孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか―― 作:Henon
悟空は、街の外れにある細い路地へ静かに降り立った。
足裏が地面に触れる。
山の土ではない。
湿った落ち葉でも、石混じりの獣道でもない。
黒く、固く、平らな地面だった。
舗装された道路。
車のタイヤに磨かれ、人の靴に踏まれ、太陽の熱を吸った街の道。
悟空は一度、足元を見下ろした。
「へえ……」
初めて踏むはずだった。
二十年間、悟空は山で暮らしてきた。
じいちゃんと飯を食い、薪を割り、川で魚を捕り、獣道を駆け、土の上で何度も転がされた。
街の道など、実際に歩いたことはない。
車も、信号も、高い建物も店先に並ぶ看板さえ…どれも、じいちゃんの話でしか知らなかったものだ。
それなのに。
不思議と、足が迷わなかった。
悟空は路地を抜け、大通りへ出る。
そこにはたくさんの人がいた。
学生服の少年少女。
買い物袋を下げた女性。
急ぎ足の会社員。
ベビーカーを押す母親。
ベンチに腰かける老人。
自転車を押して歩く男性。
人、人、人。
山ではありえない密度だ。
「おお……」
悟空は思わず目を丸くした。
横断歩道を人々が渡り、店の扉が開き、音楽が流れる様は悟空にとってすべてが『初めて』だった。
けれど、初めてではないような気もした。
悟空は大通りの端を歩きながら、首を傾げる。
(なんでだ?)
知らないはずなのに、身体が覚えている。
車道には出ない。信号が赤なら止まる。
人とぶつかりそうになれば、自然に半歩だけ身を引く。
誰に教わったわけでもない。
じいちゃんから、街では決まりを守れとは聞いていた。
だが、それだけでは説明できない。
悟空は、不思議と街に馴染むように歩いていた。
まるで、過去にどこかの街で暮らしていたかのように。
山で育った身体の中に、別の誰かの癖が薄く残っている。
そんな感覚があった。
街の風景の一つ一つが、胸の奥に沈んだ何かを揺らしてくる。
白く擦り切れた記憶の底で自分ではない誰かが、かつて見ていた景色のようなーー
(懐かしい……)
悟空は胸に手を当てた。
だが、無論。
悟空の服装だけは、街にまるで馴染んでいない。
山吹色の道着に加え、ぼさぼさの黒髪。
歩き方は妙に自然なのに、見た目だけはどう見ても場違いだ。
通行人がちらりと見る。
悟空はその視線に気づき、自分の服を見下ろした。
「……やっぱ、変かな」
しかし次の瞬間、風に乗って香ばしい匂いが届いた。
甘辛いタレと油の弾ける匂い。
悟空の腹が、ぐう、と鳴った。
「……ま、いっか!」
悩みは一瞬で吹き飛んだ。
悟空は鼻をひくつかせ、匂いのする方へ歩き出す。
初めて見るはずの街を、どこか懐かしむようにーー
ーー
匂いを辿っていくと、通りの角に小さな屋台があった。
赤い暖簾が風に揺れている。鉄板の上では、串に刺さった肉がじゅうじゅうと音を立て、甘辛いタレが焦げるたびに、香ばしい煙が立ち上っていた。
悟空の目が輝いた。
「お!ここかぁ!」
腹が、もう一度大きく鳴る。
屋台の中にいた親父が、鉄板の肉を返しながら顔を上げた。鉢巻きを巻いた、がっしりした中年男だった。腕は太く、顔には皺が刻まれているが、目つきは悪くない。
悟空は屋台の前に立ち、にっと笑った。
「おっす!」
あまりにも自然な挨拶だった。
山から降りてきたばかりの青年にしては、人見知りも遠慮もない。通りすがりの屋台に、昔から知っている相手へ声をかけるような調子で話しかける。
親父は一瞬、手を止めた。
「……なんだ、にいちゃん。変わった格好だな」
「そうか?」
悟空は自分の道着を見下ろした。
「じいちゃんがくれたんだ。動きやすくていいぞ」
「じいちゃんねえ」
