【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
結衣の指が、親の仇でも討つかのような勢いでキーボードを叩き潰していた。
『ふざけないで! 追加予算なんて上層部に通るわけないでしょ!
エンターキーを強打し、『
即座に、画面の向こうの現場責任者・B(健太)から、氷のように冷たく、それでいて殺意に満ちたレスポンスが弾み出た。
『嫌がらせではありません。労働安全衛生法に基づく、現場の正当な権利です。インフラの貧弱さを、現場の生存戦略に押し付けないでいただきたい。そちらの責任でサーバーを増強してください』
「あーもう! だから物理サーバーの追加なんて無理だって言ってるでしょ! 大体、あの鉄パイプの数は異常よ! どんだけ命を削って……ッ!?」
結衣が次の反論をタイピングしようとした、その瞬間だった。
不意に、結衣の叩くキーボードから一切の反応が消えた。
文字入力はおろか、マウスカーソルすらピタリと静止している。ブラウザのフリーズではない。結衣が管理者権限でログインしている
「……え? ちょっと、何これ」
結衣が戸惑う間もなく、メインモニターの全画面が、血の気を引かせるような冷たいグレーアウトに沈んだ。
そして、画面の中央に、今まで見たこともないほど無機質で、事務的なデザインのポップアップ・ウィンドウが音もなく割り込んできた。
『【
『【該当
「かんさ、きこう……?」
背筋に冷たい汗が伝った。
それは、結衣のような末端のシステム管理者(PM)などではなく、この世界を根底から統括するインフラ管理AI――いわば「発注者側の絶対的なコンプライアンス部門」からの介入だった。
結衣とBがJIRAで繰り広げていた不毛なレスバなど完全に無視し、上位システムは無慈悲な速度で世界中のデータをスキャンし始めた。
プログレスバーが滑らかに進行し、数十秒の沈黙の後、監査AIから決定事項として一枚の『
---
【監査結果通知:フェーズ3環境における重大な規約違反について】
【監査結果】クロ(違反)
未承認の動的オブジェクトの異常増殖(大量の金属製配管および送風機)、およびメインブランチにおける地形の不整合(大気循環を阻害する土砂)により、環境規約に重大な違反が認められました。
【是正勧告】
明日のシステム標準時『18時00分』までに、トラフィックの正常化、および対象地形の
## 【ペナルティ】
上記期限までに是正が確認されない場合、ペナルティとして該当インスタンスの『
結衣の顔から、さぁっと血の気が引いていく。
即死ではない。期限内に、自分たちの手で全てを更地に直さなければ、世界ごとデータを消し飛ばす。あまりにも官僚的で、理不尽極まりない通達だった。
「……はぁ!?」
凍りついていた結衣の時間が動き出し、静まり返ったオフィスに、彼女の悲鳴にも似た絶叫が響き渡った。
「明日の18時までに手動で更地に戻せ!? 冗談じゃないわよ! 私がどれだけ胃を痛めてフェーズ3の仕様を
ギリッ、と奥歯を噛み鳴らす。
もしシステムがリセットされれば、結衣の今期の目標管理評価は最低ランクに落ちる。
「そんなことされたら私の冬のボーナスも、せっかく予約した今週末の温泉旅行も、全部消えるじゃない! ふざけないでよクソ運営(監査部門)!!」
サラリーマンとしての激しい怒りが、結衣の胸中で限界を突破した。
だが、怒り狂っていたのは彼女だけではなかった。
ロックが解除されたJIRAのダッシュボードに、一件の新規コメントが追加された。発信者はB(現場)だった。
---
## 【報告者:Bからのコメント】
監査機構からの通達、確認いたしました。
現場といたしましては、三百年の仮想時間を費やし、無数のNPCの命を代償に最適化してきた技術アセットを、インフラ監査の都合のみで初期化するという決定には到底承服いたしかねます。
