現代ダンジョンで成り上がり! 作:ダンジョン厨
第一話 未発現者
灰色の床には強化樹脂のラインが引かれ、壁面には衝撃吸収材が何層にも貼られている。天井付近を走るレールには自動標的機が吊られ、訓練用の魔物模型が時折、短い警告音とともに姿勢を変えた。地上では通勤電車が走り始める時間帯だが、この地下では、今日も誰かが人間をやめるための訓練をしている。
身長は平均より少し高い。鍛えてはいるが、上級探索者のような獣じみた圧はない。黒い訓練着の袖を肘までまくり、汗で額に張り付いた髪を雑に払いながら、晴人は右手に魔力を集めていた。
魔力*1と呼ばれるそれは、二十年前の落門現象以降、地球上に流入した外宇宙由来の異常物質だった。
普通の人間にとっては毒に近い。濃度が高ければ頭痛、吐き気、幻覚、神経障害を起こす。だが、ごく一部の人間はそれを体内で循環させられる。筋肉に通せば筋力が上がり、神経に通せば反応速度が跳ね、皮膚と骨に馴染ませれば、人間の身体は魔物の爪にも耐える。
そういう者たちが、
「よし……もう一回」
晴人は息を吐き、右手に集めた魔力を肩、胸、背骨、腰、脚へと流そうとした。
瞬間、ばちん、と手首の内側で小さな火花が散った。魔力の流れが乱れ、筋肉が痙攣する。晴人は顔をしかめたが、手を振って痛みを逃がすだけで、すぐに姿勢を戻した。
「今の、ちょっと良かったんじゃないか。最後の最後で暴れたけど、膝までは通ったし」
誰に言うでもなく、晴人は明るく呟いた。
実際、良くはなかった。基礎身体強化の循環試験なら、今のは不合格だ。魔力を全身に均一に回すどころか、右肩から胸へ移す段階で三割近くが霧散している。脚に届いた量は微々たるもので、実戦なら踏み込み一つで体勢を崩す。
だが、昨日よりは長く保った。
だから晴人にとっては、十分に前進だった。
「朝から元気だねえ、未発現くん」
背後から声がした。
振り返ると、同じ訓練着を着た青年が、スポーツドリンク片手に笑っていた。名は
「おはよう、久我。今日も早いな」
「お前に言われたくないんだけど。俺が来た時には、もう汗だくだったぞ」
「いやあ、昨日の循環試験、また落ちたからさ。そろそろ試験官の人に顔を覚えられそうで」
「もう覚えられてるだろ。悪い意味で」
「だよなあ」
晴人は笑った。
久我は呆れたように肩をすくめる。悪意のある言い方ではない。少なくとも、晴人はそう受け取っていた。
探索者には、大きく分けて二つの力がある。
一つは、魔力操作による基礎身体強化。これは探索者ならほとんどが扱える。筋力、耐久、反射、感覚、回復力を底上げする、戦闘の土台だ。
もう一つは、固有発現。炎を操る、影に潜る、傷を癒やす、武器を生成する、魔物の気配を読む。形は人によって違うが、探索者として名を上げる者は、大抵この固有発現を持っている。
晴人には、それがなかった。
魔力操作はできる。門内環境への適応もある。だから探索者登録は通った。だが、固有発現は一向に起きない。身体強化も平均以下。協会の評価端末に表示される晴人の適性欄には、いつも同じ文字が並んでいた。
未発現。
つまり、まだ何者にもなれていない探索者。
「で、今日はどうするんだよ。午前の座学、出るんだろ」
「その前に、支部から声が掛かってる。低等級門の攻略補助。荷物持ちと記録係だけど」
「門? お前が?」
「お前がって言い方、傷つくなあ」
「いや、悪い。けど、まだ実地は早くないか。固有なしで門に入るの、普通に危ないぞ」
久我の声には、珍しく軽さがなかった。
晴人は少しだけ目を伏せ、それから笑った。