親父は苦笑しながら、串をひっくり返す。
「祭りか何かの帰りか?」
「祭り?」
「違うのか」
「オラ、今日初めて山から出てきたんだ」
親父の眉が上がった。
「山から?」
「おう!」
悟空は何の疑いもなく頷く。
「じいちゃんとずっと暮らしてた。街ってすげえな!でっけえ建物がいっぱいあるしよ!」
親父は数秒黙った後、堪えきれずに笑った。
「ははっ。変なにいちゃんだな」
「そうか?」
「そうだよ。今どきそんな事言う奴は、なかなかいねえ」
「へへ、街のことはまだよく知らねえんだ」
悟空は照れるでもなく笑った。
親父は、そんな悟空をもう一度見る。
妙な青年だった。
格好は完全に浮いている。
言っていることも世間知らずそのものだ。
だが、不審ではなかった。
その笑顔には妙な清々しさがあったからだ。
「で、何食う?」
「うまいもん!」
「範囲が広いな」
「腹いっぱいになるやつがいい!」
「じゃあ串焼きと焼きそばだな。金はあるのか?」
「あるぞ!」
悟空は嬉しそうに、じいちゃんから持たされた小さな財布を取り出した。
「じいちゃんが、街ではこれを渡せって言ってた」
「ちゃんと持ってるじゃねえか」
「でも、どれくらい渡せばいいかは分かんねえ…」
「そこは分かってねえのかよ」
親父はまた笑った。
「いいよ。騙しゃしねえ。まずはこれ一枚で足りる」
「おお!ありがとな!」
「礼は食ってから言いな」
親父は手早く肉を返し、焼きそばを鉄板の上でほぐした。
悟空は屋台の前で、じっとそれを見つめていた。
親父は串を焼きながら、ふと首を傾げた。
「しかし、なんだって街に?」
「ん?」
「いや、今日初めて山から出てきたんだろ。じいちゃんと暮らしてたなら、別に山にいたって困らねえじゃねえか。なんでわざわざ街なんかに来たんだ?」
悟空は少しだけ黙った。
鉄板の上で、肉の脂が弾ける。
じゅう、と音が鳴るたびに、甘辛い匂いが立ち上っていく。さっきまでなら、その匂いだけで頭がいっぱいになっていたはずだった。
だが、その問いだけは、妙に胸の奥へ落ちた。
「……じいちゃんに言われたんだ」
「じいちゃんに?」
「おう。外の世界を見てこいって」
悟空は街の通りを見た。
知らないはずの世界…なのに、どこか懐かしい世界。
「人を見ろって。街を見ろって。弱いもんも、悪いもんも、優しいもんも、助けを求める声も、ちゃんと見てこいって言われた」
親父は肉を返す手を止めた。
「……ずいぶん難しいこと言うじいちゃんだな」
「うん。オラにはまだよく分かんねえ」
悟空は苦笑した。
「でも、じいちゃんが言うなら、きっと大事なことなんだと思う」
「へえ」
「それに、オラも見てみたかったんだ。外をさ」
悟空は少しだけ目を細めた。
「自分が何なのかも、よく分かんねえしな」
親父は眉を上げた。
「何なのか?」
「あ、いや……なんでもねえ」
悟空は慌てて笑った。
けれど、その笑い方にはほんの少しだけ影があった。
親父はそれを見て、それ以上は深く聞かなかった。
代わりに、焼き上がった串を紙皿に乗せる。
「ほらよ。外の世界、最初の飯だ」
「おおっ!」
悟空の顔がぱっと明るくなる。
親父は焼きそばも盛りつけながら、少し笑った。
「ま、ここは良いもんも悪いもんもある。うまい飯もあるし、変な奴もいる。騒がしいし、面倒も多いしな…」
「そうなのか?」
「ああ。けどな、悪いとこばっかでもねえよ」
親父は悟空の前に皿を置いた。
「少なくとも、腹減った若いのに飯を出す屋台くらいはある」
悟空は目を輝かせた。
「ありがとな、親父!」
「礼は食ってから言えって」
「おう!」
悟空は串焼きにかぶりついた。
次の瞬間、目を見開く。
「うっめえええ!」
通りの数人が振り返った。
親父は思わず吹き出した。
