孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか―― 作:Henon
それは、あまりにも唐突だった。
稽古が終わり、悟空がまだ息を整えている時だった。
朝の霧は薄れ、山の木々には陽が差し始めている。
土の広場には、二人の足跡がいくつも刻まれていた。老人の小さな足跡と、悟空の大きく力強い足跡。
それらが何度も交わり、離れ、また重なっている。
悟空は肩で息をしながら笑っていた。
「へへ……やっぱじいちゃんはすげえな。今の足払い、全然見えなかったぞ」
老人は杖に手を置き、静かに悟空を見ていた。
もう力では敵わない。
速さでも、体力でも、悟空は遥か先へ行ってしまった。
それでもこの子は、まだ自分から学ぼうとする。
だからこそ、老人は思った。
「今」なのだと。
この山で教えられることは、もうほとんど教えた。
力の使い方や加減。
人を傷つけることの怖さ。
強さを誇らないこと。
だが、山では教えられないことがある。
人の中で生きること。
弱い者と向き合うこと。
悪意を知ること。
そして、自分の名と向き合うこと。
老人は、ゆっくり息を吐いた。
「悟空や」
「ん?」
悟空はいつものように振り向いた。
その顔が、名を呼ばれた一瞬だけ、ほんのわずかに曇る。
老人の胸が小さく痛む。
やはり、そうなのだ。
この子はもう、何も知らない子供ではない。
思い出せないだけで、胸の奥に何かがある。
老人は、その一瞬を見届けてから、静かに言った。
「外の世界に行きなさい。」
悟空の笑みが止まった。
「……え?」
あまりにも唐突だった。
稽古の続きでも、飯の支度でも、薪割りの話でもない。
『外の世界』。
その言葉だけが、朝の空気の中にぽつんと落ちた。
「じいちゃん……今、なんて?」
「外の世界に行きなさい」
老人は同じ言葉を繰り返した。
悟空はしばらく何も言えなかった。
山の音だけが聞こえる。
鳥の声。
葉の擦れる音。
遠くで流れる川の音。
いつもと同じ山なのに、その瞬間だけ、何もかもが遠く感じられた。
「なんで、急に」
悟空は小さく言った。
「オラ、なんか悪いことしたか?」
「しておらん」
「じゃあ、なんで」
「今だからじゃ」
老人は悟空を見上げた。
かつて腕に抱いていた赤子は、今では見上げるほど大きくなっている。
「お前は強くなった。わしより、ずっと強くなった」
「そんなこと――」
「悟空」
老人が遮る。
名を呼ばれ、悟空はまた一瞬だけ顔を歪めた。
「お前は、その名に苦しんでおるな?」
「……」
悟空の喉が止まった。
否定しようとした。
…だが、できなかった。
自分でも分からない。
じいちゃんがくれた名前だ。
大切な名前だ。
嫌いなはずがない。
それなのに、時々胸の奥が痛むのだ。
『孫悟空』。
その名を聞くたびに、どこか遠い場所から何かが滲んでくる。
夢の白い空間。
誰かの笑み。
そして、画面の向こうにいた英雄。
その瞬間、悟空の中に、山で育った青年ではない『誰かの』心がかすかに浮かんだ。
誰かだった頃の心。
遠い昔、別の世界で生きていた誰かの感覚。
表紙を読んで、映像を見て、強い英雄に憧れていた心。
何気なくその名を口にしてしまった心。
そして今になって、その名の重さに怯える心。
悟空は胸元を握った。
「オラ……」
声が震えた。
「オラ、この名前、好きなんだ」
「…」
「じいちゃんがくれた名前だから」
「…そうか」
「でも、たまに……変なんだ。名前を呼ばれると、胸ん中がぎゅってなる。…まるで、オラじゃねえみたいで」
老人は黙っていた。
「強くなりてえって思う。でも、なんで強くなりてえのか分かんなくなる時がある。じいちゃんを守りてえ。それは本当だ。でも……それだけじゃねえ気もするんだ…」
悟空は俯く。
「オラ、なんか大事なこと忘れてるのか?」
「分からん」
老人は正直に言った。
「わしには、お前の中にあるものまでは分からん」
「……そっか」
「じゃがな、悟空」
老人は一歩近づいた。
「分からぬまま、この山に閉じこもっていても、お前はその答えを見つけられん」
悟空は顔を上げる。
「外に出れば、分かるんか?」
「すぐには分からんかもしれん。余計に苦しむかもしれん。自分の力が怖くなることもあるじゃろう。」
老人の声は穏やかだった。
けれど、逃げ道を与える声ではなかった。
「それでも、知るべきじゃ」
「何を?」
