孫悟空でボスラッシュ! ――希望のなき世界に、希望になり得るか―― 作:Henon
ヒーロー協会支部、待機場。
それは、頻発する怪人災害に対応するため、協会が各都市圏に用意した即応拠点の一つだった。
ヒーロー協会設立から3年が経ち、怪人災害はもはや突発的な異常事態ではなくなっていた。
どこかの街で警報が鳴り、どこかのビルが壊れ、どこかの都市が封鎖される。人々はそれを恐れながらも、毎日の生活の中に組み込まざるを得なくなっている。
かつてヒーローは、事件が起きてから呼ばれる存在だった。
通報が入り、協会が災害レベルを判定し、付近のヒーローへ出動要請を出す。だが、怪人災害の増加に伴い、その流れだけでは間に合わない事例が増えてきたのだ。
数分の遅れが、市民の生命の危機に繋がり、一つの判断ミスが、一区画の都市壊滅に繋がる。
だから協会は、一定以上の実力を持つヒーローを各支部に待機させ、定期巡回と即応出動を行わせる体制を作った。
基本的にはA級以上ヒーロー。
場合によっては、実力を認められたB級上位も補助として配置される。
待機中のヒーローは支部内で休息を取り、装備を整え、必要に応じて近隣区域を巡回する。そして災害発生時には、管制室からの指示を受けて即座に現場へ向かう。
そのため、待機場は単なる休憩室ではない。
壁面には都市地図と災害情報を映す大型モニターが並び、隣には通信室と医療区画がある。奥には簡易訓練スペースが設けられ、床には衝撃吸収用のマットが敷かれていた。
その訓練スペースで、木刀が空気を裂いた。
「はッ!」
鋭い声とともに、少女が踏み込む。
白と緑を基調とした服が、動きに合わせて小さく揺れた。木刀の切っ先が真っ直ぐに走り、訓練用の木人を打つ。乾いた音が待機場に響き、壁際で端末を操作していた職員が一瞬だけ顔を上げた。
少女は止まらない。
振り下ろし、返し、横へ薙ぎ…そして、また構える。
動きは丁寧だ。力任せではなく、一振りごとに意味がある。
だが、今日の剣筋にはどこか硬さがあった。木人を相手にしているはずなのに、彼女の意識はもっと遠い場所に向いている。
まだ起きていない災害…いつか来ると分かっていて、けれどいつ来るか分からないもの。
その影が、彼女の肩に余計な力を入れさせていたのだ。
「もう少し力を抜いた方がいいんじゃない?」
気だるげな声がした。
少女は木刀を止め、声の方を見る。
訓練スペースの外、ソファに一人の男が座っていた。
銀色の髪に片目を覆う額当て。そして、口元を隠す布…
姿勢は緩く、片手には小さな本。
どう見ても、緊急出動を待つヒーローの態度ではない。
少女はじっと男を見る。
「…あの…ちゃんと見ていますか?」
「見てるよ」
「本を読んでいますよね」
「読んでるね」
「…では見ていないのでは?」
「いや、見てる見てる」
「信用できません」
少女はむっとした顔で言った。
男は本から目を離さず、のんびりと続ける。
「じゃあ…さっきの踏み込み、少し前に出すぎ。焦ると真っ直ぐになりすぎる癖があるよね。あれだと、相手が一歩引いた時に隙ができちゃうよ?」
少女の表情がわずかに変わった。
「……見てはいるんですね」
「だから言ったでしょ」
「なら、せめて真面目に見ている態度をしてください」
「これでも真面目なんだけどね」
「どこがですか…」
少女は木刀を下ろし、軽く息を吐いた。
それから男の手元にある本を見る。表紙を確認した瞬間、彼女の目が細くなった。
「……また、それですか」
「ん?」
「その本です」
「ああ、これ?」
男は悪びれもせず、本を少し持ち上げた。
少女の眉間に皺が寄る。
「やっぱり、性格…引っ張られていますね」
「そう?」
「ええ。特に、人目を気にせずそんな本を読めるところです」
「そんな本って…」
男は困ったように片目を細めた。
「自由時間は何読んだってよくない?」
「限度があります」
少女は呆れた声で言った。
だが、本気で怒っているわけではない。これがこの男の調子なのだと、もう分かっている。