「危ないのは分かってる。でも、実地記録を積まないと等級上がらないだろ。俺、いつまでも訓練場の床と友達でいるわけにもいかないし」
「それはそうだけどさ」
「大丈夫だって。D級門だよ。しかも攻略済みルートの再調査。俺は前衛じゃないし、魔力灯と測定器を持って後ろを歩くだけ」
「その“だけ”で死ぬ奴がいるから、門災って呼ばれてるんだろ」
久我の言葉は正しい。
門災*2。宇宙から飛来した門状構造体が地上に定着し、その内部に異常空間、通称ダンジョンを展開する現象。門を放置すれば、やがて内部の魔物が外界へ溢れ出す。溢出事象*3が起きれば、被害は住宅地一つで済まないこともある。
だから
門核*4を破壊、封印、あるいは回収し、門を閉じるために。
「ありがとな、心配してくれて」
「別に心配じゃねえよ。同期が死ぬと、空気が悪くなるだろ」
「それ、心配って言うんだぞ」
「うるせえ」
久我は視線を逸らし、スポーツドリンクを飲んだ。
晴人は笑って、訓練場の壁際に置いていた安物の星骸短刀を拾い上げた。刃渡りは短く、魔力伝導率も高くない。協会の支給品よりは少し良い、程度の武器だ。けれど晴人にとっては、初めて自分の給料で買った探索者用の武器だった。
柄を握り、魔力を薄く流す。刃の表面に、淡い青白い線が走った。
それだけで、少しだけ胸が高鳴る。
(よし。今日も動く。なら、やれる)
晴人は武器を鞘に戻し、訓練場の出口へ向かった。
協会支部の地上階へ上がると、そこには探索者たちの朝があった。
受付前には装備ケースを持ったパーティが並び、掲示モニターには新規落門情報、門圧*5濃度、攻略依頼、素材買い取り価格が流れている。カフェスペースでは、徹夜明けらしい中年探索者が栄養ゼリーを片手に眠りかけていた。装備点検窓口では、弓型の星骸兵装を抱えた女性が、鑑定士に向かって早口で文句を言っている。
ここは、災害対策機関であり、職業斡旋所であり、武器市場であり、命の売買所でもあった。
晴人は受付で認証を済ませ、集合場所に向かった。
今日の任務は、千葉県北西部に発生したD級門の再調査。すでに一次攻略隊が浅層の安全を確認しており、今回の目的は未回収素材の採取、地図情報の補完、門核反応の再測定だった。
危険度は低い。
少なくとも、書類上は。
「榊晴人、来ました」
待機室に入ると、三人の探索者がすでに装備を整えていた。
一人はリーダー役の女性探索者、
二人目は、槍を持った青年、
三人目は、小柄な感知役の少女、
そして、四人目が晴人。
役割は、記録係兼補助。
「時間通りね。偉いじゃない」
朝比奈が顔を上げた。
「遅刻したら、探索者以前に社会人として終わりかなって」
「その意識だけは高評価」
「だけは、って相変わらず辛口ですね」
「実力はこれからでしょ。荷物、持てる?」
「持てます。魔力灯、測定器、予備バッテリー、応急キット、簡易ビーコン、全部確認済みです」
「よろしい」
朝比奈は短く頷いた。
三枝は晴人を一瞥し、少しだけ眉を上げた。
「未発現って聞いてたけど、本当に入るんだな」
「はい。足を引っ張らないようにします」
「そういう意味じゃない。怖くないのかって話」
「怖いですよ」
晴人は即答した。
三枝が意外そうに目を細める。
「でも、怖くなくなるまで待ってたら、多分一生入れないので」
その答えに、朝比奈が小さく笑った。
「いいじゃない。怖いって言える新人は長生きするわ」
「褒められたので、今日はもう勝ちでいいですか」
「門核を測って帰るまでが任務」
「ですよね」
晴人は苦笑しながら、装備ケースを背負った。
移動車両の窓から見える街は、あまりにも普通だった。