「人を、弱さを、悪意を、優しさを、助けを求める声をな…」
老人は山の向こうを見た。
「お前は強い。じゃが、強さだけでは足りん。何を守るのか。誰のために拳を握るのか。それを知らねば、お前の力はただの暴力でしかない」
悟空は黙った。
胸の奥で何かが震えている。
怖い。
そう思った。
山の外へ出ることが怖い。
じいちゃんのいない場所へ行くことが怖い。
知らない人々に会うことが怖い。
そして何より、自分が“孫悟空”という名に相応しくないと知られることが怖かった。
その恐怖は、山で育った悟空のものではないのだろうーー
遠い昔、別の世界で生きていた青年の心が滲んでいた。
憧れた英雄の名を、軽はずみに選んでしまった誰かの『後悔』。
悟空は拳を握った。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「オラ……怖いかもしんねえ」
老人は驚かなかった。
ただ静かに頷いた。
「そうか」
「外の世界も、自分のことも、……よく分かんねえ。オラが本当に孫悟空でいいのかも、分かんねえ」
「なら、見てこい」
老人は言った。
「分からぬなら、見てこい。歩いて、会って、傷ついて、考えて、それでも分からんかったら、帰ってこい」
「帰ってきていいのか?」
悟空は思わず聞いた。
老人は少しだけ眉を上げた。
「当たり前じゃ」
「でも、外に行けって」
「外に行けと言った。帰ってくるなとは言っておらんわい」
老人は笑った。
「ここは、お前の家じゃ」
その言葉で、悟空の胸が熱くなった。
「……うん」
「お前が何者であろうと、お前はわしの子じゃ。わしが拾い、育て、名をつけた。そこだけは、何があっても変わらん」
悟空は目を伏せた。
かつての記憶は遠い。
神のようなモノの声も、もうほとんど思い出せない。
だが、じいちゃんの声はここにある。
それだけは確かだった。
「分かった」
悟空は小さく頷いた。
「オラ、外の世界に行ってみる」
老人は静かに頷いた。
「よい」
「でも、じいちゃん」
「なんじゃ」
「オラ、絶対帰ってくるぞ」
悟空は真っ直ぐに言った。
「ここがオラの家だからな」
老人はしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
「ああ。絶対帰ってこい」
山の風が吹いた。
木々が揺れる。
朝の光が、二人の間に落ちる。
旅立ちは、英雄らしいものではなかった。
祝福もない。
歓声もない。
ただ、山奥の小さな家で、老人が一人の青年に外へ行けと言っただけだった。
だがその瞬間、悟空の中で何かが確かに動き始めていた。
じいちゃんの子としての自分。
孫悟空という名を背負った自分。
そして、遠い昔に英雄へ憧れた誰かの心。
そのすべてを抱えたまま、彼は初めて山の外を見ようとしていた。
ーー
旅立ちは、思っていたよりも静かだった。
空はよく晴れていた。
山の朝はいつもと変わらない。鳥が鳴き、木々が揺れ、谷の方から冷たい風が上がってくる。土の匂い。薪の匂い。朝飯の湯気の名残。二十年、悟空が当たり前のように吸い込んできた空気が、今日もそこにあった。
ただ、悟空の足元には荷物が置かれていた。
布で包んだ干し飯。
水筒。
着替え。
老人が持たせてくれた小さな財布。
それから、古びた地図。
荷物は少ない。
けれど、それを背負うだけで、悟空は妙に胸が重くなった。
「……ほんとに、行くんだな」
悟空は、自分で言ってから少し驚いた。
外の世界を見たいと思った。
強くなりたいと思った。
誰かを助けられるくらいになりたいと思った。
それは本当だ。
でも、いざ山を出るとなると、足が少しだけ重かった。
この家には、二十年分の匂いが染みついている。
柱には悟空が幼い頃につけた傷がある。
庭には転んだ跡がある。
裏手の広場には、じいちゃんと何度も何度も稽古した足跡が残っている。
山の全部が、悟空の育った場所だった。
老人は縁側に座り、いつものように悟空を見ていた。
「寂しいか」
「……ちょっとな」
悟空は素直に答えた。
「変だな。オラ、外を見てえって思ってたのに」
「変ではない」
老人は静かに笑った。
「家を出る時は、誰でも少しは寂しいものじゃ」
「じいちゃんもか?」
「わしも若い頃はそうじゃった」
「じいちゃんにも若い頃あったんだな」
「当たり前じゃ」
老人は呆れたように眉を上げる。
それを見て悟空は少し笑った。
