは満額確定だし、今週末は有給使って三連休にして、ちょっと良い温泉宿にでも行っちゃおうかしら」
時刻は17時30分。
結衣は定時のチャイムが鳴ると同時にPCをシャットダウンし、意気揚々とデスクを立ち上がった。
その裏で、システムの末端である現場レイヤーにおいて、Bがブチギレながら構築し続けている「巨大な自動化オブジェクト群」が、環境リソース(メモリとクォータ)を真っ赤に圧迫し始めていることなど、彼女は知る由もない。
そして、未読のまま放置されたJIRAのチケットの山が、明日の朝、結衣のボーナスと有給を根底から粉砕する「最悪の爆弾」となることも。
「お疲れ様でしたー!」
結衣はウキウキとした足取りでタイムカードを打刻し、完全な勝利を確信しながら、足早にオフィスを後にした。