コンビニの前で学生が自転車を止めている。歩道では会社員がスマートフォンを見ながら信号を待っている。公園では老人が犬を散歩させている。二十年前、宇宙から門が降ってきて、世界中にダンジョンが開き、魔物が人を襲うようになった。それでも人間は、朝になれば出勤し、昼になれば弁当を買い、夜になれば家に帰る。
その普通を守るために、探索者は門へ入る。
晴人は窓に映る自分の顔を見た。
緊張している。けれど、目は死んでいない。
(大丈夫。やれることをやる。俺にできることを、ちゃんとやる)
やがて車両は、封鎖区域に入った。
住宅地の一角に、巨大な黒い輪が突き刺さっていた。
門。
それは石でも金属でもなく、見る角度によって質感が変わる異様な構造体だった。表面には星図のような微細な光点が走り、輪の内側には、こちら側の景色とは違う暗い地下鉄駅のような空間が覗いている。
現実に穴が開いている。
晴人は、いつもそう感じる。
現場の協会職員が手続きを進め、朝比奈が最終確認を行った。門圧濃度はD級範囲内。溢出兆候なし。門核反応は微弱。内部地形は一次攻略時と大きな変化なし。
安全。
そう言われても、晴人の手のひらには汗が滲んでいた。
「榊」
朝比奈が言った。
「はい」
「怖いなら、今からでも下がれるよ」
晴人は少し驚いた。
けれどすぐに、首を横に振った。
「行きます」
「理由は?」
「俺、探索者になりたいので」
「もう登録はされてるでしょ」
「登録されてるだけじゃなくて、ちゃんと探索者になりたいんです」
朝比奈は数秒、晴人を見た。
それから口元だけで笑う。
「なら、後ろについてきなさい。勝手に死なないこと。勝手に突っ込まないこと。勝手に諦めないこと」
「了解です」
晴人は大きく息を吸った。
そして、門を越えた。
足裏に伝わる感触が変わる。
アスファルトではない。冷えたタイル。空気は湿っていて、錆と埃と、わずかに甘い腐敗臭が混じっている。天井には蛍光灯に似た発光体が並んでいるが、電線はない。壁面の駅名標には、日本語に似ているのに読めない文字が滲んでいた。
ダンジョン内部。
未知に包まれた、宇宙由来の異常領域。
「隊列確認。前衛、三枝。中央、御影。後衛、榊。私は遊撃。御影、感知」
「はい。正面二十メートル、低級反応二。たぶん鼠型です」
「三枝」
「了解」
三枝が槍を構え、足元に魔力を通した。床が小さく鳴る。次の瞬間、彼の身体が前へ跳んだ。
速い。
晴人の目では、追いきれない。
暗がりから飛び出した二体の魔物は、大型犬ほどの大きさの鼠だった。だが、背中には鉱石のような棘が生え、口は顔の半分まで裂けている。三枝の槍が一体目の頭を貫き、返す動きで二体目の胴を払った。
戦闘は、十秒も掛からなかった。
「すげえ……」
晴人は思わず呟いた。
三枝が振り返る。
「D級の鼠だぞ。これくらいできないと話にならない」
「いや、でもすごいです。踏み込み、全然ぶれてなかった」
「……見てたのか」
「見えたところだけですけど。足に魔力を集めるタイミング、めちゃくちゃ綺麗でした」
三枝は一瞬、言葉に詰まったようだった。
「変な奴だな、お前」
「よく言われます」
「褒めてない」
「ですよね」
晴人は笑い、測定器を起動した。
門圧、正常。星骸質濃度、D級範囲。魔物死骸の反応、低。通路構造、一次地図と一致。
任務は順調だった。
少なくとも、最初の一時間は。
地下鉄駅に似た階層を進み、ホーム、連絡通路、改札跡のような広間を抜ける。低級魔物は数体出たが、朝比奈と三枝が問題なく処理し、御影の感知も安定していた。晴人は記録を取り、測定器を確認し、落ちていた星骸鉱の欠片を採取ケースに入れた。
