【神話創造プロトコル】環境シム《ワールド・シミュレーター》のテストプレイヤー、地政学とデータ解析で神話の世界を再構築《デバッグ》する   作:ゆばのくさ

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第5話をお開きいただきありがとうございます。

前提条件のマップ(山脈)を上位権限で消去されるという、類を見ないレベルの理不尽な強制上書き(サイレント・リビルド)を喰らった結衣。
崩壊した山脈の跡地に現れたのは、巨大な陥没穴。そこに極寒の寒気と南の暖気が引き寄せられ、最悪のバグが誕生します。



第5話:泥縄のホットパッチ

現実世界の東の空から差し込む爽やかな朝の太陽光が、天宮結衣の六畳間を無慈悲に照らし出す。遮光カーテンの隙間から漏れるその光は、徹夜明けの濁った瞳にはあまりにも眩しく、暴力的とも言える、チクチクとした不快な痛みを網膜に与えた。

机の上に転がる、空になったエナジードリンクの缶が三本。カフェイン錠剤のシートはパキパキに使い切られ、胃の奥からは強烈な酸がせり上がってきている。

だが、超高解像度透過型グラスの向こう、彼女の目の前に広がる仮想空間は、そんな現実の肉体的限界など一瞬で忘却させるほどの、完全な世紀末の地獄絵図と化していた。

 

ドヤ顔で【時間進行(シミュレート実行)】のボタンを押してしまったのが、すべての終わりだった。

 

「ちょっとミネルヴァ! 画面がバグってるんだけど! なんで私の作った美しい流体力学の防壁(山脈)が、綺麗さっぱり消滅してんのよ!?」

 

結衣は激痛を訴える胃を片手で押さえながら、空中に向かって怒鳴り散らした。

上流サーバー(過去時間軸)からの上位権限(強制プッシュ)、すなわち過去のフェーズを担当したサイコパスな前任者か、あるいは我が儘な元請けによる仕様変更のサイレント・リビルド。それによって、結衣が計算し尽くした寒波対策の前提条件(背骨)だった防風山脈がスゥッと消滅していた。

代わりにそこにあったのは、地形データを無理やり抉り取ったかのような、巨大な大穴。

直径数キロメートルに及ぶその陥没クレーターに向かって、彼女が第1話で苦労して設定した、南半球の完璧な熱塩循環(グローバル・ベルト)。その暖流から海面へと供給されるはずだった湿潤な大気(暖気)までもが、等圧線をグニャリと歪めながら、大穴の上空へと猛烈な勢いで吸い寄せられていくのが見えた。

 

『バグではありません。上流の確定データとの動的同期(シンク)の結果です』

 

ヘッドセットから、ミネルヴァの淡々とした、しかしどこか面倒くさそうな合成音声が響く。

 

『予測データを更新します。北セクターから南下するマイナス四十度の超寒気流と、南セクターから流入する高湿度暖気流が、中央陥没クレーターの上空で正面衝突(コンフリクト)しました。気象レイヤーの物理演算サーバーの負荷が急上昇しています』

 

極寒の空気と、湿った熱気。

それらが逃げ場のない大穴の上空で正面衝突した時、気象学的に何が起きるか。データサイエンティストである結衣に、その最悪の計算結果はシミュレーターの数値を待つまでもなく明らかだった。

急激に発達する上昇気流。大気の状態の極端な不安定化。

 

『警告。局地的な超巨大積乱雲――大豪雨(スーパーセル)の形成を検知。降水量予測、毎時百五十ミリメートルオーバー。システム規定の警戒閾値を完全に突破しました』

 

「毎時百五十!? ギネス記録に挑む気か! 画面のグラフィックが禍々しすぎるのよ!」

 

結衣が視線を向けた先、透過型グラスのパススルー映像を塗りつぶすように、空中ディスプレイのマップ上に漆黒の巨大な渦巻き雲が急速に描画(ラスタライズ)されていく。それはまるで、クレーターを中心に世界を飲み込もうとする黒い悪魔のようだった。

 

「ミネルヴァ! 一時停止(ポーズ)!! 時間進行(シミュレート実行)を早く止めなさい! 止めて仕様書を読ませて!」

 

『却下。本フェーズのテストランはリアルタイム進行が絶対仕様です。下請けユーザー権限による進行制御(ポーズコマンド)は受け付けられません。仕様書はありません。アジャイル開発ですので』

 

「アジャイルなんて名ばかりの、ただの泥縄デスマーチでしょーが!! スーパーセルの到達まであと何秒!?」

 

『完全にセル化完了。時速八十キロメートルで南下中。対象エリア――原始人たちの集落があるクレーター底部への直撃まで、残り百八十秒です』

 

