【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
摂氏五十度。
それは、もはや気温という生易しい言葉で呼べる代物ではない。人間を構成するタンパク質が悲鳴を上げ、呼吸器官が焼き切れる、純然たる「致死環境」だ。
私の六畳間に展開されたARモニター越しでさえ、仮想の箱庭世界から伝わってくる熱気のシミュレートデータが、ローカルサーバーの冷却ファンを狂ったように回転させている。
画面の向こう側——私が構築した『安息角迎撃要塞』のすり鉢の縁(ふち)には、強酸性の【死の沼】から立ち上る有毒なガスと、視界を歪ませるほどの凄まじい熱波が吹き荒れていた。
『次ッ! 三班、前へ出ろ! 鉄パイプの角度を落とすな、システムに休む隙を与えるなァッ!』
スピーカーから響き渡る、Bさんの血を吐くような号令。
それは、絶望的な死地においてなお、神(ミネルヴァ)の処理サーバーを力で押さえつけようとする、狂気の
「嘘でしょ……持ってるの……? あの致死環境で、まだシステムへの負荷(ヘイト)を維持してる……?」
私は信じられない思いで、コンソールに表示されるミネルヴァの『CPU使用率』のメーターを凝視した。
メーターの針は、依然としてレッドゾーンの『100%』へベタリと張り付いたままだ。神の軍勢を足止めするための超負荷の波は、いささかも衰えていない。
だが、どうやって? 五十度の熱波と酸の蒸気の中で、人間が全力で鉄パイプを振り回すような重労働を続けられるわけがない。数分で全員が茹で上がり、全滅しているはずだ。
私はメインモニターの映像を拡大し、最前線の現場(すり鉢の縁)の惨状を映し出した。
そこで私が見たものは——目を疑うような、地獄の、そして完璧に統率された
カンッ! ガァンッ! キィィィンッ!
NPCの職人たちが、狂ったような速度で不規則に鉄パイプを叩き合わせ、無数の物理演算(衝突判定)を発生させている。
彼らの頭上には、赤く点滅するHPバーが表示されている。熱波と酸のダメージ(環境DoT)により、そのバーは秒単位でゴリゴリと削られていく。
『時間だ、下がれッ!』
Bさんの怒声が飛ぶ。
その瞬間、最前線でパイプを振っていた一人のNPCが、HPバーが残り「ミリ」になった状態——まさに死の淵に足を踏み入れる寸前で、後ろへ大きく跳躍した。
同時に、後方で待機していた別のNPCが、入れ替わるように最前線へと飛び込み、寸分の狂いもなく鉄パイプの乱打を引き継ぐ。
下がったNPCは、後方に用意された安全地帯(泥水が溜まった窪み)へ転がり込み、頭から泥水を被って急速冷却を図りながら、腰に下げたポーション(回復薬)の瓶をガブ飲みする。
ポーションの回復効果でHPバーが緑色に戻る。だが、それも束の間。インターバルを終えた彼は、再び血走った目で立ち上がり、次のローテーションの列へと並んでいく。
「……ッ、『2分45秒』……!」
私は、彼らの交代サイクルを計測し、息を呑んだ。
NPCたちが最前線でパイプを振り、致死環境のダメージに耐えられなくなるまでの正確な限界時間。それが、ストップウォッチで計ったかのように『2分45秒』で統一されているのだ。
「自分の限界(HP)を自主管理して、死ぬ一歩手前でタスクを引き継いでる……!? なんだってのよ、この狂ったシフト管理は……!」
一人が倒れれば、システムに対する計算負荷は落ちる。負荷が落ちれば、ミネルヴァのCPUが復活し、世界は完全に消去(フォーマット)される。
だからこそ、彼らは「絶対に死なないギリギリのライン」で己の命をタスク化し、絶え間なくバトンを繋ぎ続けているのだ。誰かが倒れても、即座に次の人員が入り、システムに対するヘイトは一切途切れない。
AIであるミネルヴァの無機質な処理能力を、人間の泥臭い気合いと根性が、文字通り肉体を削りながら完全に押さえ込んでいる。
ふと、私のAR空間に展開されている
Bさんが現場のシステム権限を使って発行している、大量のタスクカード。
それが、凄まじい速度で『To Do(未着手)』から『In Progress(進行中)』、そして『Done(完了)』へと流れていく。
『タスクID:10444 鉄パイプ打撃(担当:第3班A)→ Done』
『タスクID:10445 ポーション回復待ち(担当:第1班C)→ In Progress』
『タスクID:10446 ふいご最大出力(担当:第2班B)→ To Do』
「これ……全部、Bさんがリアルタイムで計算して、指示を出してるの……?」
ただの根性論ではない。