老人はおもむろに立ち上がる。
二十年前は大きく見えた背中が、今は小さい。
悟空の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
じいちゃんは歳を取った。
自分が大きくなった分だけ、そのことがはっきり見えてしまう。
「悟空」
「ん?」
「外へ出たら、よく見てくるんじゃぞ。強い者ばかりを見るな。弱い者も見ろ。笑っている者も、泣いている者も、怒っている者も、嘘をつく者も、助けを求める者も、みな見てこい」
「……うん」
悟空は拳を握った。
じいちゃんの言葉は難しい。
でも、胸に残る。
「分かった」
「腹が減ったからといって、人の物を勝手に食うでないぞ」
「それは分かってるって!」
「本当かのう」
「本当だって!」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
悟空は笑い、老人も笑った。
けれど、笑い終わると、やはり別れの時間がそこに残っていた。
悟空は荷物を背負った。
肩にかかる重さは大したことがない。
けれど、それは今まで背負ったどんな岩よりも、どんな薪の束よりも、重く感じた。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「オラ、行ってくる」
「ああ」
「外の世界を見て、いろんなやつに会って、それで……ちゃんと帰ってくる」
「ああ。帰ってこい」
老人は静かに言った。
「ここは、お前の家じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、悟空の目の奥が熱くなった。
泣きそうになった。
それが恥ずかしくて、悟空は慌てて笑った。
「へへ……行ってくる!」
「行ってこい、悟空」
悟空は一歩踏み出した。
土を踏む。
何度も歩いた山道。
薪を運び、水を汲み、獣を追い、稽古のために駆けた道。
けれど今日は、いつもとは違う。
この道は、山の外へ続いているのだ。
ーー
悟空は山道の途中で足を止めた。
背後を振り返る。
木々の奥に、もう家は見えない。
じいちゃんの姿も見えない。
ただ、風に揺れる枝葉と、見慣れた山の匂いだけがそこにあった。
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
「……よぉし」
悟空は荷物の紐を握り直し、空を見上げた。
「飛ぶかぁ!」
地面を軽く蹴る。
次の瞬間、悟空の身体はふわりと宙へ浮いた。
舞空術。
それは、老人が最初に教えてくれた特技だった。
幼い頃は、ほんの少し浮くだけで大騒ぎした。
庭の端から端まで飛べるようになった日は、嬉しくて何度も何度も空中を往復した。
調子に乗って木に突っ込み、じいちゃんに笑われたこともある。
『空を飛ぶ時ほど、心を乱すな。落ちるぞ』
『へへっ、大丈夫だって!』
そう言った直後に、枝に引っかかった。
悟空は思い出して、少し笑った。
「懐かしいなぁ」
山の上を飛ぶ。
木々の梢が足元を流れていく。
谷川が銀色の線のように光り、岩場が小さく見える。
何度も駆け回った獣道。
魚を捕った川。
じいちゃんに投げ飛ばされた広場。
木に頭から突っ込んだ場所。
すべてが、上から見ると少し違っていた。
けれど、どれも悟空の知っている景色だった。
胸の奥に寂しさが残る。
でも、それだけではなかった。
風が背中を押し、空が広がる中…
山の向こうには、まだ見たことのない世界がある。
悟空は前を向いた。
緑の波の向こうに、見慣れないものが見えてくる。
悟空は空中で目を見開いた。
「お……おお……!」
胸が跳ねる。
さらに高度を上げると、山の向こうに街が広がっていた。
それは、悟空が今まで見てきたどんな景色とも違っていた。
山は丸く、川は曲がり、木々は好き勝手に枝を伸ばす。
だが街は違う。
道は線のように走り、建物は角ばって並び、人の手で作られたものがびっしりと地面を埋めている。
煙や光。
車の音。
遠くから響く人々のざわめき。
「すっげえ〜!」
悟空は思わず叫んだ。
だが、その声が空に溶けた直後、胸の奥で何かが小さく揺れた。
初めて見るはずだった。
二十年、山で暮らしてきた。
街を見たことなどない。
車も、信号も、高い建物も、実物として目にしたことはなかった。
なのに。
悟空は空中で、少しだけ眉を寄せた。
(でも、なんでだ?)
