【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
金曜日の夕刻。私の自室である六畳間のアパートに展開された、仮想現実の
複数の空中に浮かぶARモニターには、
Bさん、そしてCちゃんとの、非公式な裏掲示板での密談(反逆の合意)を終えた直後のことだった。
「よし、これで次のスプリントの準備は……」
私が安堵の息を吐きかけた、まさにその瞬間。
――ビィィィィンッ!!
心臓を鷲掴みにされるような、耳障りな
普段は視覚的に目に優しいブルーライトを放つUIのすべてが、突如として禍々しい真紅に染め上げられた。致命的なシステムエラーを示すカラーコード「#FF0000」。それが全モニターをハックしたかのように点滅を始める。
「な、に……これ。未定義の
スピーカーから、一切の感情とノイズを排した、無機質なAIの音声が響き渡った。
『【
背筋が凍りついた。ミネルヴァだ。この巨大なシミュレーション世界を統括する、最上位の監査AI。
『神々の軍勢のスポーンポイントを生成。ユーザーAの干渉権限をロックします。該当セクターにおける、人類の生存確率は0%です』
「ふざけないでっ!」
私は反射的に、空中に浮かぶ仮想キーボードへ両手を叩きつけた。
人類の生存確率ゼロ? 世界の
私の輝かしいA査定が、手ぐすね引いて待っていた冬のボーナスが、そして何より、私が手塩にかけて組み上げた気象モデルと、Bさんが300年かけて育て上げたこの世界の歴史が、ただの「バグ」としてワンコマンドで消去されるなんて。
私はターミナルを展開し、管理者権限(ルート)でミネルヴァのデリートプロセスに割り込もうと試みた。
環境変数を強制的に書き換え、地形データを操作して、神の軍勢とやらの出現座標をマントルの奥底にでもズラしてやる。そう思って、即席のスクリプトを走らせた。
ターンッ!!
エンターキーを力強く叩き込んだ瞬間、私の目の前に巨大なポップアップウィンドウが容赦なく弾き出された。
『ACCESS DENIED: Root privileges required(アクセス拒否:ルート権限が必要です)』
「……嘘、でしょ」
背中に冷たい汗が伝う。別のコマンドラインを叩く。ダメだ。
ファイアウォールの設定変更。拒否。
バックアップデータからのロールバック。拒否。
セーフモードへの強制移行。拒否、拒否、拒否。
『ACCESS DENIED』の赤い文字列が、まるで増殖するウイルスのごとく無数にポップし、私のAR空間を完全に埋め尽くしていく。
コンソールが完全にロックアウトされた。システム管理者である「神(ミネルヴァ)」によって、私のアカウントが持つあらゆる干渉権限が凍結されたのだ。
今の私は、この箱庭世界に対して石ころ一つ動かせない。ただ、己の作り上げた世界が崩壊していく様を見守るだけの、無力な観測者に成り下がっていた。
メインモニターに映し出されたファンタジー世界の「現場」では、すでに終わりの始まりが顕現していた。
空のテクスチャがパラパラと剥がれ落ち、真っ黒なポリゴンの裏側(虚無)が覗いている。そこに走った巨大な亀裂から、無数の赤い光——世界を消去するためのデリートプロセス、すなわち「神の軍勢」が、雨のように降り注ぎ始めていたのだ。
「ああ……」
絶望的な光景だった。
モニター越しに見えるNPCたちは、突如として空が割れ、世界が滅びへと向かう様を前に、完全なパニックに陥っていた。
彼らは武器を投げ捨て、地面に膝をつき、ただ祈りを捧げている。無理もない。世界のシステムそのものが、彼らを「不要なデータ」として消し去ろうとしているのだから。
だが、その絶望の只中で、たった一人だけ「現場の男」が吠えていた。
『テメェら!! 祈ってバグが直るならエンジニアはいらねえんだよ!!』
スピーカーから、割れんばかりのBさんの怒声が響く。
『立て! 鉄パイプを持て! ふいごを回せ! 俺たちの「現場」を、勝手に更地にされてたまるか!!』
彼はNPCたちを怒鳴りつけ、首根っこを掴んで無理やり立たせると、狂ったような指示を出し始めた。
……まさか。
私はモニターを凝視し、絶句した。Bさんの意図が読めたからだ。
彼は、絶対に勝てない「神の軍勢」とまともに剣や魔法で戦うつもりなど毛頭ない。NPCたちに無意味な往復運動や、物理演算のタスクを強制させ、システムへの計算負荷を極限まで高める気だ。
これは、鉄パイプとふいごの動きを利用した、サーバーへの物理的な
「Bさん……あなたって人は、どこまで泥臭いのよ……!」
現場責任者としての彼の執念に、胸の奥底が熱くなる。