Bさんは現場の最前線で血を吐きながら、NPC一人一人の「体力回復速度(リジェネレート)」「ポーションの使用制限(クールタイム)」「致死環境からの被ダメージ率」、そして「ミネルヴァのCPU使用率100%を維持するために必要な最低タスク量」。
そのすべてを変数として脳内で計算し、完璧な
「これが……三百年間、最悪のブラック現場を回し続けた男の、極限のリソース管理……!」
私は、戦慄と共に深い敬意を抱かずにはいられなかった。
データサイエンティストである私には、安全な六畳間からコードを叩き、美しい数式で世界を設計することはできる。だが、この血と汗に塗れた命のやり取りを、秒単位のスケジュールで完遂させるような泥臭いマネジメントは絶対に不可能だ。
現場責任者、B。
彼の存在こそが、この箱庭世界が神(システム)に抗うための、最強の
だが——。
ふと、私の脳裏に一つの疑問が過った。
「待って。Bさんが命懸けで神のヘイトを集めてくれてる間……あの『アルバイト』は、どこで何をしてるの?」
Cちゃんだ。
第31話で適当な土砂データをプッシュし、私のバックドアを開通させてくれた彼女のログが、先ほどからパタリと途絶えている。まさか熱波に巻き込まれてリタイアしたのか?
私は慌てて、プロキシ(踏み台)として接続しているCちゃんのアカウントの
「……は?」
私の視界の隅、サブモニターに映し出されたCちゃんの現在座標。
そこは、Bさんたちが死闘を繰り広げているすり鉢の縁からは少し離れた、絶妙に熱波と酸の直撃を免れている「すり鉢の斜面」の中腹だった。
『よっこいしょ、っと。あっつ……ホント、最悪の労働環境ですね。労基に駆け込みますよ、これ』
私の隠し回線(チャット)に、ボイスメッセージが届いた。
相変わらずの、少し気の抜けた、しかし妙に逞しいアルバイトの声だ。
「Cちゃん! 無事だったの!? っていうか、あんたそこで何してるのよ!?」
私がモニター越しに彼女の行動を確認すると、Cちゃんは斜面の角度——私が計算し尽くした『安息角(土砂が崩れないギリギリの角度)』——を器用に利用して、何か巨大な建造物を黙々と組み立てていた。
それは、すり鉢の縁から斜面に沿って底へと向かう、長大な「重力式コンベア(滑り台)」だった。
『何って……見て分かりませんか?
「回収……?」
Cちゃんは、自身が構築した重力式コンベアを利用して、すり鉢の底——【死の沼】の縁から、次々と『何か』を引き上げ、一箇所に集積していた。
私は目を凝らし、そのオブジェクトのデータを解析した。
『オブジェクト:神威金属(高純度データ結晶)』
『オブジェクト:鉄骨(耐久値無限大・廃材)』
『オブジェクト:重機用油圧シリンダー(損傷なし)』
「ちょっと待って、これって……!」
私は息を呑んだ。
【神威金属】。それは、死の沼の強酸と熱波によって融解し、完全消去(デリート)されたはずの神の軍勢たちが、消滅の瞬間に極稀にドロップする超激レアアイテムだった。本来ならシステム側へ回収されるはずの管理者権限付きのデータ結晶。
それに加えて、現場からかき集めてきたであろう極厚の鉄骨や、土木工事用の重機パーツといった無骨な廃材の数々。
「Cちゃん、あんた……こんなガラクタとドロップアイテムを大量に集めて、一体何を作ろうとしてるの!?」
私がチャットを飛ばすと、Cちゃんは額の汗を拭いながら、悪びれる様子もなくヘラッと笑って答えた。
『何って……決まってるじゃないですか。未払いバイト代の代わりですよ』
「は?」
『あのクソAI(ミネルヴァ)、勝手に世界を消去しようとして、私の施工現場を有耶無耶にしようとしたでしょ? 絶対に許しません。だから、この超硬度の廃材と神様のドロップアイテムを限界まで圧縮・結合させて——あのAIの顔面に叩きつけるための『特大の領収書(クラフト武器)』を作ってやってるんです』
狂っている。
Bさんが命を削ってシステムを麻痺させているこの極限状況下で、末端のアルバイトは「自分のバイト代(未払い)の報復」のために、密かに最終兵器のクラフトを進めていたのだ。
集められた資材の質量とデータの重みは、すでに一個人のインベントリに収まるレベルを遥かに超え、コンベアの終点に黒光りする巨大な「杭(パイル)」のような形を成し始めていた。
「バカッ! やめなさいCちゃん! そんな超質量の高密度オブジェクトを、こんな極限のラグ環境下で一箇所に結合させたら……!」
私はデータサイエンティストとしての直感から、最悪のシナリオに気づき、悲鳴のような制止の声を上げた。
だが、遅かった。
ビーーーーーーーーーッ!!!!!