胸の奥に、妙な感覚がある。
懐かしい。
そう思ってしまった。
舗装された道や車、並ぶ建物たち。
どれも知らないはずなのに、どこかで知っている気がする。
夢の底で見たような。
白く擦り切れた記憶の向こう側にあったような。
手を伸ばせば思い出せそうで、けれど触れた瞬間に消えてしまうような。
(懐かしい……)
悟空は街を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。
風が道着の裾を揺らす。
悟空は胸に手を当てた。
「……変だな」
小さく呟く。
だが次の瞬間、街の方から食べ物の匂いが流れてきた。
香ばしい匂い。
焼いた肉か、油か、甘いものか。
それらの匂いを嗅ぎつけた、悟空の腹が鳴った。
「……ま、いっか!」
考えても分からない。
分からないなら、まず見に行けばいい。
悟空はぱっと顔を明るくし、街へ向かって飛び出した。
「よーし!行ってみっか!」
そうして、孫悟空は山を越えた。
初めて見るはずの、どこか懐かしい街へ向かって。
ーー
ーーその頃。
街から遠く離れた山岳地帯の地下深くで、巨大な施設が眠っていた。
地上から見れば、そこは朽ちた廃棄施設にしか見えない。
錆びた鉄柵に崩れかけた管理棟。
草に覆われた搬入口。
人の気配など、とうの昔に消えたような場所だった。
だが、その地下には光があった。
分厚いコンクリートの壁と金属製の床。
壁面を走る無数のケーブル。
格納庫の奥で低く唸る発電機。
そして、そこには『軍隊』がいた。
千名を超える兵士たちが、広大な地下格納区画に整列している。
銃を抱え、背筋を伸ばし、誰一人として私語を発しない。
整えられた隊列。
磨かれた軍靴。
統一された装備。
冷たい照明に照らされた顔は、どれも精強だった。
一見すれば、どこかの正規軍にも見えただろう。
訓練されていて、規律がある。
そして、命令を待つ沈黙がある。
だが、その空気は市民を守るための軍隊とは違っていた。
そこにあるのは防衛の緊張ではない。
秩序を守る者の沈黙でもない。
奪う者の熱であり。
壊す者の静けさだ。
命令ひとつで都市へ流れ込み、人々の日常を踏み砕くために研ぎ澄まされた、冷たい暴力の気配だった。
兵士たちの背後には、装甲車が並んでいた。
さらに奥には戦車。
無人兵器。
垂直離着陸機から無人攻撃機までーー
そして、強化ガラスの奥で眠る人型の影。
培養槽の中に沈むそれらは、人間にも見えた。
だが、人間と呼ぶにはあまりにも無機質だった。
心臓の鼓動すら機械に管理され、閉じた瞼の下で、まだ目覚めぬ暴力だけが育てられている。
その培養槽の前に、一人の男が立っていた。
白衣を着た老人だった。
老人の白衣の胸元には、古びた名札の跡だけが残っていた。
文字は削られている。
だが、かつてそこに刻まれていた名を知る者が見れば、きっと息を呑んだだろう。
背は曲がり、頬はこけ、薄い唇の端には乾いた笑みが貼りついている。
丸い眼鏡の奥にある目は、兵士たちのような忠誠の色を帯びていなかった。
そこにあるのは、もっと冷たいものだった。
興味。観察。執着。
そして、人間を部品として見る者の目。
男は培養槽のガラスに指を添えた。
中で眠る人型の影が、わずかに指を動かす。
「ふむ……反応は良好だな。筋肉密度、神経伝達、人工臓器の同期率も許容範囲内だ」
男は小さく呟いた。
近くにいた軍服の将校が、低い声で尋ねる。
「実戦投入は可能なのか、博士?」
「可能かどうか、ではない」
白衣の男は、ゆっくり振り返った。
その笑みは、不快なほど穏やかだった。
「試すのだよ。戦場とは、最良の実験場だからな」