気を抜いているように見えて、周囲は見ている。
ふざけているように見えて、必要な時には必ず動く。
だからこそ、腹立たしく、頼りにもなる。
少女はもう一度木刀を構えようとして、ふと手を止めた。
待機場の壁面モニターには、各都市の災害情報が流れている。怪人出現件数。避難勧告。復旧中の区域。ヒーローの巡回状況。
その数字は、ここ『数年』で明らかに増えていた。
少女は画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……『彼』は、やっぱりいないんでしょうか?」
男の指が、本のページの上で止まった。
待機場の空気が、少しだけ重くなる。
男はすぐには答えなかった。ソファに背を預け、ゆっくりと天井を見上げる。
そこに答えがあるわけではない。
けれど、男は思い出すかのように、しばらくそこを見ていた。
「……三年前。」
やがて、男は静かに言った。
「少なくとも、探せるだけは探したしね…」
少女は男を見る。
「Z市の無人街や協会に登録されていない強者の噂。災害が起きたのに、なぜか被害が広がらなかった場所。そういうものは、全部調べてきた。」
男の声はいつものように軽かった。
だが、その奥には少しだけ疲れた響きがあった。
「張り込んだ奴もいたし、何年も探した奴もいた。…でも、何も成果は出なかった…」
「……」
「記録にもない、噂にもない、痕跡もない、だから…結論としては」
男は本を閉じた。
「いない可能性の方が遥かに高い」
少女は木刀の柄を握りしめた。
「でも……もしかしたら!」
その声には、縋るような響きがあった。
「最初の災害で、現れるかもしれません!まだ誰にも知られていないだけで、本当に危機が来れば、いつものように――」
「あのね」
男の声が、静かに少女の言葉を止めた。
怒ってはいなかった。
ただ、それ以上言わせてはいけないと思った者の声だった。
「その可能性を完全に否定する気はないよ」
「なら――」
「でも、それに頼ってはいけないでしょ」
少女は口を閉じた。
男は天井から視線を戻す。
「来るかもしれない。助けてくれるかもしれない。最後には何とかしてくれるかもしれない。そう思うのは楽だよ」
その言葉は、待機場の中へ静かに落ちた。
「でも、それは希望じゃない。…逃避だよ」
少女は何も言えなかった。
「俺たちは探したんだ。できるだけ探した。そのうえで、いない可能性が高いと判断した。なら、それを前提に動くしかない」
「……」
「いないものを強請ってもしょうがないよ」
少女は俯いた。
「……それでも」
「それでも、いてほしかったです…」
男は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「それは、俺も同じだよ」
少女が顔を上げる。
男の声は、もう軽くなかった。
「彼がいれば、どんな災害が来ても最後は安心して終われる。どれだけ理不尽でも、どれだけ絶望的でも、最後には『一撃』で片がつく。そういう存在だったからね…」
少女の目が揺れる。
「でも、この世界には、それがない」
男は言った。
「最後の救いがない」
ヒーロー協会は存在し。
怪人もいる。
漫画の中だけだったヒーロー達も実在している。
けれど、最後に必ず現れるはずだった絶対的な抑止力だけが、どこにもいない。
その事実は、彼らが思っていたよりも遥かに重かったのだ。
最初は、誰も信じようとしなかった。
どこかにいるはずだ。
まだ見つかっていないだけだ。
危機が来れば、きっと現れる。
そう言い合って、何度も自分たちを納得させた。
だが、探しても、探しても、見つからない。
あの人物がいたなら、必ずどこかに残るはずの不自然な空白さえ…
その結論が出た時、心が折れてしまった者もいた。
無理もない。
この世界は、あまりにも理不尽だったからだ。
「彼がいないと分かった時点で折れた奴も、逃げた奴もいる。責める気はないよ。俺だって、何度も逃げたくなったしね…」
少女は男を見る。
