孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか――   作:Henon

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第3話

 

二十年――。

 

思えば、あの夜に拾い上げた小さな赤子も、ずいぶんと大きくなった。

 

老人の腕の中で泣いていた身体は、今ではもう、老人の両腕に収まるようなものではない。

 

あの頃は、片手で背を支え、もう片方の手で小さな頭を包めば、それで足りた。

胸元に抱けば、弱々しい鼓動が小さく震えていた。尾だけが不思議そうに揺れ、泣き声は細く、手足はあまりにも頼りなかった。

 

それが今ではどうだ。

 

並んで立てば、老人の方が見上げるほどになっていた。

 

背は伸び、肩は厚くなった。

腕には、日々の稽古と山暮らしで鍛えられた筋が浮かんでいる。薪を割れば丸太は綺麗に裂け、谷を駆ければ獣よりも速く、木々の間を跳べば鳥でさえ一瞬見失う。

 

かつて土の上を転がって笑っていた子供は、いつしか拳を握る青年になっていたのだ。

 

けれど、変わらないものもあった。

 

飯の匂いがすれば目を輝かせるところ。

稽古となれば、朝から晩まで飽きずに身体を動かすところ。

転ばされても、痛がるより先に笑って立ち上がるところ。

 

そして、名を呼ばれれば、必ず振り返るところ。

 

「悟空」

 

老人が呼ぶと、青年は薪を抱えたまま振り向いた。

 

「ん? なんだ、じいちゃん!」

 

声は低くなった。身体も大きくなった。だが、そこにある無邪気さだけは、あの夜、老人の服を小さな手で掴んだ赤子のままだった。

 

老人にとって、悟空はいつまでも子供だったのだ。

 

なぜ宇宙から来たのか。

怪人なのか。それとも、人ではない何かなのか。

 

そんなことは、結局、二十年経っても分からなかった。

 

だが、分からなくてもよかった。

 

あの夜、泣いていた赤子を抱き上げ、名を与えた。

 

それだけで十分だった。

 

悟空は老人の子だった。

そして今、その子は、もう老人よりも遥かに強くなっていた。

 

「じいちゃん、今日もやるか?」

 

悟空が薪を置き、拳を軽く握る。

 

その顔は期待に満ちていた。朝飯よりも、昼飯よりも、稽古の時間を楽しみにしている顔だった。

 

老人は呆れたように笑う。

 

「お前は本当に稽古が好きじゃのう」

 

「だって、強くなれるからな!」

 

「強くなって、どうする?」

 

「うーん……」

 

悟空は少しだけ考えた。

だが、その答えは昔からほとんど変わらない。

 

「じいちゃんを守れるくらい!」

 

老人は静かに目を細めた。

その言葉を聞くたび、胸の奥が温かくなる。

 

そして、少しだけ痛む。

 

この子は知らないのだ。

 

自分がどれほどの力を持ち始めているのか。

その力が、いつかこの山の中だけでは収まらなくなることを…

 

「なら、今日も見てやるかの」

 

「おう!」

 

悟空は嬉しそうに笑った。

 

二人は家の裏手へ向かった。

 

そこには、長年の稽古で踏み固められた土の広場がある。周囲の木々には、悟空が幼い頃にぶつかった跡が残っていた。

 

折れた枝。削れた幹。何度も何度も転がされた土のくぼみ。

 

山そのものが、二人の稽古場だった。

 

朝の霧がまだ薄く残っている。

冷えた空気の中、悟空は足を開き、軽く腰を落とした。

 

「いくぞ、じいちゃん!」

 

「来い」

 

老人が構える。

 

小柄な身体。細い腕。年老いた背中。

だが、その立ち姿に隙はなかった。

 

悟空はそれを見て、にっと笑う。

 

「ありゃぁッ!」

 

青年の拳が、朝の空気を裂いた。

 

速い。

 

ただ速いだけではない。踏み込み、腰の回転、肩の抜き方、そのすべてが自然だった。山を駆け、獣を追い、岩を砕き、老人に何度も何度も転がされてきた二十年が、その拳の中にあった。

 

「ふッ」

 

老人は半歩だけ身を引いた。

 

拳が鼻先を掠める。風圧で白い眉が揺れる。まともに当たれば老人の身体など簡単に吹き飛んだだろう。

 

だが、悟空の拳は乱暴ではなかった。

 

寸前で力が抜かれ、角度もずらされている。

 

老人はそのことを感じ取りながら、懐へ滑り込んだ。

 

「ほれ、脇が甘いぞ」

 

「うわッっと!」

 

老人の掌が悟空の脇に触れた。

 

力ではない。

重心の崩し、呼吸の切れ目、足の置き方の癖。

 

そこを突かれ、悟空の身体が宙へ浮いた。

 

普通なら背中から落ちる。

だが悟空は空中で身体を捻り、片手で地面を突いた。そのまま弾むように跳ね上がり、土を蹴って着地する。

 

「へへっ!今のすげえな、じいちゃん!」

 

「転ばされて喜ぶやつがあるか」

 

「だって、今の見えなかったぞ!もう一回やってくれ!」

 

「お前は本当に、昔からそればかりじゃ」

 

「もう一回!」

 

悟空は目を輝かせて構え直した。

 

老人は呆れながらも、口元を緩める。

 

青年は強くなった。

もう、力では老人の及ぶところではない。

 

それでも悟空は、老人から学ぼうとする。自分より弱くなったはずの相手を見下ろさない。むしろ、老人の一挙手一投足に目を凝らし、自分が知らない何かを見つけるたびに喜ぶ。

 

その素直さが、老人には嬉しくてたまらなかった。

 

同時に、怖くもあった。

 