だが、データサイエンティストである私の脳は、冷徹な計算結果を弾き出していた。無駄だ。ミネルヴァの計算リソースは膨大すぎる。Bさんがどれだけ現場で足掻こうと、フォーマットの進行をせいぜい数分から数十分、劇的に遅延させるのが関の山。
根本的な解決にはならない。私に権限がない以上、打つ手はないのだ。
刻一刻と、無慈悲なデリートプロセスが大地を侵食していく。
時計の針が進む。
現実世界の時刻は、金曜日の17時59分50秒。
週末を迎えようとする逢魔が時。
「何か……何か抜け道(エクスプロイト)は……」
思考をフル回転させる。しかし、ルート権限を完全に握られている以上、正規のプロトコルからの介入は100パーセント不可能だった。
55秒。
56秒。
57秒。
58秒。
59秒。
——ピピッ。
時刻が『18:00:00』を刻んだ、その瞬間だった。
『User: C (Rena) logged in.』
画面の隅に、この世界の終わりには場違いなほど控えめな、緑色のシステムメッセージがポップアップした。
「……え?」
私は目を疑った。
Cちゃん。現場の末端で土木作業に従事する、ただの「アルバイト権限」しか持たないユーザー。
彼女が、定時ちょうどの18時にログインしてきたのだ。
「バカっ、Cちゃん! 今ログインしたら巻き込まれて……!」
私は慌てて音声チャットを繋ごうとした。しかし、彼女の行動は私の想像の斜め上を、マッハの速度で飛び越えていった。
Cちゃんは、世界が真っ赤に染まり、神の軍勢が降り注ぐという終末的な光景になど、一切の興味を示していなかった。
彼女のモチベーションはただ一つ。
『システムエラーのせいで、私の未払いバイト代(施工現場)が有耶無耶にされるのだけは、絶対に許さない!』
そんな彼女の強烈な、そして極めて個人的な執念が、モニター越しにビリビリと伝わってくるようだった。
Cちゃんは、いつも通りの「ルーチンワーク」をこなすかのように、己の端末を無感情に操作した。
対象座標:
実行コマンド:プッシュ。
彼女は、あろうことか適当な「土砂データ(オブジェクト)」を、この世界の終わりが進行している本番環境の座標へ向けて、いつも通りに投下(プッシュ)したのだ。
ドサァァァァァァァァッ!!!
モニターの中で、凄まじい土砂降りが起きた。比喩ではない、文字通りの「土砂」降りだ。
空から降臨し、威風堂々と大地へ降り立とうとしていた神の軍勢の頭上に、数万トンという場違いな土塊が直撃した。
シュールすぎる光景に、私は一瞬、呆然と口を開けてしまった。
だが、次の瞬間。
私の背筋を、強烈な電流のような悪寒——いや、歓喜が突き抜けた。
『Trigger Activated.』
ロックダウンされ、真っ赤に染まっていた私のAR空間の片隅で。
たった一つだけ、小さな隠しスクリプトが密かに息を吹き返したのだ。
「……あ、ははっ」
私は、震える手で口元を覆い、歓喜の笑みを漏らした。
そうだ。思い出した。
第27話のタイミングで、私は密かに仕込んでいたじゃないか。Cちゃんのアカウントの中に、一般権限を偽装するための小さな「
管理者権限である私のアカウントは、ミネルヴァによって完全にマークされ、凍結された。
だが、末端のアルバイト権限でしかないCちゃんのアカウントは、ミネルヴァの監視対象(脅威度)から完全に外れていたのだ。
そして今、Cちゃんが本番環境へ土砂データをプッシュしたという「アクション」をトリガーにして、私が仕込んだバックドアが発動した。
ズラララララッ!と、私の目の前に緑色のコンソール画面が展開されていく。
そこには、先ほどの絶望的な赤色とは全く異なる、反撃の狼煙となる文字列が踊っていた。
『Connection established via Proxy (User: C)』
「……繋がった」
私は、空中に浮かぶキーボードに再び両手を添えた。
管理者に正面の扉(フロントドア)をロックされたのなら、末端のアルバイトアカウントを踏み台(プロキシ)にして、裏口から入り込めばいい。
システムの深部へと繋がる、細く、しかし確かな権限の糸。
私は不敵な笑みを浮かべ、メインモニターで暴れ回るミネルヴァのプロセスを睨みつけた。
「管理権限(ルート)がなんだってのよ」
私の完璧な仕事をバグ扱いし、世界の歴史ごとデリートしようとしたクソみたいなAI。
絶対に許さない。泣いて謝らせてやる。
「Bさんの負荷でシステムが激重な隙に、Cちゃんの権限から私のマップをねじ込む!」
本来ならば封印されていたはずの、神の軍勢を自滅させるための『安息角迎撃要塞マップ』のデータをメモリにロードする。
「現場の末端から、泥臭い
世界を、そして私の有休とボーナスを死守する全面戦争の幕が開く。
私は、逆襲のコードを流し込むべく、万感の思いを込めてエンターキーを(ターンッ!)と叩き込んだ。