「声でけえよ」
「だってうめえぞこれ!じいちゃんの飯もうめえけど、街の飯もすっげえな!」
「そりゃどうも」
悟空は夢中で食べ始めた。
用意された串焼きと焼きそばを、まるで宝物みたいに頬張っていく。
それは大食いというより、食べることそのものを全身で喜んでいるようだった。
親父はその姿を見ながら、ふっと表情を緩めた。
「……まあ、悪くねえな」
「ん?」
「いや。そうやってうまそうに食う奴を見るとよ、屋台やっててよかったって思うんだよ」
悟空は口いっぱいに頬張りながら、にっと笑った。
「そうかぁ?」
親父は苦笑して、鉄板の上に新しい肉を置いた。
脂が弾け、香ばしい匂いが、また通りに広がった。
「最近は嫌な話題ばかりだったからな」
親父はぽつりと言った。
その暗い声を聞き、思わず悟空は箸を止める。
「嫌な話題?」
「ああ。怪人災害だの、避難勧告だの、どこそこでヒーローが間に合わなかっただの……ニュースをつけりゃそんなのばっかりだ」
親父は鉄板の火を少し弱めた。
「昔はよ、屋台で聞く愚痴なんて、仕事がきついとか、嫁さんが怖いとか、子供の成績がどうとか、そんなもんだったんだがな…」
「それも嫌な話じゃねえのか?」
「まあ、嫌っちゃ嫌だがな」
親父は笑った。
「でも今思えば、そういうしょうもねえ愚痴を言えるってのは、平和だったんだろうよ」
悟空は黙って聞いていた。
「今は違う。昨日は隣町で怪人が出た。先週は駅前のビルが潰れた。知り合いが避難所にいる。誰それが帰ってこない。そんな話ばっかりだ」
鉄板の上で、肉が焼ける音だけがした。
「だからよ。あんたみたいに、飯食って、うめえって大声出してる奴を見ると……なんつうか、少しほっとするんだよ」
悟空は、親父を見た。
何と言えばいいのか分からなかったからだ。
街はすごい。
人はたくさんいて、音も匂いも光も溢れている。
でも、その中に、親父の言うような嫌な話も混ざっている。
じいちゃんの言葉を思い出す。
人を見ろ。街を見ろ。弱いものも、悪いものも、優しいものも、助けを求める声も…
悟空は串を握ったまま、小さく頷いた。
「……そっか」
「まあ、あんたが気にすることじゃねえよ」
親父はわざと明るく言った。
「ほら、冷める前に食え。腹減ってんだろ?」
「おう!」
悟空はまた笑った。
「だから声がでけえって」
街の喧騒の中で、二人の間だけ、少しだけ穏やかな時間が流れていた。
ーー
違和感。
そう呼ぶべきものだろうか。
悟空は、串焼きを口へ運びかけたまま、ふと動きを止めた。
「……ん?」
鉄板の上では、肉がじゅうじゅうと音を立てている。甘辛いタレが焦げ、白い湯気に混じって香ばしい匂いが立ち上っていた。
街は、さっきまでと何も変わっていないように見えた。
屋台の親父は肉を返しながら、悟空を見た。
「どうした、にいちゃん?」
「いや……」
悟空は串を下ろした。
胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さっている気がした。
ただ、落ち着かない。
それは、何かが荒れる前の気配に似ていた。
山で獣の気配を感じた時。
崖の上で、石が崩れる直前。
嵐の前に、鳥が鳴き止むような、妙な静けさ。
けれど、街は騒がしい…
だからこそ、その違和感だけが、街の喧騒の中で妙に浮いていた。
「何か……来る」
悟空は小さく呟いた。
親父は眉をひそめる。
「何かって、何がだ?」
「分かんねえ。でも……」
悟空は通りの向こうを見た。
ビルの谷間の先、まだ肉眼では見えない遠い場所。
そこから、低い音がこちらへ向かっていた。
それは、先ほど聞いた車の音ではない。
もっと硬く、もっと重い音だ
まるで、地面そのものを押し潰しながら進んでくるような音だった。