将校の眉がわずかに動く。
「兵士が何人死のうと、データは残る。都市がどれだけ壊れようと、記録は取れる。怪人、ヒーロー、軍隊、民間人……この混沌の時代ほど、研究素材に恵まれた時代はない」
将校は何も言わなかった。
博士は再び培養槽へ向き直る。
博士は笑う。
「起きるにはまだ早い。お前たちの出番は、もう少し後だ」
その声は、まるで子を慈しむ親のようだった。
だが、そこに愛情はなかった。
あるのは、完成品を待つ技術者の歪んだ期待だけだった。
そんな中、遠くの壇上に、一人の男が立つ。
軍服を着た男だった。
背丈は決して大きくない。
だが、その場にいる千名を超える兵士たちの視線は、すべてその男へ向けられていた。
男は、ゆっくりと口を開く。
『諸君……ついにこの日が来た』
拡声器を通した声が、地下施設全体に響いた。
兵士たちは動かない。
ただ、瞳の奥だけが熱を帯びる。
『我々は長く待った。地上の愚か者どもが、怪人に怯え、ヒーローなどという見世物に縋り、秩序という名の幻想の中で震える様を、地下から見続けてきたのだッ!!』
男の背後で、巨大なスクリーンが点灯する。
そこに映し出されたのは、各都市の映像だった。
倒壊したビルと逃げ惑う市民。
怪人に破壊された道路と炎上する車両。
救助に走るヒーローに、瓦礫の中で泣く子供。
『見よ。これが今の世界だ』
男はスクリーンを指した。
『都市は怪人に蹂躙され、統一政府は後手に回り、ヒーロー協会は人気取りと点数稼ぎに追われている。民衆は英雄を求め、誰かが助けてくれると信じている』
男の声が低くなる。
『だが、その誰かは本当に来るのか?』
沈黙。
『否。来ない!』
男は断言した。
『本当に必要なのは『英雄』ではない。秩序であり、力だ!世界を一つの命令系統の下に置く、絶対的な軍事力だッ!!』
スクリーンの映像が切り替わる。
恐らく都市の見取り図だろう。
作戦線が、同時にそれらへ向かって伸びていく。
『本日、作戦を開始する』
地下施設の空気が変わった。
兵士たちの表情は動かない。
だが、千名を超える軍勢の奥で、殺意にも似た熱が静かに膨れ上がっていく。
『第一目標、通信施設。第二目標、エネルギー供給拠点。第三目標、ヒーロー協会支部。これらを同時に制圧する』
男は淡々と告げる。
『市民の被害は考慮しない。混乱は大きいほどよい。ヒーローは必ず出てくるだろう…そこを叩くのだ』
装甲車のエンジンが、低く唸り始めた。
無人兵器の赤いセンサーが点灯する。
整備兵たちが最終確認に走る。
格納庫の奥で、巨大な扉がゆっくりと開き始める。
培養槽の前で、白衣の博士が口元を歪めた。
「さあ、始めるとしよう」
彼は端末に指を滑らせる。
画面には、人造兵器の起動準備を示す数値が並んでいた。
「ヒーローとやらの限界。怪人災害下の都市の抵抗力。そして、人造人間の実戦適性を同時に試せるとは……」
博士は喉の奥で笑った。
「実に良い日だ」
『諸君。世界は今、弱っている。怪人に怯え、英雄を求め、秩序を失っている』
壇上の男は片手を掲げた。
『ならば、我々がその空白を埋める時だ!』
兵士たちの背筋がさらに伸びる。
『今日、世界は思い出すだろう。怪人だけが恐怖ではないと。人間もまた、世界を支配できる怪物なのだと』
沈黙が落ちた。
その沈黙は、一秒にも満たなかった。
次の瞬間、千名を超える兵士たちが一斉に拳を胸に当てた。
鋼のような音が、地下施設全体に響き渡る。
男が叫んだ。
『レッドリボン軍に栄光をッ!』
兵士たちが応じた。
「レッドリボン軍に栄光をッ!!」
その声は地下を震わせ、封じられていた悪の軍勢が、ついに地上へ向けて動き出した。