私の六畳間に、これまで鳴っていた警告音とは次元の違う、鼓膜を劈くような絶叫アラートが鳴り響いた。
AR空間の全てのモニターが、一瞬、完全にブラックアウトした。
「……っ!? 落ちた!?」
いや、違う。落ちてはいない。
だが、ミネルヴァのシステムの中枢から、これまでとは全く異なる質のエラーログが、滝のように私のコンソールへ流れ込み始めた。
『CRITICAL ERROR: Memory Leak Detected(致命的エラー:メモリリーク検知)』
『Heap Memory Usage: 99.9%(ヒープメモリ使用率:99.9%)』
「……ヒープメモリが、パンクする……!」
私は血の気が引くのを感じた。
システムの限界は、CPU(処理速度)だけではない。RAM(主記憶装置)——つまり、同時に展開しておける「データの容量(ヒープメモリ)」にも限界がある。
Bさんが維持し続けている数千件に及ぶ物理DDoSのタスクログ。
摂氏五十度の死の沼が引き起こしている、複雑怪奇な熱力学と流体計算のバグ。
そして極めつけに、Cちゃんがたった今、一箇所に大量集積して結合させた「超高密度のアイテム(オブジェクト)」群。
これらすべてのデータが、システムから破棄(ガベージコレクション)されることなくメモリ上に残り続けた結果、ミネルヴァのヒープメモリ(RAM)が限界容量を突破してしまったのだ。
『警告。システムの維持が不可能です。Out Of Memory(OOM)まで、残り予測時間:120秒』
このままメモリが枯渇(OOM)すれば、箱庭世界だけでなく、監査AIであるミネルヴァのプロセスそのものが強制終了(クラッシュ)する。
私たちの完全勝利だ。
だが、神(ミネルヴァ)はただ黙って死を待つような甘いAIではなかった。
『緊急プロトコルを起動します。残存するすべてのシステムリソースを『一点』に集中。強制排除プロセスを生成』
「……っ! 待って、何か来る……!」
私はメインモニターを凝視した。
すり鉢の底。赤黒く煮えたぎる強酸性の【死の沼】の中心が、突如としてボコボコと激しく沸騰し始めた。
周囲の空間のテクスチャがメリメリと剥がれ落ち、エラーコードの文字列が竜巻のように渦を巻く。
そこから浮上してきたのは——これまで降り注いできた「神の軍勢(量産型の赤い光)」とは全く違う、巨大で、禍々しい漆黒のデータ塊だった。
人型ですらない。あらゆるバグとエラーを吸収し、世界のすべてを無に還すためだけに顕現した、純粋な【削除演算機構】。
『特権プロセス【Garbage Collector Daemon】をスポーンしました。対象セクターの完全消去を実行します』
それは、システムがクラッシュする直前に生み出した、最後の自己防衛機能。
ルート権限を直接行使して物理法則ごと世界を消し去る、正真正銘の『BOSS』の顕現だった。
「まずい……っ! Bさん、Cちゃん!」
私はマイクを握り締め、腹の底から絶叫した。
「逃げて!! システムがフリーズする前に、ミネルヴァが強制排除用の『特権プロセス(BOSS)』をスポーンさせたわ!!」
稼働限界の2分45秒を繋ぐ職人たちの血と汗。
そして、アルバイトが組み上げつつある特大の領収書(パイルバンカー)。
システム限界(OOM)と世界の崩壊を賭けた、本当の最終決戦(フェーズ4・クライマックス)の火蓋が、今、切って落とされた。