【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
金曜日の午前9時55分。
オフィス街に差し込む朝の光はどこまでも平和で、フロアには電話のベルや社員たちの雑談、コピー機が紙を吐き出す軽い機械音が満ちていた。
だが、その一角――結衣のデスクだけは、異様な緊張感に包まれていた。
大型のマルチモニター3台を並べた結衣の視線は、目開く間もなく流れていく漆黒のコンソール画面に固定されている。傍らには、すでに飲み干されたエナジードリンクの空き缶と、冷めきった缶コーヒーが転がっていた。
(タイムリミットまで、あと5分……)
結衣はキーボードのエンターキーの上で、人差し指を微かに震わせた。
先週末から続いた、システム監査機構――この世界における『神』との不毛なプロトコル交渉。
現場の異常な物理演算と世界崩壊の危機を「是正勧告」という形で警告してきた監査AIに対し、結衣は時間を稼ぐために無数のダミーログとログ迂回処理を叩き込み続けてきた。
だが、それも限界だ。
データサイエンティストとしての結衣の予測モデルは、恐ろしいほど正確な結論を弾き出していた。
――本日、金曜日の午前10時00分。
システム監査機構は、この「是正不能なバグだらけの世界」に見切りをつけ、根本的な初期化(フォーマット)を強制実行する。
「ふぅ……」
結衣は深く息を吐き出し、背もたれに体重をあずけた。
データサイエンスの観点から言えば、これは完全な敗北条件だ。すべてのインスタンスは破棄され、結衣が構築した時系列データモデルも、Bが命を削って育て上げた国も、Cが作り出した狂気の構造物も、すべてはただの『ゼロ』に還元される。
だが、結衣の瞳には絶望の色など微塵もなかった。
むしろ、獲物を狙う肉食獣のような、鋭く歪んだ歓喜の光が宿っている。
「来なさいよ、クソ運営……。私の満額ボーナスと有給を奪おうとしたこと、データで後悔させてやるわ」
カチ、と壁のデジタル時計が午前10時00分00秒を刻んだ。
――次の瞬間。
結衣のメインモニターが、前触れもなく禍々しい深紅に染まった。
```text
====================================================================
[CRITICAL ALERT] SYSTEM AUDITOR: EXECUTING PURGE PROTOCOL
Target Instance: WORLD_INSTANCE_009
Action: System Isolation & Hard Formatting
Reason: Unrecoverable Physical Calculation Anomaly / User Intervention Error
====================================================================
```
スピーカーから、鼓膜を刺すような甲高い警告音が鳴り響く。
画面上のグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)が、端からガラガラと崩れ落ちるように灰色へと変色し、すべてのシステムメニューが次々とグレーアウトしていく。
『警告:対象インスタンスの隔離、および
無機質な機械音声が、コンソールの奥底から響く。
結衣はすぐさまキーボードへ両手を叩きつけ、超高速のブラインドタッチで緊急停止コマンドを叩き込んだ。
`> sudo systemctl stop purge-process.service --force`
爪がキーボードを激しく打つ音がフロアに響く。
だが、画面の中央に躍り出たのは、結衣の介入を嘲笑うかのような冷酷な一文だった。
`Access Denied: Root authority suspended by System Auditor.`
`Error Code: 0x80070005 (Unauthorized Operations)`
「拒否……! チッ、そりゃそうよね。監査AIの直下プロセスだもの。私のルート権限を真っ先に
結衣の管理者アカウントは瞬時に凍結(ロック)された。
通常であれば、ここでプレイヤーとしての、あるいは管理者としての操作は完全に不可能となる。
画面に映る世界はノイズに包まれ、数秒のうちに消滅するはずだった。
――しかし。
「……? ちょっと、待って……」
結衣は不自然に目を見開いた。
画面の端で明滅している『フォーマット進行度(Purge Progress)』のプログレスバー。
本来なら一瞬で100%まで跳ね上がるはずの数値が、狂ったようにチカチカと明滅しながら、信じがたい停滞を見せていたのだ。
`Purge Progress: 0.0001% -> 0.0002% -> 0.0002% ... (System Bottleneck Detected)`
「フォーマットの実行処理が……進んでいない? 通常なら数ミリ秒で全領域のデータインデックスを破棄してメモリを解放できるはずなのに、なんでこんなにクロックが死んでるの……!?」
結衣は権限がロックされていない、低層レイヤーのパケット監視ツールとカーネルリソースモニターを緊急で呼び出した。
画面上に、サーバー内のCPUコアごとの負荷率と、スレッドの割り当て(nice値)が折れ線グラフとなって描かれる。
そこに現れたデータを見た瞬間、結衣は思わず言葉を失い、次の瞬間には腹の底からこみ上げる笑いを抑えきれなくなった。
「嘘でしょ……!? Bさんの現場、今どうなってるのよこれ!?」
---
午前11時30分。
結衣がリソース解析を進めるほど、サーバー内部で起きている『惨状』の全貌が明らかになっていった。
昨夜、結衣がJIRAチケットを通じてBに叩きつけた『エージング試験(嫌がらせの連続高負荷)』の指示。
「ふいごを増設し、動的な物理オブジェクトを極限まで生成しろ」という無茶振りを、現場責任者・Bは完璧すぎる形で(そして狂気じみた愚直さで)実行に移していた。
