孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか―― 作:Henon
二十年――。
思えば、あの夜に拾い上げた小さな赤子も、ずいぶんと大きくなった。
老人の腕の中で泣いていた身体は、今ではもう、老人の両腕に収まるようなものではない。
あの頃は、片手で背を支え、もう片方の手で小さな頭を包めば、それで足りた。
胸元に抱けば、弱々しい鼓動が小さく震えていた。尾だけが不思議そうに揺れ、泣き声は細く、手足はあまりにも頼りなかった。
それが今ではどうだ。
並んで立てば、老人の方が見上げるほどになっていた。
背は伸び、肩は厚くなった。
腕には、日々の稽古と山暮らしで鍛えられた筋が浮かんでいる。薪を割れば丸太は綺麗に裂け、谷を駆ければ獣よりも速く、木々の間を跳べば鳥でさえ一瞬見失う。
かつて土の上を転がって笑っていた子供は、いつしか拳を握る青年になっていたのだ。
けれど、変わらないものもあった。
飯の匂いがすれば目を輝かせるところ。
稽古となれば、朝から晩まで飽きずに身体を動かすところ。
転ばされても、痛がるより先に笑って立ち上がるところ。
そして、名を呼ばれれば、必ず振り返るところ。
「悟空」
老人が呼ぶと、青年は薪を抱えたまま振り向いた。
「ん? なんだ、じいちゃん!」
声は低くなった。身体も大きくなった。だが、そこにある無邪気さだけは、あの夜、老人の服を小さな手で掴んだ赤子のままだった。
老人にとって、悟空はいつまでも子供だったのだ。
なぜ宇宙から来たのか。
怪人なのか。それとも、人ではない何かなのか。
そんなことは、結局、二十年経っても分からなかった。
だが、分からなくてもよかった。
あの夜、泣いていた赤子を抱き上げ、名を与えた。
それだけで十分だった。
悟空は老人の子だった。
そして今、その子は、もう老人よりも遥かに強くなっていた。
「じいちゃん、今日もやるか?」
悟空が薪を置き、拳を軽く握る。
その顔は期待に満ちていた。朝飯よりも、昼飯よりも、稽古の時間を楽しみにしている顔だった。
老人は呆れたように笑う。
「お前は本当に稽古が好きじゃのう」
「だって、強くなれるからな!」
「強くなって、どうする?」
「うーん……」
悟空は少しだけ考えた。
だが、その答えは昔からほとんど変わらない。
「じいちゃんを守れるくらい!」
老人は静かに目を細めた。
その言葉を聞くたび、胸の奥が温かくなる。
そして、少しだけ痛む。
この子は知らないのだ。
自分がどれほどの力を持ち始めているのか。
その力が、いつかこの山の中だけでは収まらなくなることを…
「なら、今日も見てやるかの」
「おう!」
悟空は嬉しそうに笑った。
二人は家の裏手へ向かった。
そこには、長年の稽古で踏み固められた土の広場がある。周囲の木々には、悟空が幼い頃にぶつかった跡が残っていた。
折れた枝。削れた幹。何度も何度も転がされた土のくぼみ。
山そのものが、二人の稽古場だった。
朝の霧がまだ薄く残っている。
冷えた空気の中、悟空は足を開き、軽く腰を落とした。
「いくぞ、じいちゃん!」
「来い」
老人が構える。
小柄な身体。細い腕。年老いた背中。
だが、その立ち姿に隙はなかった。
悟空はそれを見て、にっと笑う。
「ありゃぁッ!」
青年の拳が、朝の空気を裂いた。
速い。
ただ速いだけではない。踏み込み、腰の回転、肩の抜き方、そのすべてが自然だった。山を駆け、獣を追い、岩を砕き、老人に何度も何度も転がされてきた二十年が、その拳の中にあった。
「ふッ」
老人は半歩だけ身を引いた。
拳が鼻先を掠める。風圧で白い眉が揺れる。まともに当たれば老人の身体など簡単に吹き飛んだだろう。
だが、悟空の拳は乱暴ではなかった。
寸前で力が抜かれ、角度もずらされている。
老人はそのことを感じ取りながら、懐へ滑り込んだ。
「ほれ、脇が甘いぞ」
「うわッっと!」
老人の掌が悟空の脇に触れた。
力ではない。
重心の崩し、呼吸の切れ目、足の置き方の癖。
そこを突かれ、悟空の身体が宙へ浮いた。
普通なら背中から落ちる。
だが悟空は空中で身体を捻り、片手で地面を突いた。そのまま弾むように跳ね上がり、土を蹴って着地する。
「へへっ!今のすげえな、じいちゃん!」
「転ばされて喜ぶやつがあるか」
「だって、今の見えなかったぞ!もう一回やってくれ!」
「お前は本当に、昔からそればかりじゃ」
「もう一回!」
悟空は目を輝かせて構え直した。
老人は呆れながらも、口元を緩める。
青年は強くなった。
もう、力では老人の及ぶところではない。
それでも悟空は、老人から学ぼうとする。自分より弱くなったはずの相手を見下ろさない。むしろ、老人の一挙手一投足に目を凝らし、自分が知らない何かを見つけるたびに喜ぶ。
その素直さが、老人には嬉しくてたまらなかった。
同時に、怖くもあった。
この子は、どこまで強くなるのだろうと