「車か……?いや、ちげえ……」
「なんだってんだ?」
親父は顔をしかめた。
「音がすんのか?工事とかじゃねえのか?」
普通なら、そう考える。
街には、悟空の知らない音がいくつもあるのだろう。工事の音。大型車の音。重い機械が動く音。悟空は、それらをはっきり区別できるほど、街を知っているわけではない。
けれど、違うと思った。
これは、何かを作るための音ではない。
近づいてくるものの奥に、硬く冷たい気配があった。
何かを壊すために、誰かを傷つけるために、きちんと形を与えられた気配。
言葉にするなら、それは――
悪意。
悟空は、ゆっくりと串を下ろした。
「……違う」
声が低くなった。
親父の表情が変わる。
「じゃあ、何だってんだよ」
その時だった。
胸の奥にあった違和感が、一気に膨れ上がった。
空気が裂ける。
悟空の目が見開かれた。
遠いビルの谷間。
青く見えていた空の端に、白い煙の尾を引くものがいくつも現れた。
小さな鉄の塊が、空を一直線に滑ってくる。
それが何という名前のものなのか、悟空は知らない。
だが、一目見ただけで分かった。
あれは、人を殺すものだと
「――来るッ!!」
悟空が叫んだ。
通行人たちが、何事かと空を見上げる。
次の瞬間、ビルの谷間から白煙を引く弾頭が姿を現した。
「なんだあれは!」
悲鳴をあげる市民をよそに、白煙を引いた弾頭は、無情にも中央通り沿いの高層ビルへ吸い込まれるように突き刺さった。
一瞬、音が消えた。
そして――
爆発。
ビルの中腹が、内側から弾け飛んだ。
赤い炎が窓を吹き破り、黒煙が爆ぜるように噴き出す。無数のガラス片が陽光を反射しながら雨のように降り注ぎ、外壁の一部が剥がれ落ちた。
轟音が街を叩きつける。
人々が悲鳴を上げて伏せる。
「うわああああッ!」
「ビルが!」
「一体何がッ!」
悟空は、爆発したビルを見上げていた。
拳が震える。
間に合わなかった。
何かが来ると分かっていた。
嫌な予感もあった。
それなのに、止められなかった。
胸の奥に溢れてくるものが、怒りなのか、悔しさなのか、後悔なのか、自分でも分からない。
ただ、燃えるビルの中から、かすかに声が聞こえた。
悟空の顔つきが変わった。
「……親父」
「な、なんだ……?」
「荷物、頼む」
親父は青ざめた顔で悟空を見た。
「おい、にいちゃん……まさか行くのか?」
悟空は燃えるビルを見たまま答えた。
「ああ…中に人がいっからな」
「待て!危ねえぞ!」
「分かってるさ」
悟空は短く言った。
自分がまだ何者なのか。何を学ぶべきなのか。
それはまだ、分からない。
けれど、今この瞬間に分かることがあった。
誰かが助けを求めているーーそれだけは確かだ。
その時、街中に甲高い電子音が鳴り響いた。
『緊急避難警報が発令されました』
機械的な女の声が、街全体に響いた。
『市民の皆様は、直ちに最寄りの避難施設、または地下避難区画へ移動してください』
日常が、完全に終わった。
さっきまで人々が歩いていた通りに、恐怖が走る。
誰かが子供の手を引き、誰かが荷物を捨て、誰かが悲鳴を上げながら走り出す。車が急停止し、クラクションが幾重にも重なった。
悟空は、食べかけの皿を屋台の端へ置いた。
「飯、とっといてくれよ」
「今それ言うかよ!」
親父の叫びは震えていた。
悟空は少しだけ笑った。そして、地面を蹴る。
身体が、ふわりと宙へ浮いた。
「飛んだ……?」
逃げ出そうとしていた人々も、思わず空を見上げた。
山吹色の道着を着た青年が、黒煙を吐くビルへ向かって飛んでいく。
悟空は振り返らなかった。
初めて訪れた、どこか懐かしい街。
その街が、今、壊されている。
そしてその中で、誰かが助けを求めている。
それだけで、彼が飛ぶ理由には十分だった。