【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する 作:ゆばのくさ
ボコッ……ボコボコォッ!
私の六畳間に展開されたメインモニターの中。摂氏五十度を超える強酸性の【
赤黒い泥水の表面に、ノイズ交じりの黒いエラーコードが竜巻のように立ち上る。
やがて、その中心から「それ」は姿を現した。
『特権プロセス【Garbage Collector Daemon】をスポーンしました。対象セクターの完全消去を実行します』
それは、人型ですらなく、特定のモンスターのテクスチャすら持っていなかった。
ただ無機質に、周囲の光と熱を飲み込む「漆黒の多面体」。
システムが限界(OOM)を迎える直前、自己防衛のためにリソースのすべてを一点に集中させて顕現させた、純粋な【
「……冗談でしょ。こんなの、ただのチートじゃない……!」
私は震える声で呟き、ARコンソールのキーボードを叩いてボスのステータスを解析しようとした。だが、返ってきたのは『Access Denied(アクセス拒否)』の冷酷な文字列だけ。
一般ユーザー権限では、その存在を観測することすら許されない絶対的な上位存在。
ボスが、ゆっくりとその黒い多面体を回転させた。
次の瞬間、ボスの表面から黒い触手のような「光線(デリートコード)」が四方八方へと放たれた。
『第三班、怯むなッ! ヘイトを維持しろ! 叩き続け——』
すり鉢の縁で、Bさんの号令に従って最前線へ飛び出したNPCの職人が、全力で鉄パイプを振り下ろす。
だが、その鉄パイプが黒い光線に触れた瞬間——「キィン!」という衝突音すら鳴らなかった。
「……え?」
ダメージ計算のエフェクトも、弾き返される物理演算も発生しない。
ただ、光線に触れた鉄パイプの先端から、テクスチャが剥がれ落ち、ワイヤーフレームになり、次のフレーム(1/60秒後)には、文字通り「存在しなかったこと」になって消滅していたのだ。
——`null`化。
データサイエンティストである私の背筋に、氷のような絶望が走った。
HPがゼロになって破壊されるのではない。データのアドレスを参照するポインタそのものを破壊し、「最初からそのオブジェクトは存在しなかった」という状態に書き換える、特権プロセスによる
鉄パイプだけではない。光線が掠めたNPCの防具が、靴が、そして彼らが足場にしていたすり鉢の地形そのものが、音もなく、削り取られるように消え去っていく。
『う、うわぁぁぁぁっ!? 武器が、俺の腕が……ッ!?』
『ダメだ、当たらない! 弾かれるんじゃない、攻撃したこと自体が消えてるんだ!』
パニックに陥る現場。
『2分45秒』という究極のシフトローテーションでギリギリ耐えていたBさんの
タスクをこなすための「道具(オブジェクト)」そのものを消滅させられてしまえば、どんな完璧なシフト管理も意味をなさない。物理演算の負荷(DDoS)を発生させることができなくなった現場は、もはやただの屠殺場へと変わり果てていた。
『クソッ……! 下がるな! 石でも素手でもいい、何としてでもあの黒い塊に計算処理(タスク)をぶつけ続けろ!!』
Bさんが血を吐きながら叫ぶが、彼のHPバーもすでに赤色の10%を割り込んでいる。五十度の熱波と酸の蒸気の中、最前線に立つことすら限界だった。
「だめ……このままじゃ、全滅する……!」
私がキーボードに突っ伏しそうになった、まさにその時だった。
『……Bさん。ヘイト、そのまま一点に固定して耐えてください。こっちの準備、完了しましたよ』
ノイズ交じりの隠し回線(チャット)から、酷く呑気な、それでいて底知れぬ凄みを帯びた声が響いた。Cちゃんだ。
「Cちゃん!? あんた、あれが何か分かってるの!? あれはデリート用のデーモンよ、どんな攻撃も無意味に——」
『無意味かどうかは、質量とデータサイズで決まるんじゃないですかね?』
私がメインモニターの視点をCちゃんの座標——すり鉢の斜面(中腹)へと切り替えた瞬間。
私は、開いた口が塞がらなくなった。
「な……何よ、それ……」
斜面の『安息角(土砂が崩れないギリギリの角度)』に沿って、私が計算して敷設した巨大な重力式コンベア。その終点、すり鉢の縁から底へと向かう射出レーンの上に、常軌を逸したサイズの「鉄の塊」が鎮座していた。
死の沼で溶けた神の軍勢が落とした超激レアアイテム『神威金属』の結晶。
現場のNPCたちから掻き集めた、無数の鉄骨、重機のシリンダー、廃材。
それらを、Cちゃんのアカウントの
全長三十メートルはあろうかというその姿は、まさしく城壁を撃ち抜くための攻城兵器——『
『未払い残業代、休日出勤の手当、有休未消化分の補填……それに、私たちが血と汗と泥水すすって作り上げた現場を、勝手に更地にしようとした違約金』
Cちゃんの声が、低く、ドス黒い怒りを孕んで響く。
『全部まとめて、物理で叩き込んでやります。私が引くのは固定レバー(トリガー)だけです。Aさん、軌道計算とバリアのハッキング、お願いしますね!』
