孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか―― 作:Henon
白かった。どこまでも白く、上も下も、壁も床も分からない。ただ白だけが広がる空間の中に、彼はぽつんと立っていた。
「……え?」
声が自分のものなのかさえ、ひどく曖昧だった。直前まで何をしていたのか。
ここがどこなのか。なぜ自分がここにいるのか。何一つ分からない。分からないはずなのに、頭の奥だけが妙に冷えていた。
『いや〜、早くしてほしいんだけどね』
声がした。軽い声だった。神秘も威厳もない。
まるで退屈な手続きを早く終わらせたいとでも言うような、場違いなほど気の抜けた声だった。
青年は顔を上げた。そこには誰かがいた。
人の形をしているようにも見えるが、輪郭はひどく曖昧で、男にも女にも、若者にも老人にも見えた。ただ一つ分かるのは、その存在がひどく面倒くさそうにしていることだけだった。
「えッ…一体何が…ここは?!」
『あー、はいはい。状況ね。そうだよね。普通は聞くよね、そういうの』
存在が指を鳴らした。その瞬間、少年の頭の中へ記憶が流れ込んできた。
濡れた道路。ブレーキの悲鳴。眩しいヘッドライト。誰かの叫び声。身体が宙に浮く感覚。硬い衝撃。熱。寒さ。遠ざかる意識。
交通事故。
そうだ。自分は、死んだんだ。
「……あ」
青年は自分の手を見た。震えている。けれど、不思議と悲鳴は出なかった。涙も出ない。取り乱すこともない。
あまりにも突然すぎて感情が追いついていないのか、それともこの白い空間そのものが心を鈍らせているのか。
ただ、理解だけが頭の中に置かれていた。
『これで分かった?で、行き先はーーーーーーね』
最後の言葉だけ、聞こえなかった。ノイズが走ったように、世界が一瞬だけ歪む。
「今、なんて……」
『まあ、細かい説明はいいでしょ。大体そういう感じの世界だよ。いや〜、早く戻って見たいからさ。ちゃちゃっと決めちゃってよ』
「戻る?」
『うん。向こうの続き。僕も気になってるんだよね』
彼は言葉を失った。この存在は、自分の死を悼んでいるわけではなかった。救おうとしているわけでも、罰しようとしているわけでもない。
ただ急いでいる。まるで「途中で止めた動画の続きを早く見たいから、余計な手続きをさっさと済ませたい」…そんな軽さだった。
『じゃあ君は何になりたい?』
「……何に?」
『あるでしょ。憧れたやつ。漫画とかアニメとか、ゲームでもいいよ?あ、そういうの知らないタイプ?』
「知ってますけど……」
『じゃあ早いね。誰?』
青年は混乱していた。死んだ。白い空間。謎の存在。行き先。何になりたいか。何もかもがおかしい。だが、不思議と恐怖は薄かった。
だからこそ、思考が妙な方向へ滑ったのだろう。
憧れた英雄。子供の頃、画面の向こうで見た姿。何度倒れても立ち上がる男。強敵を見ると笑い、仲間のために怒り、世界の危機に必ず間に合う英雄。あんなふうになれたら。
そう思ったことが、一度もなかったと言えば嘘になる。
けれど、それは子供の夢だ。ただの憧れだったはずだ。口にしていい願いではなかった。
その名がどれほど重いか、彼は分かっていたはずだった。
それなのにーーー
白い空間。死の直後。めんどくさそうな存在。急かされる空気。そのすべてに押されるように、青年は軽はずみに言ってしまった。
「……孫悟空」
神みたいなモノは、面白そうに口角を上げた。
『……へえ』
その声色が変わった。さっきまでの退屈そうな、事務作業じみた軽さではない。何かを見つけた声だった。玩具を、退屈を潰すための、ちょうどいい火種を。
『…うん。うん、いいかも。孫悟空かぁ…分かりやすいし、強いし、みんな知ってるしね。希望っぽい。うん、すごくいい』
「待ってください。今のは――」
『でも、それだとさ』
神は、青年の言葉を聞いていなかった。
『敵の強化も入れないとね』
「……敵?」
『だって、そうでしょ?孫悟空だけ放り込んだら、既存の流れが崩れちゃう。いや、それも面白いんだけど……うーん、でも一方的すぎるのは退屈かな。既存は無理だとしても……あっ、そうか』
白い空間のどこかに、無数の影が浮かんだ。化け物や宇宙船。赤いリボンの紋章の兵士達…そして、黒い空に浮かぶ、冷たい帝王の笑み。
少年は、それらが何なのかを完全には理解できなかった。けれど、分かってしまった。
これは、自分が軽はずみに口にした名のために、どこかの世界が歪められようとしているのだと。
「あの、なにを――」
『大丈夫。大丈夫。君が本当に孫悟空になれるなら、きっと乗り越えられるよ』
「違う、俺は――」
『違わないよ』
その瞬間だけ、声が冷たくなった。青年の喉が止まる。
『君が選んだんだ。軽く言っただけ?冗談だった?憧れただけ?うん、そうかもしれないね。でも、名前ってそういうものだよ。口にした瞬間、意味を持つモノだからね。』
