【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
六畳間のアパートに、異常な熱気が立ち込めていた。
私の周囲に展開された仮想現実の
額から噴き出した汗が、顎を伝ってポタポタとキーボードの上に落ちた。エアコンの設定温度はとっくに十八度まで下げているというのに、部屋の空気はまるでサウナのように生暖かく、息苦しい。
「……何よ、これ。どうなってるの……っ」
私は張り付く前髪を苛立たしげに掻き上げながら、メインモニターの隅に表示されている『環境温度シミュレータ』のログウィンドウを凝視した。
そこには、私の目を疑うような異常な数値が、真っ赤な警告色とともに凄まじい勢いで流れ続けていた。
『環境気温:35.2°C……38.8°C……43.1°C……48.5°C……』
数字は止まることなく上昇を続け、瞬く間に生物の生存限界を脅かす『50°C』の大台を突破した。
仮想の箱庭世界における気温シミュレーションは、通常であれば自然界と同じように太陽光の角度や大気の循環、海流の動きなどを計算して算出される。局地的に異常な熱源が発生したとしても、大気循環のアルゴリズムが働いて周囲へ熱を分散させ、一定の環境温度を保つように恒常性(ホメオスタシス)のプログラムが機能するはずだった。
それが、五十度超え? そんな馬鹿なことがあってたまるか。
私は震える指でコンソールを叩き、環境変数のステータスを確認した。
そして、その原因の根源となる恐ろしい事実に気づき、一瞬にして全身の血の気が引いた。
「嘘でしょ……まさか。サーバーの排熱が、そのまま『箱庭世界の気温』に直結してフィードバックされてる……!?」
この箱庭世界を統括する監査AIミネルヴァの処理サーバーは今、Bさんが現場のNPCたちに強制している狂気的な物理演算タスク——無数の鉄パイプの衝突と、ふいごによる流体演算の連鎖——によって、CPU使用率が100%の極限状態に張り付いている。
ハードウェアが限界を超えて稼働し続ければ、当然ながら凄まじい熱エネルギーが発生する。現実のデータセンターであれば、強力な空調設備で強制冷却するところだが、このシミュレーターの仕様は違った。
サーバーメインフレームの異常発熱を逃がすための『緊急排熱処理』が、仮想世界である箱庭の気象モデルへと直接リンクしていたのだ。
しかし、それでもおかしい。
熱が仮想世界に流れ込んだとしても、この箱庭にはその熱を宇宙空間(虚無のデータ領域)へと逃がすための大気循環モデルが存在している。それが正常に働いていれば、一箇所に五十度もの熱が滞留することなどあり得ないのだ。
「……あ」
その時、私の脳裏に、数週間前の忌まわしい記憶がフラッシュバックした。
このセクターの初期構築を行っていた時のことだ。私は厳しい納期のプレッシャーに追われ、徹夜続きで朦朧とする意識の中、
しかし、スケジュールは遅れに遅れていた。私は焦りのあまり、一つの重大な妥協を犯した。
『このセクターの大気循環モデルの複雑な熱力学演算……重すぎるわね。とりあえず今の気候なら問題ないし、排熱コードの記述は後回し(コメントアウト)にして、納期に間に合わせよう』
いわゆる、「技術的負債」だ。
後で必ず直すつもりだった。次のスプリントで修正パッチを当てる予定だった。だが、次々と降ってくる新しい要件定義とトラブル対応に追われ、結局その『排熱設計の抜け穴(バグ)』は一度も修正されないまま、今日まで放置されてしまっていたのだ。
「私の……私の手抜きのせいで……熱が、すり鉢の底から一切逃げなくなってる……!」
後悔で胸が押し潰されそうになる。
私が強引にインジェクションした『安息角迎撃要塞』。その巨大なすり鉢状の地形の底(キルゾーン)に、Bさんの物理DDoSが引き起こした莫大な熱エネルギーが、逃げ場を失ってダムのように蓄積していく。