男は壁面モニターに流れる災害情報を見ていた。
「でも、残ったならやるしかない」
彼は言った。
「最後の救いがない世界で、俺たちにできる範囲の成果を出すしかないんだ」
少女は、木刀の柄を握りしめたまま、静かに頷いた。
「……はい」
まだ不安は消えていない。
それでも、その目は少しだけ前を向いていた。
少女は静かに言った。
「私たちが、できる限りのことをするしかありませんね」
「…ま、そういうこと」
男はまた本へ手を伸ばしかけた。
少女の目が鋭くなる。
「その本はしまってください」
「……はいはい」
男は渋々、本をポーチへしまった。
少女は息を整え、木刀を振り上げる。
その瞬間だった。
待機場の壁面スピーカーが、短く鳴った。
乾いた電子音。
訓練場に響いていた木刀の音が、そこで途切れる。
「ッ?!」
少女の身体が、反射的に固まった。
木刀を構えたまま、視線だけが壁面モニターへ向く。さっきまで各都市の巡回状況と小規模災害の処理報告を映していた画面が、赤く点滅していた。
それは、待機場にいる者たちにとって、日常の一部になりかけていた音だった。
だが、少女にとってその音は違った。
胸の奥が、一瞬で冷える。
ついに来たのだ…
最初の大災害が。
この世界を知る者なら、決して軽く見られない敵。
都市を破壊し、作品を知ったものに「この世界はこういう場所なのだ」と突きつける存在。
ヒーロー協会ができてから、いつか必ず現れると警戒していた災害。
少女の指が、木刀の柄を強く握りしめる。
手のひらに汗が滲んだ。
「……来た」
『緊急出動要請』
機械音声が待機場に響く。
『待機中のヒーローは、管制室からの指示を確認してください』
赤い警告灯が回り始めた。
職員たちの動きが一気に慌ただしくなる。通信室の方から声が飛び、端末を操作する音が重なった。誰かが状況確認を叫び、誰かが近隣ヒーローの位置情報を読み上げる。
少女は息を詰めたまま、モニターを見つめていた。
画面が切り替わる。
そこに映ったのは、黒煙を上げる都市だった。
高層ビルの中腹が爆発で抉れている。道路には車が乗り捨てられ、人々が逃げ惑っていた。治安部隊らしき装甲車が炎を噴き、盾を構えた隊員たちが負傷者を引きずりながら後退している。
少女の眉が、わずかに寄った。
想像していたものと違う。
あの怪人ではない…代わりに映っていたのは、道路を進む戦車だった。
その後ろに装甲車が続き、同じ装備に身を固めた兵士たちが街路へ展開している。
少女の喉が鳴る。
「……怪人、じゃない……?」
男は答えなかった。
モニターに流れる報告を読む。
L市中心部にて大規模爆発発生
市街地外縁部より武装勢力侵入
都市治安部隊、交戦中
災害レベル測定中
男の片目が細くなる。
(妙だな……)
画面の中では、装甲車が交差点を塞ぎ、兵士たちが逃げる人々を押し退けるように前進していた。治安部隊が撃ち返しているが、火力で押されているようだ。
現に、ビルの陰から火線が走り、道路脇の車両が爆発している。
これは、いつもの怪人災害ではない。
(原作に軍隊…いや、純粋な人間の集団が街を襲う展開なんて、なかったはず……)
男は無言のまま、ゆっくりと立ち上がった。
少女はまだモニターから目を離せない。
彼らの予想は、完全に裏切られていた。
「どういうことですか……?」
少女の声には、戸惑いが滲んでいた。
「分からない」
男は短く答えた。
「でも、少なくとも俺たちが警戒していた相手じゃない」
「展開が変わった……?」
「その可能性もあるね。描かれていなかっただけか、俺たちがいることで流れがズレたか。あるいは……」
男はそこで言葉を切った。
考え込むには、状況が動きすぎている。
モニターの映像が切り替わった。
その空を、何かが横切った。
ほんの一瞬だった。
黒煙の中を、人影のようなものが飛んだように見えた。輪郭は煙と爆炎で潰れている。顔も服装も分からない。ただ、人の形をした何かが、燃えるビルへ向かって飛んでいった。
(ッ、今のは……誰かが戦っている?)
