【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
木曜日、午前九時四十五分。
結衣は昨日とは打って変わって、非常に晴れやかな気分でオフィスに出社した。
デスクに腰を下ろし、お気に入りのマグカップに淹れたてのカフェラテを満たす。彼女のサブモニターには、早くも今週末の三連休に向けた「源泉掛け流し・客室露天風呂付き高級旅館」の予約サイトが表示されていた。
「フフン、フェーズ3の『鉄器時代への移行』は完全に
結衣は鼻歌交じりにメインモニターの電源を入れ、
画面の右隅で、現場の最高責任者であるB(健太)のアカウントアイコンが、鮮やかな緑色(オンライン)に点灯している。それと同時に、新規に発行されたインシデントチケットの通知がポップアップした。
ステータスは『最優先(High)』。
結衣は「はいはい、いつもの現場からのマイナークレームね」と、特段の焦りもなく、大人の余裕を持ってその最上段にあるチケットをクリックした。
しかし、そこに書き込まれていたのは、結衣が予想していたような感情的な怒号や恨み節ではなかった。極めて冷徹で、規約(ルール)に準拠した、プロフェッショナルとしての「インシデント報告」だった。
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【チケット番号:JIRA-FE3-0842】
【件 名】 地形バグに起因する、最深部レイヤーの環境悪化について
【報告者】現場総括・B
【内 容】
一般ユーザーC氏によってコミットされた地形データ(すり鉢状の土砂)の影響により、最深部の換気ルートが完全に閉塞しております。
現在、該当エリアは常時摂氏六十度、高濃度の硫化水素および一酸化炭素が滞留する低酸素サウナ状態です。
上流工程における速やかな地形データの部分修正(
結衣はカフェラテを一口すすり、キーボードに指を置いた。
彼女の表情には、一ミリの動揺もない。IT業界において、このような「上流への責任転嫁」は日常茶飯事である。ここで下手に折れて地形データを弄れば、せっかくクリアしたフェーズ3のデータ整合性が崩壊し、再計算のために彼女の残業が発生する。それは絶対に避けるべきだった。
結衣は慇懃無礼な定型文をタイピングし、チケットのコメント欄に投稿した。
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【担当者:システム管理者・A(結衣)からの返信】
ご報告ありがとうございます。
しかしながら、ご指摘の地形データはすでにメインブランチへマージされ、フェーズ3クリアの前提条件としてシステム側でロックされております。現段階でのトポロジー変更は、世界全体の
恐れ入りますが、該当の環境負荷については、現場側のマネジメント(運用ローテーションの変更等)にてカバーしていただきますようお願い申し上げます。
ステータスを『
「よし。完璧な『仕様です』の突き返しね」
結衣は満足げに微笑んだ。悪いが、こちらには「定時退社」と「有給死守」という絶対的な防衛ラインがある。現場の人間がどれほど過酷なローテーションを回そうが、それは運用で解決すべき問題だ。
だが、ステータスをクローズしたわずか数秒後。
画面がパッとフラッシュし、Bから即座にチケットが『
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【報告者:Bからの返信】
上流工程での修正が不可能である旨、了解いたしました。
規約通り、当方にて『鉄器時代』に解放された技術アセットの範囲内を条件とし、現場側での
「……代替策を自律展開?」
結衣がその奇妙な文言に首を傾げた、その瞬間だった。
ビィィィィィィィィン――!!
オフィスに、突如としてけたたましい
【システム警告:全体の物理演算トラフィックが許容量の98.7%を超過】
【システム警告:中央演算処理装置への深刻な負荷を検知。スレッド内の
「な、何ごと!? サーバーが窒息しかけてる!?」
結衣は慌ててマウスをひったくり、鉱山のモニタリング映像を展開した。
そして、画面に映し出された光景に、息を呑んだ。
そこにあったのは、昨日までの「泥と汗の原始的な採掘場」ではなかった。
すり鉢状の広大な鉱山全体が、鈍い、不気味な鉄の金属光沢によって完全に埋め尽くされていたのだ。
「何よこれ……これ、全部鉄パイプ管!?」
結衣は仕様書を読み落としていた。
『鉄器時代』の解放から、世界の内包する時間はすでに三百年相当を進み始めている。NPCたちはその三百年の間で、炉を大型化して高温で鉄を溶かし型に流し込む「
彼らは最深部の摂氏六十度の毒ガスと熱を逃がすため、とんでもない力技のシステムを構築していた。
それは、複数人でクランクを回して稼働させる「鉄製の巨大な手動送風ポンプ(鞴:ふいご)」と、排気用の「中空の鋳鉄製パイプ」を、全作業スポット、全労働者(一千五百人規模)に個別設置するという、文字通りの『絨毯爆撃的な大量デプロイ』だった。
鉱山の斜面という斜面には、蜘蛛の巣のように複雑に絡み合う数万本の鉄パイプが密集して張り巡らされている。そして各採掘ポイントでは、一千台を超える鉄製の巨大ポンプが設置され、NPCたちが生き残るために狂ったように歯車付きのクランクを回し続けていた。
蒸気機関や電力のようなオーバーテクノロジーではない。あくまで原始的な鉄のからくりだ。
しかし、システム管理者である結衣の目には、それがどれほど恐ろしい「サーバーへのテロ行為」であるかが一目で理解できた。
「ちょっと待って……! 数万本の鉄パイプの一本一本に個別の
単純なオブジェクトでも、数が数万個規模に膨れ上がり、それが同時に「物理演算」と「アニメーション」を要求すれば、サーバーの心臓部は一瞬で処理限界を迎える。
NPCたちは生き残るための生存戦略として、結果的にサーバー全体へ
結衣は顔面蒼白になりながら、猛烈な勢いでJIRAに警告を叩きつけた。
【管理者:Aからの返信】
警告! 現場レイヤーにおいて、未承認の動的オブジェクト(鉄パイプおよび歯車式ポンプ)が大量生成され、物理演算サーバーがパンク寸前です!