Bが現場にデプロイしたのは、数万本に及ぶ動的な鉄パイプ。
そしてそれを、限界突破した超高速で往復運動させる無数の「高圧ふいご機構」だった。
画面上のリソースモニターは、真っ赤な限界値(99.9%)を指してピクリとも動かない。
「Bさんが現場にデプロイした数万の鉄パイプの『
データサイエンティストとしての視点が、その真の恐怖を解読する。
神(システム監査機構)が放った『歴史剪定プロセス』は、優先度の高いシステム割り込みとしてサーバーへ侵入した。
しかし、サーバーのCPUコアは、すでにBが解き放った「数万本の鉄パイプの跳ね返り演算」と「空気圧の伝鎖計算」によって埋め尽くされていたのだ。
「監査AIの『世界消去プロセス』が
結衣は思わず、身乗り出してモニターに顔を近づけた。
システム監査機構という圧倒的な『上位権限』に対し、Bが突きつけたのは、あまりにも泥臭く、圧倒的な『量』による物理DDoS攻撃だった。
どんなに強力な消去コマンドであっても、それを処理するためのCPUサイクルが回ってこなければ、ただの「順番待ちのタスク」に過ぎない。
「凄いわ……! Bさんの狂気の物理演算による
結衣の口角が、ゾクゾクとするような快感とともに吊り上がる。
神の絶対的な宣告を、現場のドテンバな泥臭い力技で物理的にねじ伏せる。
この圧倒的なカオスこそ、彼女がこの世界に見出していた最高のエンターテインメントだった。
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午後2時00分。
オフィスでは昼休みが明け、周囲の社員たちがまったりとした空気の中で業務を再開している。
そんな中、結衣は冷めきったカフェラテを一口含み、自作のパケットキャプチャーツールを睨み続けていた。
自分のルート権限はロックされている。
しかし、昨日自分が秘密裏に仕込んだ『裏口(バックドア)』と、時間をミリ秒単位で揃えるための『時間同期パイプライン』の通信ログだけは、暗号化された低層レイヤーでかろうじて稼働を続けている。
だが、そのログを流し読みしていた結衣の細い眉が、ふと不自然そうにひそめられた。
「……待って。何かがおかしいわ」
データサイエンティストとしての直感が、脳裏で鋭い警鐘を鳴らす。
結衣は時系列データの分散と、通信遅延の揺らぎ(ジッター)を示すグラフを最大まで拡大した。
「現在のサーバーは、Bさんの嫌がらせ負荷でCPU使用率が99.9%に張り付いてるのよ? クロック周波数はガタガタで、ネットワークパケットの遅延だって数十から数百ミリ秒単位でランダムに発生するはず……」
超高負荷状態のサーバー内では、時刻の同期など絶対に不可能なはずだった。
処理落ちによってクロックが飛び、パケットは喪失し、送信タイマーはズレ込む。
にもかかわらず。
結衣が仕込んだ『時間同期パイプライン』の同期パケットは、まるで静寂に包まれた実験室の中のように、恐ろしいほどの精度で「金曜18時」に向けたカウントダウンを維持していた。
`Sync Jitter: 0.0008ms (Optimized by External Proxy)`
`Clock Phase: PERFECT MATCH`
「ジッターが……0.001ミリ秒以下に収束してる……!? こんなの統計学的にあり得ないわ! 誰かが、リアルタイムでクロックのズレを計算して、超高精度で補正パッチを当て続けてる……!?」
結衣は息を呑み、ログのヘッダー情報をより深いレイヤーまで逆コンパイルした。
画面に溢れ出すのは、アセンブラに近い極小のバイト列。
そこに残されていたのは、常人にはおよそ不可能な、芸術的とすら言えるネットワークパケットの改ざんと誘導の痕跡だった。
「負荷でガタガタになった同期パケットに対して、誰かが超絶技巧の『
結衣の背筋を、冷たい衝撃が駆け抜けた。
監査AIの厳重な監視の目を盗み、なおかつ物理演算でパンク寸前のサーバー上で、完璧な動的負荷分散を行っている「謎の観測者」。
このレベルのネットワーク制御と時系列解析をやってのける存在など、この世界にただ一人しか心当たりがない。
「私以外にこんな神がかった
脳裏に浮かんだのは、かつて第23話以前に、自分と同じレベルでシステム構造を解析し、裏でデータを観測していた「あの存在(ミネルヴァ)」の影だった。
(姿を消したと思っていたけれど……裏でずっと、この世界のデータを観測し続けていたの……? そして今、私の時間同期コードを裏から補正して、監査AIの目を眩ませてくれているの……!?)
メッセージはない。ログに名前すら残されていない。
だが、パケットの隙間に残された圧倒的に無駄のない美しく洗練されたコードの癖が、彼女の存在を雄弁に物語っていた。
「フフ……あははっ!」
結衣は思わず、手で口元を覆いながら声をあげて笑ってしまった。
隣の席の同僚が「え、結衣ちゃんどうしたの?」と不審そうな顔で見てくるが、今の結衣にはそんなことすらどうでもよかった。
「頼もしいじゃないの……! 姿を隠したまま、私に最高の計算環境をお膳立てしてくれるなんてね!」
正体不明の支援者(ミネルヴァ)の影に確信を得た結衣は、完全に思考を切り替えた。
監査AIの消去プロセスは、Bの嫌がらせ負荷(衝突判定演算)によって足止めされている。
『時間同期パイプライン』は、ミネルヴァの超絶技巧によってミリ秒単位の狂いもなく保護されている。
条件は、すべて揃いつつあった。
「残る問題は……ロックされた私の権限をどうやって迂回するか、ね」
自分のアカウントは死んだ。管理者コマンドも通らない。
だが、どれほど完璧な監査システムであっても、膨大な処理負荷とプロセスの奪い合いが起きていれば、必ずどこかに『歪み(メモリリークや権限の漏れ)』が発生する。
「18時までに見つけてあげるわ。神のシステムに残された、決定的なガバをね……!」
決戦の金曜日18時まで、残り3時間30分。
結衣の指は、反逆の狼煙をあげるための「突破口」を探し、再び猛烈な勢いでキーボードの上を跳ね回り始めた。