そこに、システムを根底から破壊する決定的な
『警告:セクター座標[X:4492, Y:102, Z:8830]において、極度な高熱エネルギーと、大量の「土砂オブジェクト」の衝突を検知』
第31話で、定時退社間際のCちゃんが未払いバイト代への怒りに任せて適当にプッシュした、あの膨大な土砂データだ。
ただの土と砂のテクスチャデータが、逃げ場のない摂氏五十度超えの熱エネルギーの坩堝へと雪崩れ込んだ瞬間。極限のラグで処理落ちを起こしていたミネルヴァの熱力学エンジンと流体演算エンジンが、ついに致命的な計算エラー(浮動小数点アンダーフロー)を引き起こした。
モニターの向こう側で、信じられない化学反応が起きた。
物理法則のバグが、サラサラの土砂と地下水脈をドロドロに溶かし合わせたのだ。
大地が赤黒く変色し、ボコボコと不気味な泡を立てて沸騰を始める。それはもはや土ではない。あらゆるオブジェクトの耐久値を無視して溶かし尽くす、強酸性のスライム状の泥水——すなわち、触れれば即死クラスの【死の沼】へと変異を遂げた瞬間だった。
「これって……!」
私は目を見開き、モニターに釘付けになった。
迎撃要塞のすり鉢の底。そこはもはや、ただの地形ではない。神の軍勢を丸呑みにする、煮えたぎるバグの処刑場だ。
ミネルヴァの処理能力が100%でスタックし、フリーズしたまま身動きが取れなくなっていた赤いポリゴンの群れ——神の軍勢たちが、その「死の沼」のど真ん中に取り残されていた。
『警告:デリートプロセス群に、予期せぬ環境ダメージ(スリップDoT)を適用』
『プロセス耐久値:100%……87%……62%……30%……』
凄まじい勢いで、神の軍勢のHPバー(プロセス保持力)が削られていく。
本来であれば、神の軍勢は周囲の環境ダメージを無効化する防御プロトコルを持っているはずだった。あるいは、地形そのものを破壊して沼から脱出する演算を実行することもできたはずだ。
しかし、ミネルヴァのCPUはBさんの物理DDoSによって完全にスタックしている。「防御バフを展開しろ」「ジャンプして脱出しろ」という命令コマンドは、すべて処理待ち(キュー)の最後尾に回され、実行されない。
結果として何が起きたか。
ジュウウウウウウウウッ……!!!
凄惨な、しかしどこか滑稽な融解音が響き渡る。
世界を消去(フォーマット)するために降臨したはずの無敵の神々が、自らが生み出した「サーバーの排熱」と、アルバイトが適当に投げ込んだ「泥の重み」によって、まるで熱したフライパンに落とされたバターのように、次々と無様に溶けていく。
赤いポリゴンがボロボロと崩れ落ち、強酸性の泥水の中にジュクジュクと沈み込んで、二度と浮かび上がってこない。
「……あははっ! あははははっ!」
私は歓喜のあまり、誰もいない部屋で声を上げて笑った。
完璧で冷徹な監査AIが、泥臭い人間のバグ(技術的負債)に足元をすくわれて自滅していく。
これだ。これこそが、私たちが泥水すすって生き抜いてきた「現場」の強さだ。
「自然環境のバグ(排熱漏れ)を利用した、強制的な
私たちは勝てる。世界の歴史も、私のボーナスも、有給休暇も、すべて死守できる。
勝利の確信が胸を満たし、私はガッツポーズのために拳を握りしめた。
だが——。
メインモニターの端、視界の隅に映し出された『別の座標』の状況を見た瞬間。
私の歓喜は、真冬の湖に放り込まれたかのように、一瞬にして凍りついた。
「……嘘でしょ? 待って、そんな……」
熱力学の基本。
熱い空気は、上昇する。
すり鉢の底で五十度を超えた高熱の空気と、死の沼から立ち上る強酸性の有毒ガスは、逃げ場を求めてすり鉢の斜面を這い上がり、その「縁(ふち)」へと容赦なく逆流(バックドラフト)し始めていたのだ。
すり鉢の縁。そこは——。