このままではシステム全体が
JIRAのチケット上に冷徹な抗議コメントを叩きつける結衣の画面で、一瞬だけ赤色に点滅する警告アラート。
(落ちる……!)
そう確信した次の瞬間、なぜかリソースグラフの急峻なスパイクが滑らかな放物線を描き、パケット処理が別スレッドへ綺麗に分散された。
『Load Balancer: Dynamic Traffic Shaping Executed.』
結衣は画面の片隅を流れたシステムログに、思わず目を止めた。
「……は? 自動
だが、わずか一秒後。画面の向こうで待ち構えていたかのように、Bからのレスポンスが弾み出た。
【報告者:Bからの返信】
拒否します。
こちらはそちらが『現場の運用でカバーしろ』と指示した結果導き出された、生存のための最適解です。この個別換気システムを一つでも解体すれば、そのエリアの労働者は三分以内に硫化水素ガスで窒息死します。
データ容量のオーバーは、そちらのインフラ側の
サーバーが落ちるというのであれば、そちらの予算で物理サーバーを増強してください。
画面に届いた『そちらのインフラ側のサイジングの問題です』という容赦のない煽りレスに、結衣の先ほどの感心は即座に上書きされた。
「ええい、感心してる場合じゃないわ! 追加予算なんて上層部に通るわけないでしょ! この現場の脳筋インフラエンジニアを黙らせないと!」
【管理者:Aからの返信】
ふざけないで! 追加予算なんて上層部に通るわけないでしょ! Cちゃんが作った地形バグを盾にして、物理演算でテロ起こす気!? ただの嫌がらせよ!
【報告者:Bからの返信】
嫌がらせではありません。労働安全衛生法(システム規約第4条)に基づく、現場の正当な権利です。インフラの貧弱さを、現場の生存戦略に押し付けないでいただきたい。
開通したJIRAのコメント欄で、互いの論理武装と規約を盾にした、冷徹で容赦のない「大人の定例レスバ」が極限まで白熱していく。結衣はキーボードが壊れんばかりの勢いでタイピングを続け、Bもまた、現場の命と意地を背負って一歩も引かない。
結衣の頭から、温泉旅行もボーナスのことも完全に消え去っていた。あるのはただ、眼前の不遜な現場監督に対するサラリーマンとしての怒りだけだった。
しかし。
二人が不毛な責任のなすりつけ合いを続けていた、その瞬間だった。
パシィン! という無機質な電子音と共に。
結衣のコンソール画面、そしてBの端末の全画面に、上位システムからの絶対的な権限を持つ、冷酷な赤文字のポップアップが強制的に割り込んだ。
『【致命的エラー:未承認のデータ膨張、および物理演算負荷の超過を検知】』
『【世界の整合性が規定値を著しく下回りました。これ以上の処理継続は不可能です】』
『【警告:システムリセット(初期状態へのデータ初期化プロセス)を要求します】』
結衣の指が、キーボードの上でピタリと止まった。
冷めきったラテを飲むことすら忘れ、カチカチと音を立てて秒読みを開始したポップアップを、ただ呆然と見つめる。
「システム……リセット……?」
それは、今までの胃を痛めるような苦労も、仕様のフィックスも、フェーズ3クリアの成果も。
結衣のボーナスも、Bが命を削って育て上げた三百年の歴史も、すべてを「無」に帰して最初からやり直すという、システムからの無慈悲な死の宣告だった。