この山の中だけで、一生を終えられる子ではない。老人は、ずっと前からそれを感じていた。
「はぁあッ!」
悟空が再び踏み込む。
今度は蹴りだった。低く鋭い蹴りが老人の足元へ走る。老人は腕を下ろし、足の甲を軽く払う。
その瞬間、悟空が笑った。
「そこだッ!」
蹴りは囮だ。
軸足が動き、身体が沈む。次の拳が老人の胸元へ伸びる。
老人は目を見開いた。
速い。
もう老人の技の内側に収まりきらない速度だった。
ーーだが、拳は老人の胸に触れる寸前で止まった。
風だけが、老人の着物を揺らす。
老人は悟空の拳を見た。
大きな拳だった。
あの夜、老人の指を握りしめていた小さな手ではない。薪を割り、岩を砕き、山の獣を追い払い、いつか誰かを守るために振るわれるであろう拳だった。
老人はゆっくり息を吐いた。
「……さすがじゃな、悟空」
「じいちゃん?」
「もう、わしよりずっと強いわい」
悟空は慌てて拳を引いた。
「そ、そんなことねえよ!じいちゃん、まだまだ強えぞ!」
「ほっほ。慰めるようになったか」
「慰めてねえって!本当にそう思ってるんだ!」
悟空は本気だった。
老人にはそれは分かっていた。
この青年は、力の大小だけで強さを見ていない。自分を育て、名をくれ、稽古をつけてくれた老人を、今でも心から強いと思っている。
だからこそ、老人は少しだけ目を伏せた。
嬉しかった。そして、寂しかった。
子が親を越えるのは喜ばしいことだ。だが同時に、その背中が遠くなるということでもある。
悟空はもう、老人の腕の中にいる子供ではない。
いつか、山を出るだろう。
きっと、そうなる。
そして老人はそれを止められない。
「悟空」
「ん?」
老人は名を呼んだ。
その瞬間、悟空の表情がほんのわずかに歪んだ。
苦い顔だった。
ほんの一瞬。瞬きほどの短さ。
すぐに悟空は、いつものように笑った。
「なんだ、じいちゃん!」
だが、老人は見逃さなかった。
最近、悟空は時折、自分の名を呼ばれるとそんな顔をするようになった。
嫌っているわけではない。
名を疎んでいるわけでもない。
むしろ悟空は、その名を大切にしている。
じいちゃんがくれた名前だと、何度も笑って言っていた。
だからこそ、その一瞬の苦さが老人には気になっていた。
名を呼ばれた時、悟空の奥底で何かが軋むような…
悟空は覚えていないのだろう。覚えていないはずなのに、その名だけが胸の奥に引っかかっているのだ。
老人は、それを何度も見てきた。
飯を食べている時。
稽古の後。
夜、月を見上げている時。
ふと名を呼ぶと、悟空は一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなくなったような顔をする。そして、無理に笑うのだ。
「へへ、なんでもねえよ」
そう言う。
何も知らない子供では、もうなかった。
自分が普通ではないことを、悟空は知っている。尾があったことも、力が普通の人とは違うことも、夜空を見るたび胸の奥がざわつくことも。
そして何より、自分の名に、説明できない『重さ』があることも。
老人は、山の向こうを見た。
この山は静かだった。
悟空を育てるには良い場所だった。人の悪意から遠く、怪人災害からも遠く、世の中の騒ぎから切り離された場所。
だが、いつまでもここに閉じ込めておくことはできない。
悟空は強くなった。
あまりにも…
そして同時に、知らなければならない時期に来ていたのだろう。
自分が何者かを。
この世界がどれほど広いのかを。
人が何に怯え、何を守ろうとしているのかを。
山の中だけでは、悟空は自分の名の意味を知ることができない。
老人は小さく息を吐いた。
「そろそろ、かの」
「じいちゃん?」
「いや、なんでもない」
老人は笑った。
悟空は首を傾げたが、深くは聞かなかった。
「それより、じいちゃん。もう一回やろうぜ!」
「まだやるのか」
「おう!今度はじいちゃんの動き、ちゃんと見るからさ!」
「まったく……」
老人は構え直した。
だが、胸の奥ではもう決めていた。
この子は外の世界を知るべきだ。
山の外には、人がいる。街がある。泣く者も、笑う者も、助けを求める者もいる。悟空が知らないものが、数えきれないほどある。
強さだけでは足りない。
何を守るのか。
誰を助けるのか。
何に拳を向け、何には拳を下ろすのか。
それを知らなければ、強さはただの力でしかない。
悟空は、また真っ直ぐに踏み込んできた。
「ありゃぁッ!」
老人はその拳を見た。
かつて赤子だった子の拳。
自分より遥かに強くなった子の拳。
いつか、この山の外で誰かを守るために振るわれるであろう拳。
老人は笑った。
嬉しくて、寂しくて、少しだけ誇らしい笑みだった。
「来い、悟空」
その名を呼ぶ。
また悟空の顔が、一瞬だけ苦く揺れた。
だが、次の瞬間にはもう笑っていた。
「おう、じいちゃん!」
山の朝に、拳と掌の音が響く。
二十年の歳月を越えて、親子の稽古は続いていた。