児童保護局2060 すべての子どもにしあわせを 作:馬門戒明/輪島ライ
「児童保護局の英雄、新谷淳平君は偶然遭遇したバスジャック犯に勇敢にも立ち向かい、殉職しました。彼がバスを徐行させたことでテロリストが画策した交通事故は防がれ、彼を殺害したテロリストは乗客たちにより取り押さえられ全員が逮捕されました。私たちは彼の魂が安らかに天に召されることを祈り、そして彼の遺志を継いでこれからも子どもたちを守るために戦います。皆様、改めて
児童保護施設にいた頃からの親友だった新谷は、俺の職場の病院を訪れた帰りにテロリストと戦い殉職した。
俺は新谷が死んだことをその日のニュースで知り、翌日には警察から事情聴取を受けた。
あの時新谷に伝えたことは守秘義務の観点から一切警察に話さなかったが、彼の妻には電話で伝えた。
今の俺は足立区児童保護局で開かれた追悼式典に出席していて、お腹に彼の子どもを宿した新谷の妻は涙を見せず式典に参列していた。
式典が終わると俺は自分の車に彼女を乗せ、そのまま職場の病院へと連れていった。
新谷も彼女も天涯孤独の身だから、俺の考えを事前に相談する相手はいなかった。
新谷の妻を診察室へと案内すると、俺は涙が吹き出そうになるのをこらえながらあの時新谷に見せた染色体検査と遺伝子検査の結果を電子カルテの画面上に表示した。
「奥さん、まず私はあなたに謝罪しなければならない。私が新谷に事実を一気に伝えてしまったから、彼はあの日危険を顧みずテロリストに立ち向かってしまったのかも知れません。親友である以前に医師として患者への配慮に欠けていました」
「いえ、そんなことはありません。あの人は勇敢な男性でしたから、たとえ何も聞いていなくても自らテロリストに抵抗したでしょう」
新谷の妻は迷いのない口調でそう言い、俺はその言葉で少し救われたようにも取り返しのつかないことをしてしまったようにも感じた。
「今からお伝えすることは新谷にも日を改めて伝えるつもりでした。まずは奥さんに事実を伝えてもらって、移住先を提案した上で夫婦揃って話を聞いてもらうつもりだったのです。これが、その資料です」
「遺伝子操作療法の治験……ですか?」
彼女に手渡したのは北欧の医学研究機関で実施されている治験の案内で、俺は英語版しかないこのパンフレットを独自に日本語に訳していた。
「この研究施設では最先端の技術を駆使し、あらゆる重篤な遺伝疾患を後天的に治療することを目指しています。既に患者数の多い一部の遺伝疾患についてはこの治療法が適用となっていますが、Y染色体遺伝疾患は珍しいため症例が不足しているのです。この施設の治験に参加すれば治療法の発展に貢献することができ、自らの疾患を治療できる可能性さえありますが、確立されていない遺伝子操作療法では少なからぬ頻度で副作用が生じて死に至ることもあります。その上で、新谷に治験を受けるかを考えてほしいと思っていました」
俺の説明を聞き、新谷の妻は治験の説明文にじっくりと目を通していた。
「この施設がある国に移住すれば生まれてくるご子息は治験を受けられるのみならず、不妊手術を受けさせられずに済みます。どうか母体が安定している間に移住をお考えになりませんか」
「ありがとうございます。高崎先生が主人と子どものことを心から考えてくださっていたことが、とてもよく分かりました」
新谷の妻はそう言うと、資料を持参したバッグへと片付けた。
「先生のお話を聞いて、移住をして子どもに治験を受けさせることを前向きに考えてみたいと思います。……ですけど、その決定は子どもが生まれて成人するまで待とうと思います。だって、子どもが副作用で死んでしまうかも知れないのに母親が勝手に治験に同意する訳にはいかないでしょう?」
「ええ、それはもっともです。しかし今のこの国では、ご子息は不妊手術を受けさせられる可能性が高いのですよ」
「それならそれで、私は子どもが将来治験を受けるかも知れないことをこの国に伝えて、堂々と不妊手術を受けさせないでくださいと要求します。この国は今おかしな方向に向かっていますけど、それでも民主主義の国には変わりありませんから。……主人が生きていても、私と同じ決断をしたと思います」
力強くそう言った新谷の妻に、俺は黙って頷いた。
移住や治験に際して受けられる経済的支援についてのパンフレットを追加で渡すと、俺はタクシーに乗って帰宅する新谷の妻を車が見えなくなるまで見送った。
児童保護局の英雄であり、そして俺の唯一無二の親友だった新谷淳平は死んだ。
それでも、恵まれない子どもたちを命がけで守り続けようとした、彼の意志はこの国で生きている。
(完)