男は画面を凝視した。
映像はすぐに別角度へ切り替わり、その人影は見えなくなった。代わりに映ったのは、炎上する装甲車と、後退する治安部隊、そして黒煙の奥から進む戦車の隊列だった。
男は近くにいた協会職員へ視線を向ける。
「今、現場で対応しているヒーローは?」
職員は端末を確認し、すぐに首を振った。
「いえ……まだヒーローは現着していません」
「一人も?」
「はい。突然の侵攻で、事前察知ができず…。付近の巡回ヒーローにも出動要請は出していますが、市街地への到着にはまだ時間が掛かるはずです」
少女の表情が強張る。
「では、今の人影は……?」
職員は言い淀んだ。
「ただ……現場からは、超能力者のような者が武装集団と戦っているとの報告が入っています」
「超能力者?」
「はい。燃えるビルから市民を救出し、その後、敵車両部隊と交戦している模様です。ですが、協会登録情報には該当者がいません。現場映像も不鮮明で、容姿の特定はできていない状況です…」
ただの一般人ではない。
ヒーロー協会に登録していない強者。あるいは、この世界に紛れ込んだ別の誰か。
(転生者……?)
可能性としては、十分にある。
この世界には、すでに『ここ世界』を知る者たちがいる。自分たちもそうだ。ならば、同じように別の能力を持って現れた者が現場に偶然居合わせたとしても不思議ではない。
だが、それが何者であれ。
今、災害の中心にいる。
しかも、戦車と装甲車を伴う武装集団の前に。
(どちらにせよ、不運だな……)
男は胸の内で呟いた。
本人が望んだ戦いかどうかは分からない。
それがヒーローであれ、転生者であれ、ただの異常な力を持った誰かであれ、状況としては最悪に近い。
その時、モニター上の「測定中」の文字が赤く点滅した。
『災害レベルが更新されました――』
待機場の全員が、画面を見る。
数秒の沈黙。
赤い文字が浮かび上がる。
『現在発生中の災害レベルは、『鬼』です』
少女の顔が強張った。
「鬼……」
職員の声も、わずかに震えていた。
「…L市支部からです。敵部隊は中央通りを突破しつつあり、協会支部方面へ攻撃が波及する可能性がある、とのことです。市民の避難完了まで時間が必要です」
男は静かに息を吐いた。
「…厄介だね。全く」
少女は木刀を握り直した。
先ほどまでの不安は消えていない。
だが、今はそれよりも前に出るべき理由があった。
「行きましょう!」
少女の声は、迷いを断ち切るように響いた。
男は軽く肩を回す。
職員は姿勢を正した。
「輸送ヘリを準備しています。ただし、L市上空にはすでに敵航空戦力および対空火器が展開している可能性があります。中心部への直接接近は危険です。ですので外縁で降下後、地上から支援をお願いします!」
「了解」
男は頷いた。
少女も短く頷く。
『A級ヒーロー《コピー忍者》、A級ヒーロー《半霊剣士》――出動をお願いします』
赤い警告灯が回る中、二人は待機場を出た。
ーー
悟空が中央通りに着いた時、そこはもうかつて見た街の姿ではなかった。
高いビルの腹が破れ、そこから黒い煙が噴き出している。
炎は窓の奥で揺れ、時々、何かが崩れる音がした。道路には車が斜めに止まり、歩道には鞄や靴が散らばっている。
人の悲鳴と誰かの名前を呼ぶ声がまばらに聞こえる。
警報の声が上から降ってきているのに、その声だけが妙に遠く聞こえた。
『緊急避難警報が発令されました。市民の皆様は、直ちに最寄りの避難施設、または地下避難区画へ移動してください』
悟空は空中で一瞬、止まった。
「…これは…」
口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
さっきまで、ここには普通の街があった。人が歩いて、車が走って、少なくとも…見える範囲では人々が笑い合っていた世界だった
ーーそれが、今は燃えている。
悟空は歯を食いしばった。
その時、煙の奥から声がした。
「たす……け……」
悟空は顔を上げた。
「あっちか!」
考えるより先に身体が動いた。割れた窓へ飛び込み、煙の中に入る。熱が顔を叩いた。
