孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか―― 作:Henon
「彼ら」は、憧れていた。
画面の向こうにいた英雄たちに。
絶望的な戦場で笑う者に。
誰かのために拳を握る者に。
神話のような剣を振るう者に。
魔法を放ち、奇跡を起こし、理不尽な敵を前にしても膝を折らない者たちに。
子供の頃は、ただ格好いいと思っていた。
「あんなふうになりたい」
「あんな力があれば」
「あんな名前を持てたなら」
そう夢想したことが、誰にでも一度はあった。
だが、実際にその体と名を与えられた時ーー
それは祝福ではなかった。
目を覚ませば、見知らぬ世界。
鏡を見れば、自分ではない顔。
身体には、覚えのない力。
口を開けば、どこかで聞いたような声。
自分は誰なのか。元の自分はどこへ行ったのか。
これは転生なのか。それとも、誰かの悪趣味な実験なのか。
最初は混乱した。
だが次に、喜んだ者もいた。
憧れた英雄になり、力を得た。
この世界なら、自分も「特別」になれる。
だが、すぐに彼らは気づいた
この世界は、彼らが知っているある物語に似ていると…
怪人が現れ、都市が壊れる。
ヒーロー協会が存在し、災害レベルという分類があり、人々は今日も恐怖と隣り合わせに暮らしている。
ならば、あの男もいるはずだった。
どんな怪人も。
どんな災害も。
どんな絶望も。
最後には一撃で終わらせる、あの絶対的な『抑止力』が…
だが、いなかった。
記録にもない。
噂にもない。
Z市の無人街を調べても、その痕跡はない。
怪人災害の裏で、偶然処理されたはずの事件も、処理されないまま被害として残っていた。
その事実が分かった時、転生者たちは絶望した。
英雄の体を得た者も。
魔術師の名を持つ者も。
剣士として生まれ変わった者も。
科学者として知識を持った者も。
誰もが知っていた。
この世界が、いずれ「何」に襲われるかを。
いずれ来たる人類を嘲笑うような災害群。
そして、原作では最後に必ず現れたはずの、あの男の不在。
希望は、なかったのだ。
だから彼らは、憧れた役を演じ始めた。
ある者は平和の象徴として笑い、ある者は槍を担ぎ、軽口を叩いた。
ある者は赤い外套を翻し、冷静な弓兵を装った。
ある者は黄金の王として振る舞い、ある者は超能力者の悪の組織の首領を演じた。
それは「遊び」ではなかった。
自分達はまだ大丈夫だ。
この名にふさわしくあれる。
この力に意味を与えられる。
破滅が来るその日まで、せめて戦えると、示したかったのだ。
そう思い込まなければ、立っていられなかった。
だが、彼らがどれほど抗おうと、世界は冷たく進んでいった。
怪人災害は増え続け、災害レベル鬼が珍しくなくなり、災害レベル竜の影がちらつき始める。
ヒーロー協会は戦力を増強し、転生者たちもまたその一部として動き出した。
それでも、誰も口にはしなかった。
この世界には、最後の答えがない、と。
だから、いつか負ける。
いつか届かない敵が絶対に来ると…
いつか、自分たちがどれだけ憧れた英雄を演じても、届かない日が来る。
その絶望は、静かに広がっていた。
そして――。
彼らがまだ、その存在を知らない頃。
遠く離れた山奥で、一つの小さな命が落ちてきた。
空を裂くような光に夜の森を揺らす轟音。
獣たちが怯えて逃げ、木々の葉が震える。
山奥に暮らす一人の老人は、その音に目を覚ました。
「なんじゃ……?」
老人は杖を手に、夜の森へ出た。
冷えた空気の中、煙が上がっている。
木々の間に、見たこともない『丸い乗り物』がめり込んでいた。
老人は警戒しながら近づく。
中から聞こえたのは、化け物の唸り声ではなかった。
泣き声だった。
赤子の泣き声。
老人は目を丸くした。
「おお……赤ん坊か」
小さな赤子が、奇妙な乗り物の中で泣いていた。
尾がある。
普通の人間の子ではないだろう。
だが、老人は迷わなかった。
怪しいかどうかなど、後で考えればいい。
今そこに、泣いている子供がいる。
それだけで十分だった。
老人は赤子を抱き上げる。
赤子はしばらく泣いていたが、やがて老人の胸元で小さく息をついた。
その寝顔は、ただの赤子にしか見えなかった。
宇宙の命運を背負う者にも。
世界の希望になる者にも。
まだ、誰にも見えなかった。
老人は静かに笑った。
「お前さん、どこから来たんじゃろうな?」
赤子は答えない。
ただ、小さな手で老人の服を掴んだ。
老人はその手を見て、少し考えた。
「そうじゃな……」
山の夜風が吹き、星が瞬いている。
この世界に、『抑止力』は存在しない。
転生者たちは絶望し、ヒーローたちはまだ来る破滅を知らない。
怪人災害は増え、恐るべき宇宙の闇は、いつか地球を飲み込もうとするだろう。
だが、その山奥で…
誰にも知られず。
一人の赤子が、老人に抱かれていた。
老人は、赤子を胸に抱いたまま、静かに笑った。
「お主の名は――」
夜風が、山の木々を揺らした。
赤子はまだ何も知らない。自分がどこから来たのか、何の種族なのかも。
そして…どれほど重い運命の中に落とされたのかも。
老人は、その小さな額をそっと撫でる。
「…悟空。孫悟空じゃ」
その瞬間だった。
ただの赤子に、名が与えられた。
山奥の中、誰にも知られぬまま。
世界の歴史に記されることもなく。
だが、その『名』はあまりにも重かった。
それは、英雄の名だった。
誰もが知る希望の名だった。
幾度も強敵に立ち向かい、何度倒れても立ち上がり、最後には必ず世界を救う男の名だった。
赤子は泣き止んでいた。
ただ、老人の指を小さな手で握っている。
その無垢な仕草に、老人は目を細めた。
しかし、この世界では、まだ誰も知らない。
その名が、いずれ転生者たちを震わせることを。
絶望しかけた者たちに、もう一度前を向かせることを。
そして同時に、その子自身を苦しめることを。
『孫悟空』。
その名は祝福であり、呪いだった。
まだ言葉も知らぬ赤子は、その瞬間、希望と呪いを同時に背負わされたのだ。