「無茶苦茶言うわね……っ!」
私は叫びながらも、すでに指を猛烈な速度で動かしていた。
キーボードを叩く音が、六畳間に響き渡る。
Cちゃんの作ったパイルバンカーは、ただの重力落下だ。だが、標的であるボスは高次元の移動演算を行っており、さらに周囲には先ほどの`null`化バリアが張られている。
普通に落とせば、当たる前にバリアに触れて、三十メートルの巨大な杭すらも一瞬で消滅させられてしまう。
「当ててみせる……絶対に!」
私はARコンソールに無数の演算ウィンドウを展開した。
五十度の熱波が引き起こす「陽炎(空気の屈折率の歪み)」。
強酸の沼地から立ち上る「有毒ガスの気流」。
安息角の斜面を滑走するパイルバンカーの「重力加速度と摩擦係数」。
『環境変数を再定義。大気密度の揺らぎを補正……!』
『ボスの移動予測ベクトルを抽出。ミリ単位の
私の脳髄が焼き切れそうなほどの速度で計算が走る。
プロジェクターの冷却ファンが悲鳴を上げ、部屋の温度がさらに上昇していくのを感じるが、そんなことは構っていられない。
「問題は、あの`null`化バリアよ……! 物理的な質量がどれだけあろうと、触れた瞬間にデータごと消されたら意味がない!」
バリアを無効化する手段。
正攻法では不可能だ。相手はルート権限を持ったボス。
ならば——私は、Cちゃんのアカウントが持つ「ある特性」に目をつけた。
彼女はプロのエンジニアではない。コードの書き方は素人で、変数の型宣言も適当、メモリの解放もろくにしていない「スパゲティコード」の塊だ。
「……これだわ! Cちゃんのアカウントがパイルバンカーに付与している『所有権データ』に、わざと大量のダミー変数を詰め込んでオーバーフローさせる!」
ボスがパイルバンカーを検知し、`null`化の処理(デリートコマンド)を実行しようとした瞬間。
その対象データがあまりにも巨大で、かつ構造がメチャクチャな「ゴミデータの塊」であった場合、ボスの完璧な処理機構はそれを解析するために一瞬だけ「フリーズ(処理遅延)」を起こす。
意図的に発生させる、
そして、そのバグによってボスの処理が停止する、ほんのコンマ数秒の
その一瞬の隙間(割り込み)に、三十メートルの神威金属の杭を、ボスのコアへ物理的に叩き込む!
ビーーーーーーッ!!!
『WARNING: System Out Of Memory(システムメモリ枯渇)』
『完全クラッシュまで残り:15秒』
メインモニターの中央に、絶望的なカウントダウンが表示された。
Bさんの維持する負荷と、死の沼のバグ、そしてCちゃんの超質量オブジェクトによって、ついにミネルヴァのヒープメモリが限界を迎えたのだ。
あと十五秒で、すべてが終わる。
「Bさん!!」
私が叫ぶのと同時だった。
最前線で血だるまになっていたBさんが、残された全気力、最後の一ミリのHPを振り絞り、五十度の熱波を蹴り立てて宙へ跳躍した。
『オラァァァァァッ!! こっちを見ろ、クソAIィィィッ!!』
Bさんの手には、先ほどの攻撃で半分消滅しかかった、歪な鉄パイプが握られていた。
彼はそれを、ボスの黒い多面体のド真ん中、コアの直上へと全力で叩きつけた。
カンッ、と、乾いた音が鳴る。
当然、ダメージはゼロだ。直後に鉄パイプは完全に`null`化して消滅した。
だが、その「ゼロダメージの攻撃判定」が、システム上で最も優先度の高いヘイト(敵対心)としてボスの処理プロセスに刻み込まれた。
『ターゲットを再ロック。対象:現場責任者B』
ボスの黒い多面体が、ピタリと動きを止め、Bさんを見上げた。
座標が、完全に固定された。
「……計算完了(ターゲット・ロックオン)!」
私はエンターキーを、キーボードが割れるほどの力で叩き込んだ。
AR空間に、緑色の輝く射線(ガイドライン)が引かれる。それは、斜面の中腹にいるCちゃんのパイルバンカーから、ボスのコアへと真っ直ぐに伸びていた。
『OOMクラッシュまで、残り10秒』
「Cちゃん、ストッパー解放!!」
すり鉢の中腹で、Cちゃんが悪戯っぽく笑い、巨大な杭を固定していた物理レバー(トリガー)に手をかけた。
『お支払い、お願いしますねぇ!!』
ガコンッ!!!
重厚な金属音が響き、ストッパーが外れる。
三十メートル、数千トンに及ぶ神威金属と廃材の塊が、安息角の斜面と重力式コンベアのレールに導かれ、凄まじい轟音と摩擦火花を散らしながら、すり鉢の底——ボスの頭上へと向かって、絶望的な速度で滑落を始めた。
「バリアのブレイクポイント(無効化)まで……3、2、1……!」
私はカウントダウンを叫んだ。
六畳間の熱気も、冷却ファンの悲鳴も、もう何も聞こえない。ただ、モニターの中の光景だけに私のすべてが注ぎ込まれていた。
「撃ち抜けェェェェェェェェッ!!!」
『OOMクラッシュまで、残り3秒』
私の絶叫と共に、神のシステムを破壊するための、泥臭くも完璧な物理バグ(パイルバンカー)が、漆黒のデーモンへとその牙を剥いた。