この子は、どこまで強くなるのだろうと

 

この山の中だけで、一生を終えられる子ではない。老人は、ずっと前からそれを感じていた。

 

「はぁあッ!」

 

悟空が再び踏み込む。

 

今度は蹴りだった。低く鋭い蹴りが老人の足元へ走る。老人は腕を下ろし、足の甲を軽く払う。

 

その瞬間、悟空が笑った。

 

「そこだッ!」

 

蹴りは囮だ。

 

軸足が動き、身体が沈む。次の拳が老人の胸元へ伸びる。

老人は目を見開いた。

 

速い。

 

もう老人の技の内側に収まりきらない速度だった。

 

ーーだが、拳は老人の胸に触れる寸前で止まった。

 

風だけが、老人の着物を揺らす。

 

老人は悟空の拳を見た。

大きな拳だった。

 

あの夜、老人の指を握りしめていた小さな手ではない。薪を割り、岩を砕き、山の獣を追い払い、いつか誰かを守るために振るわれるであろう拳だった。

 

老人はゆっくり息を吐いた。

 

「……さすがじゃな、悟空」

 

「じいちゃん?」

 

「もう、わしよりずっと強いわい」

 

悟空は慌てて拳を引いた。

 

「そ、そんなことねえよ!じいちゃん、まだまだ強えぞ!」

 

「ほっほ。慰めるようになったか」

 

「慰めてねえって!本当にそう思ってるんだ!」

 

悟空は本気だった。

老人にはそれは分かっていた。

 

この青年は、力の大小だけで強さを見ていない。自分を育て、名をくれ、稽古をつけてくれた老人を、今でも心から強いと思っている。

 

だからこそ、老人は少しだけ目を伏せた。

 

嬉しかった。そして、寂しかった。

 

子が親を越えるのは喜ばしいことだ。だが同時に、その背中が遠くなるということでもある。

 

悟空はもう、老人の腕の中にいる子供ではない。

 

いつか、山を出るだろう。

 

きっと、そうなる。

 

そして老人はそれを止められない。

 

「悟空」

 

「ん?」

 

老人は名を呼んだ。

その瞬間、悟空の表情がほんのわずかに歪んだ。

 

苦い顔だった。

 

ほんの一瞬。瞬きほどの短さ。

 

すぐに悟空は、いつものように笑った。

 

「なんだ、じいちゃん!」

 

だが、老人は見逃さなかった。

 

最近、悟空は時折、自分の名を呼ばれるとそんな顔をするようになった。

 

嫌っているわけではない。

名を疎んでいるわけでもない。

 

むしろ悟空は、その名を大切にしている。

 

じいちゃんがくれた名前だと、何度も笑って言っていた。

 

だからこそ、その一瞬の苦さが老人には気になっていた。

 

名を呼ばれた時、悟空の奥底で何かが軋むような…

 

悟空は覚えていないのだろう。覚えていないはずなのに、その名だけが胸の奥に引っかかっているのだ。

 

老人は、それを何度も見てきた。

 

飯を食べている時。

稽古の後。

夜、月を見上げている時。

 

ふと名を呼ぶと、悟空は一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなくなったような顔をする。そして、無理に笑うのだ。

 

「へへ、なんでもねえよ」

 

そう言う。

 

何も知らない子供では、もうなかった。

 

自分が普通ではないことを、悟空は知っている。尾があったことも、力が普通の人とは違うことも、夜空を見るたび胸の奥がざわつくことも。

 

そして何より、自分の名に、説明できない『重さ』があることも。

 

老人は、山の向こうを見た。

 

この山は静かだった。

 

悟空を育てるには良い場所だった。人の悪意から遠く、怪人災害からも遠く、世の中の騒ぎから切り離された場所。

 

だが、いつまでもここに閉じ込めておくことはできない。

 

悟空は強くなった。

 

あまりにも…

 

そして同時に、知らなければならない時期に来ていたのだろう。

 

自分が何者かを。

この世界がどれほど広いのかを。

人が何に怯え、何を守ろうとしているのかを。

 

山の中だけでは、悟空は自分の名の意味を知ることができない。

 

老人は小さく息を吐いた。

 

「そろそろ、かの」

 

「じいちゃん?」

 

「いや、なんでもない」

 

老人は笑った。

悟空は首を傾げたが、深くは聞かなかった。

 

「それより、じいちゃん。もう一回やろうぜ!」

 

「まだやるのか」

 

「おう!今度はじいちゃんの動き、ちゃんと見るからさ!」

 

「まったく……」

 

老人は構え直した。

 

だが、胸の奥ではもう決めていた。

 

この子は外の世界を知るべきだ。

 

山の外には、人がいる。街がある。泣く者も、笑う者も、助けを求める者もいる。悟空が知らないものが、数えきれないほどある。

 

強さだけでは足りない。

 

何を守るのか。

誰を助けるのか。

何に拳を向け、何には拳を下ろすのか。

 

それを知らなければ、強さはただの力でしかない。

 

悟空は、また真っ直ぐに踏み込んできた。

 

「ありゃぁッ!」

 

老人はその拳を見た。

 

かつて赤子だった子の拳。

自分より遥かに強くなった子の拳。

いつか、この山の外で誰かを守るために振るわれるであろう拳。

 

老人は笑った。

 

嬉しくて、寂しくて、少しだけ誇らしい笑みだった。

 

「来い、悟空」

 

その名を呼ぶ。

 

また悟空の顔が、一瞬だけ苦く揺れた。

だが、次の瞬間にはもう笑っていた。

 

「おう、じいちゃん!」

 

山の朝に、拳と掌の音が響く。

 

二十年の歳月を越えて、親子の稽古は続いていた。

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