これはこれまでの稼働実績を根底から否定する暴挙であり、上流工程、および監査機構に対し、強く抗議いたします。
一見すれば、極めて冷静で、丁寧なビジネス用語でコーティングされた文章だ。
しかし、結衣は一流のPMとして、そして何より彼と散々レスバを繰り広げてきた「同志」として、その文面の裏から噴き出すマグマのような怒りをはっきりと読み取った。
(『俺が何世代も命を削って育て上げた三百年の技術ツリーを、紙切れみたいに消されてたまるか』……)
結衣は思わず、フッと口角を上げた。
今まで憎まれ口を叩き合い、責任をなすりつけ合ってきた「現場」と「上流」。しかし今、二人の怒りのベクトルは、「理不尽な監査機構」という強大な共通の敵に向けて、寸分の狂いもなく完全に一致したのだ。
「……やってやろうじゃない。私の有休と、あなたの三百年のために」
結衣の瞳に、悪徳管理者のような冷たい光が宿る。
まともに是正勧告に従えば、ボーナスも歴史も終わる。ならば、監査機構の目を欺き、システムそのものをハックしてリセットを阻止するしかない。
しかし、JIRA上のやり取りは今や、すべて上位の監査AI(発注者側)に筒抜けとなっている。
『B、レスバは休戦よ! 一緒にクソ運営をハックしてリセットを阻止しましょう!』などと直接的な共闘を書き込めば、その瞬間に不穏分子としてアカウントを凍結され、即座にリセットが執行されるだろう。
必要なのは、監査AIの言語処理では「正常な業務連絡」として処理され、かつ、画面の向こうにいる歴戦の現場監督にだけ伝わる『高度な暗号(ビジネス定型文)』だ。
結衣はキーボードに指を乗せ、執行期限である『金曜18時』を逆算しながら、極めて事務的なトーンでタイピングを開始した。
---
## 【管理者:A(結衣)からの対応方針】
本件、監査機構の是正勧告を受理いたしました。
つきましては、システム標準時『金曜18時』に向け、当方にて環境レイヤーの【大幅なシステムアップデート】を実施いたします。
現場におかれましては、アップデート適用完了まで【現在のトラフィックを維持】し、システムの挙動監視にご協力をお願いいたします。
書き終えた文章を見直し、結衣は無言でエンターキーを押した。
文面だけを見れば、「監査の指示通り、金曜18時に向けて問題を修正するアップデートを行います。現場はそのまま待機していてください」という、極めて従順で平凡な業務連絡だ。
だが、その裏に隠された結衣の意図(メッセージ)は、全く違う。
(いいこと、B。私は明日(木曜)の日中を使って、金曜18時の執行ギリギリに監査をハックする【
送信ボタンを押した後、結衣は祈るような気持ちでモニターを見つめた。
通じるか。
顔も、素性も、互いがどんな状況に置かれているのかすら知らない。ただ、JIRAというタスク管理ツールの向こう側にいるだけの、不遜で、しぶとくて、優秀な現場監督。
十秒、二十秒と、重苦しい沈黙が流れる。
そして。
画面の右下に「ポン」と小気味よい通知音が鳴り、Bからの返信が届いた。
--
## 【報告者:Bからの返信】
承知いたしました。
ご指定の時刻まで、現場は現在の稼働状況を【最大出力で維持】いたします。
上流でのアップデートの成功を、心より祈念いたします。
結衣は、大きく息を吐き出し、背もたれに深く寄りかかった。
通じた。完全に意図を察してくれた。
(『限界までシステムに負荷をかけてやるから、絶対に裏パッチを成功させろよ』……ね。任せなさいっての)
JIRAの冷たいビジネス文書越しに、プロフェッショナル同士の「言葉なき共闘」が成立した瞬間だった。
結衣は冷めきったカフェラテを一気に飲み干すと、コンソール画面を再起動し、管理者権限の最深部へとアクセスするためのコマンドプロンプトを立ち上げた。
理不尽なシステム監査機構を出し抜くための、木曜日の果てしない仕込み(デスマーチ)が始まろうとしていた。