「おい!誰かいるか!」
返事は、咳だけだ。
倒れた棚の下に男が挟まれていた。近くでは女が机の陰でうずくまっている。
二人とも顔が煤で汚れており、煙の影響か、意識も朦朧としている。
「大丈夫だ!すぐ出す!」
悟空は棚を掴んだ。
力を入れれば持ち上がる。そんなことは分かっていた。
だが、雑に動かせば男の足を潰すかもしれない。周りの瓦礫が崩れるかもしれない。
悟空は息を止めるようにして、ゆっくり力を込めた。
「う……」
「もうちょいだ。動くなよ」
男の足が抜けた。
悟空は男を抱え上げ、それから女の方へ手を伸ばした。
「立てるか?」
「足が……」
「じゃあ、つかまれ」
女を支え、男を抱えたまま、悟空は窓際へ戻った。外では救急隊員らしき人たちが叫んでいる。
「上だッ!上に人がいるぞ!」
「担架を持ってこい!」
悟空が窓枠に足をかけると、女が青ざめた。
「ま、待って……ここ、六階ーー」
「大丈夫だ!」
悟空は飛んだ。
女が悲鳴を上げた。
悟空の身体は空中に浮き、ゆっくりと地面へ降りていく。
下にいた隊員たちは、口を開けたまま見上げていた。
「飛んでる……」
「ヒーローか?!」
「怪我人だ!頼む!」
悟空は男を地面に寝かせた。
隊員たちが駆け寄る。だが、救助した1人の男の様子がおかしい。
さっきまで呻いていたのに、今はぐったりしており、胸の動きが小さくなっている。
「おい!」
悟空は膝をついた。
「おい、しっかりしろ!」
「下がってください!こちらで処置をーー」
隊員が言いかけた時、悟空は男の胸に手を置いていた。
理由は分からない。
ただ、男の中の何かが、弱くなっている。
そう感じたのだ。
息や脈とは違う。もっと奥の方にある、命の火みたいなもの。それが今にも消えそうになっている。
悟空は自分の手を見た。
自分の中にも、同じような熱がある。
稽古の時に感じていた力。空を飛ぶ時に身体を支えていた力。拳を握る時、腹の奥から湧いてくる力。
それを、少しだけ手のひらへ集める。
消えそうな火に、そっと息を吹きかけるみたいに。
「戻ってこい……」
悟空の手の下で、男の胸がわずかに動いた。
次の瞬間、男が激しく咳き込んだ。
「げほっ、げほっ!」
「おお!呼吸が戻った!」
「酸素!早くッ!」
隊員たちが慌ただしく動き出す。
悟空は、自分の手を見つめた。
「……できた」
小さく呟く。
今、自分は何をしたのか。
よく分からない。
でも、確かに分かったことがある。
この力は、誰かを助けるためにも使えるのだと。
自身の力に驚く暇もなく、すぐに別の声が聞こえてくる。
「助けて!」
悟空は顔を上げた。
燃える階のさらに上。窓際に、まだ人がいる。煙に巻かれて、下りられないのだ。
悟空は立ち上がった。
「君、危険だ!これ以上は――」
「分かってる!」
振り返らずに答えた。
悟空はまた飛んだ。
何度もビルの中へ入り…
子供を抱えた女を運んだ。足を痛めた老人を背負った。煙を吸って意識が薄くなった子供の胸に手を当て、ほんの少しだけ気を流した。
助けられている。
けれど、全部ではない。
その事実が、悟空の胸をじりじりと焼いていた。
最後の一人を地上へ下ろした時、悟空は遠くから近づいてくる音に気づいた。
何か踏み潰すような音だった。
黒煙の向こうから、鉄の塊が進んでくる。
戦車。装甲車。銃を構えた兵士たち。
(あいつらだ…)
このビルを壊したのも…
人がいる場所へ、あの白い煙を引くモノを撃ち込んだのも…
この街の人たちを、泣かせたのも…
悟空はゆっくり前へ出た。
背後には、まだ助けたばかりの人たちがいる。
さっき息を吹き返した男がいる。
泣きながら子供を抱く母親がいる。
ここを通せば、また誰かが傷き、また誰かが泣く。
手のひらには、まだ人を助けた時の温かさが残っていた。
だからこそ、怒りが湧いた。
「……おめえらか」
黒煙の中、戦車の砲身と兵士たちの銃口が市民たちに向けられる。
「この先には、行かせねえ!」
警報が鳴り続ける中央通りで、山吹色の青年は、初めて『敵』の前に立ったのだ。