白い空間が揺れた。足元が崩れていく。少年は咄嗟に手を伸ばしたが、掴めるものは何もなかった。
『孫悟空。いい名だよ。希望のない世界には、ちょうどいい』
「待って――!」
『じゃあ、頑張って』
白が遠ざかる。身体が落ちる。記憶が剥がれ、意識が赤子の形へ押し込められていく。最後に聞こえたのは、神の軽い声だった。
『希望のない世界で、希望になれるようにね』
そして、泣き声が響いた。
赤子の泣き声だった。
それが自分の声だと気づく前に、彼の記憶は深く沈んでいった。自分が軽はずみに口にした名が、希望として誰かを救うことを。同時に、その名に見合う敵までも、この世界へ呼び込んでしまったことを、彼はまだ知らなかった。
次に残った記憶は、木の匂いだった。乾いた薪、古い畳、土間の湿り気、山菜を煮る鍋の湯気。そして…じいちゃんの服についた煙の匂い。
「おお、起きたか悟空。」
老人は、いつもそう言って笑った。しわだらけの顔。丸い頭。小さな身体。けれど、その手は温かかった。
悟空は、老人が好きだった。
自分がどこから来たのか、悟空は知らない。
たまに夜空を見上げると胸がざわつく理由も、眠るたびに白い空間と知らない声を夢に見る理由も知らないのだ。
でもじいちゃんがここにいる。それだけでよかった。
「じいちゃん!」
悟空は家の外へ飛び出した。裸足で土を蹴り、庭を駆ける。
まだ幼い身体だったが、動きは人間の子供のそれではなかった。小石を踏んでも痛がらず、転んでもすぐ起き上がり、木の枝に飛び移って山を跳ねる。
老人はそれを見るたびに、少しだけ目を細めた。
「元気なのはええことじゃが……加減を覚えんとな」
「かげん?」
「力を出しすぎんことじゃ。強い力は、人を助けることもできる。じゃが、使い方を間違えれば、人を傷つけるからの。」
悟空はよく分からなかった。けれど、じいちゃんの声がいつもより少し真面目だったので、黙って頷いた。
「うん」
「本当に分かっとるか?」
「たぶん!」
「ははっ。たぶんか」
老人は笑った。その笑い方が、悟空は好きだった。
山での暮らしは静かだった。朝になると、じいちゃんは悟空を起こし、飯を食う。それからは薪を割り、水を汲み、畑を見る。そして、稽古をする。
悟空は稽古が好きだった。じいちゃんは小柄なのに、強い。
ただ拳を振るうのではない。足の運び、呼吸、相手を見る目、力を入れる瞬間と抜く瞬間。悟空は何度も転ばされた。
「うわっ!」
「力任せでは駄目じゃ。」
「もう一回!」
「よし」
何度でも挑んだ。何度倒れても、すぐ立ち上がった。じいちゃんは、そのたびに嬉しそうに笑った。
だが、ある時から悟空は気づき始めた。じいちゃんは、自分を見る時、時々寂しそうな顔をする。
「じいちゃん?」
「なんじゃ?」
「オラ、変か?」
老人の手が止まった。悟空は、自分の尾を掴んで見せる。
「これ、みんなにはねえんだろ?」
老人は少し黙った。それから、ゆっくり悟空の前に座る。
「そうじゃな。…普通の子にはない」
「オラ、人間じゃねえのか?」
悟空は、ただ疑問に思っただけだった。怖かったわけではない。だが、老人の目が少しだけ揺れた。
「悟空。お前が何者か、わしにも分からん」
「じいちゃんにも?」
「ああ。じゃがな、お前はわしの子じゃ」
悟空は目を丸くする。
「子?」
「そうじゃ。わしが拾って、わしが育てて、わしが名をつけた。だから、お前は孫悟空じゃ」
悟空は、自分の名前を聞いた。何度も呼ばれてきた名。けれど、その時だけ、なぜか胸の奥が少しだけ熱くなった。
「孫悟空……」
「嫌か?」
「ううん」
悟空は首を横に振った。
「好きだ。じいちゃんがくれた名前だもんな!」
老人は目を細め、何も言わずに悟空の頭を撫でた。
彼は知らない。その名が、どれほど重いものなのか。その名を聞いた時、いつか誰かが泣くことを。絶望の中にいた者たちが、その名にすがることを。自分自身が、その名に怯える日が来ることを。
何も知らない。だから、ただ笑った。
「じいちゃん!今日の稽古、もっと強くしてくれ!」
「またか。お前は本当に元気じゃのう」
「もっと強くなりてえんだ!」
「何のためにじゃ?」
悟空は少し考えた。山の木々が揺れている。鳥が鳴いている。じいちゃんが目の前にいる。悟空は拳を握った。
「じいちゃんを守れるくらい!」
老人は、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした。それから、静かに笑った。
「そうか。なら、しっかり鍛えんとな」
「おう!」
悟空は笑った。遠い記憶の白い空間など、もう覚えていない。
誰かに何になりたいかと問われたことも、自分が軽はずみに英雄の名を口にしたことも、その名に見合う敵たちまで呼び込んでしまったことも…
何も知らないまま、少年は山を駆ける。老人の声を背に受けて。自分に与えられた名の重さを知らぬまま。
ただ、強くなりたいと願っていた。