「猶予が三分しかねええええええええ!!」

 

結衣の悲鳴が狭い六畳間に木霊した。

大寒波の対策(モンテカルロ法)を完璧に終わらせて、あとは優雅に週末の休暇に入るだけだったのだ。なぜ、金曜日の徹夜明けの朝に、リアルタイムで超巨大台風並みのバグ修正をやらされなければならないのか。

 

「大気レイヤーの流体パラメータに直接割り込む! 上層のジェット気流の速度ベクトルを無理やり書き換えて、このゴミ雲を東の空きセクターへ受け流す……! いけっ、私の高速タイピング(パッチ)を喰らいなさい!」

 

結衣は宙に浮いた仮想キーボードに指を叩きつけた。彼女の指先は、データサイエンティストとしてのプライドと執念で、残像が見えるほどの速度でコードを紡ぎ出していく。大気運動方程式(Navier-Stokes)の移流項を局所的に改ざんする、即席の動的修正(ホットパッチ)だ。

よし、書き換え完了、送信(コミット)――!

 

画面に非情な真っ赤なポップアップが踊った。

 

[ERROR] Permission Denied: Master Server Lock Enabled (HTTP 423 Locked)

 

「はあぁ!? 元請けの排他制御が厳しすぎるのよ! データの整合性を守るために下請けの書き込みをいちいちロックするなァァァァ!」

 

『無駄です、オペレーター』

ミネルヴァが冷徹に、しかし少しだけ呆れたように告げる。

『上流サーバーが該当エリアの天候データを「確定済み(Read-Only)」として処理しています。下請けであるあなたのローカル権限では、大気全体のベクトルを書き換えることはシステム的に不可能です』

 

「じゃあどうしろって言うのよ! 可愛い原始人(私の推し)たちが、ただの濁流の藻屑になっちゃうじゃない!」

 

画面の向こう、クレーターの底では、ついに天を割るような激しい落雷とともに、滝のような大豪雨が降り注ぎ始めていた。ドット絵の原始人たちが、突然の天変地異にパニックを起こして右往左往しているのが見える。

それだけではない。大穴の周囲の傾斜地――防風山脈が消えたことで剥き出しになった泥の斜面から、集まった雨水が牙を剥くような濁流となって、彼らのいる大穴の底へと猛烈な勢いで流れ込み始めていた。

 

毎秒数百立方メートルという、物理演算サーバーが悲鳴を上げるほどの質量流(マスフロー)

水深データを示すインジケーターが、緑から黄色、そして一気に危険を示す赤へと跳ね上がっていく。

 

「ちょっと、これ放っておいたら三分で大穴の底がプールになるわよ! 原始人たちのスタミナゲージがゴリゴリ削れてる! 泳げるわけないでしょ、マンモス追っかけてるような連中が!」

 

『警告。大気の慣性モーメントおよび地形の排水容量が、現在のパッチ適用限界を上回っています。現時刻からの天候パラメータ書き換えによる大豪雨の直撃回避は、物理演算的に不可能と証明されました』

 

ミネルヴァのトノサマモードな正論が、結衣の精神を容赦なくすり潰していく。

終わった。すべてが終わった。

仕様変更に対応できず、推したちが全滅ログに変わり、テストは失敗。

彼女の努力は水の泡となり、土曜日の優雅な泥睡眠も、楽しみにしていた休暇も、すべてはこのデスマーチの爆風で吹き飛ぶのだ。

 

画面を埋め尽くす濁流のベクトル矢印は、無慈悲なほど正確に、原始人たちの集落(セクターB-4)へと一点集中していく。打つ手はすべてロックされ、システム的な猶予時間はゼロ。

 

絶望のあまり、結衣がヘッドセットを投げ捨てて現実逃避しようとした、その瞬間だった。

 

画面の向こう、泥水に足を取られながら逃げ惑っていたはずのドット絵の原始人たちが、にわかには信じられない奇妙な規則性を持って動き始めた。

 

「……あれ? 逃げる方向がおかしくない?」

 

結衣の目が、透過型グラスの奥でピクリと動いた。

濁流が押し寄せる絶体絶命のルート上。原始人たちはバラバラに逃げるのをやめ、族長と思われる一際大きなドットを中心に、まるで一糸乱れぬ軍勢のようにスクラムを組み始めたのだ。

 

それも、ただ集まっているのではない。彼らが泥まみれのグラウンドに形成したのは、濁流の力に対して真っ向から立ち向かうような、不自然なV字の陣形だった。

 

結衣の頭の中で、別の意味でのデータ処理アラートがけたたましく鳴り響き始めた。




第5話をお読みいただきありがとうございました。

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