『ゴハッ……! ゲホッ、なんだ、この熱風は……っ!』
『息が……肺が焼ける……ッ! 空気が、痛い……!』
そこは、Bさんと数百人のNPCたちが、ミネルヴァのCPUを麻痺させるために、命がけで鉄パイプを叩き、ふいごを回し続けている「最前線の現場」だった。
モニター越しに見えるNPCたちの頭上に、真っ赤な『状態異常:重度の熱中症』『スリップダメージ:酸性ガス』のアイコンが次々と点灯し始める。
彼らのHPバーが、ジリジリと、しかし確実に削られていく。
五十度の熱波。それは、ただ立っているだけでも体力を奪い、数分で人間を死に至らしめる致死の環境だ。そんな中で、全力で鉄パイプを振り回すような重労働を続ければどうなるか。
バタッ、と。
ふいごを回していた若い職人の一人が、白目を剥いて地面に倒れ伏した。
それに連鎖するように、一人、また一人と、熱と酸のダメージに耐えきれなくなったNPCたちが、持っていた鉄パイプを取り落とし、膝をついていく。
「やめ……やめて! Bさん、もう手を止めてっ!!」
私はARコンソールのマイクに向かって、半狂乱で叫んだ。
「このままじゃ、みんな茹で上がって死んじゃうわ! 作業を中止して、今すぐそこから退避して!」
もしこのまま作業を続ければ、数分以内に現場のNPCたちは全滅する。
しかし、もし彼らが手を止めてしまえば、物理DDoSの負荷が消え、ミネルヴァのCPU使用率の縛りが解けてしまう。スタックしていた「地形の平坦化」や「環境ダメージ無効化」のコマンドが即座に実行され、神の軍勢が息を吹き返す。
そうなれば、世界は一瞬でフォーマットされ、彼らの300年の歴史も、すべてがゼロに巻き戻される。
進んでも地獄、退いても地獄。
システムのバグが生み出した、究極の二択。
私の悲痛な叫びは、現場のBさんにも届いていたはずだ。
モニターの向こう側。視界が熱気の陽炎で歪む中、Bさんは持っていた鉄パイプを地面に突き刺し、荒い息を吐いていた。
彼のHPバーも、すでに黄色から赤の危険域へと突入している。全身は汗と泥にまみれ、口の端からは血がツーッと一筋垂れていた。
限界だ。誰の目から見ても、これ以上の稼働は不可能だ。
だが、Bさんは倒れなかった。
彼は血を吐きながらも、その口元に、私がこれまでに見たこともないほど獰猛で、狂気的な笑みを浮かべていた。
『死ぬだと……? ふざけんな……!』
Bさんは、倒れ込んだNPCの胸ぐらを荒々しく掴み上げると、無理やり立たせた。そして、血走った目で周囲の全員を睨みつけ、地鳴りのような怒声を叩きつけた。
『俺たちの現場に、退勤(リタイア)の文字はねぇんだよ……!!』
『システムがなんだ! 熱波がなんだ! 俺たちは300年間、泥水すすって命を繋いできたんだ! ここで手を止めたら、俺たちの生きた証拠が、全部あのアマ(AI)のゴミ箱に直行するんだぞ!!』
Bさんの叫びが、熱風を切り裂いて響き渡る。
倒れかけていたNPCたちの瞳に、再びギラギラとした、抗いの炎が宿り始める。
『一班、二班、三班! 総員、隊列を組み直せ! 限界までパイプを振ったら、後ろの奴と代われ! 倒れた奴は安全地帯に引きずり出して水(ポーション)をぶっ掛けろ!』
それは、死線をくぐり抜けるブラック企業顔負けの、狂気の労働管理。
『ここからは、命を削るシフト管理(ローテーション)の時間だぁっ!! 一人あたり『2分45秒』! それがお前らの限界稼働時間だ! 死ぬ気で回せェェェェッ!!!』
Bさんの号令と共に、現場の歯車が再び、血みどろの回転を始めた。
致死環境の熱波の中、NPCたちが自らの「2分45秒」という寿命をカウントダウンしながら、次々と最前線に飛び込んでいく。
世界と生き残りを賭けた、最終局面の戦い。
神のシステムを破壊するための、泥臭く、あまりにも人間臭い、狂気のタスクローテーションが幕を開けた。