自分にできる仕事を、一つずつ。
その積み重ねなら、晴人にもできる。
「榊、魔力灯を右に寄せて。影が濃い」
「了解です」
晴人は魔力灯の角度を変えた。
青白い光が壁面を撫でた瞬間、そこに奇妙な模様が浮かび上がった。
文字、ではない。回路にも見える。星図にも見える。黒い壁の奥に、淡い銀色の線が沈んでいる。
「朝比奈さん、これ」
「何?」
「壁に、何かあります。一次地図に記録、ありましたか?」
朝比奈が近づく。御影も眉をひそめた。
「……見えないけど」
「え?」
「ただの壁よ。御影、反応は?」
「ありません。魔物も、罠も、魔力溜まりも感知できません」
三枝が面倒そうに槍を肩に担いだ。
「光の加減じゃないのか」
「いや、でも」
晴人はもう一度、魔力灯を近づけた。
銀色の線が、確かに動いた。
ぞわり、と背筋が冷える。
それは壁に描かれているのではない。壁の奥から、こちらを見返すように発光していた。
「榊、下がりなさい」
朝比奈の声が鋭くなる。
晴人は反射的に後ろへ下がろうとした。
その瞬間、床が鳴った。
沈むのではない。崩れるのでもない。足元の空間が、薄い紙をめくるように反転した。
「榊!」
誰かが叫んだ。
晴人は手を伸ばした。朝比奈の腕がこちらへ伸びている。三枝が槍を捨てて踏み込む。御影の顔が恐怖に歪む。
けれど、届かない。
視界いっぱいに銀色の文字列が走った。
読めない。
理解できない。
それでも、それが自分を選んだのだと、なぜか分かった。
「っ、まだ――!」
晴人は叫ぼうとした。
だが声は、空間ごと断ち切られた。
次の瞬間、晴人は一人で落ちていた。
上下も、前後も分からない。暗闇の中を落下しているのに、風はない。身体の内側だけが引きずられるように痛む。血管の中で魔力が暴れ、骨の奥で火花が散る。
そして、叩きつけられた。
「が、はっ……!」
肺から空気が抜けた。
晴人は床を転がり、壁に背中を打ちつけて止まった。目の前が白く弾ける。右腕が痺れて動かない。額から流れた血が、片目に入る。
数秒、呼吸ができなかった。
やがて、喉がひゅっと鳴り、空気が戻る。
「……生き、てる」
自分の声が、信じられないくらい遠く聞こえた。
晴人は震える左手で、腰の端末を探った。
通信。圏外。帰還札。ひび割れている。簡易ビーコン。反応なし。魔力灯。消失。測定器。画面が割れて、黒い染みのようなノイズだけが蠢いている。
周囲は、駅ではなかった。
白い廊下だった。
壁も床も天井も、骨のように白い。継ぎ目はなく、光源もないのに、薄く発光している。遠くで、水滴のような音がした。だが水の匂いはない。代わりに、濃すぎる魔力が肺を焼くように入り込んできた。
D級門ではない。
こんな場所は、地図にない。
晴人は立ち上がろうとして、膝から崩れた。
身体強化を回そうとする。魔力が乱れ、胸の奥で弾ける。痛い。息が詰まる。それでも晴人は、歯を食いしばってもう一度試した。
(足は動く。腕も、右は微妙だけど、左は動く。短刀は……ある。よし。なら、まだ終わってない)
腰の星骸短刀を抜く。
手が震えていた。
怖い。
今まで感じたことのない恐怖だった。訓練場の模擬戦でも、低級魔物との遭遇でもない。自分がどこにいるのか分からない。誰も助けに来ない。帰る方法も分からない。その事実が、冷たい手で喉を掴んでくる。
白い廊下の奥で、何かが動いた。
濡れた肉を引きずるような音。
晴人は息を止めた。
現れたのは、人型に近い何かだった。腕が長い。頭がない。胸の中央に、縦に裂けた口がある。肋骨のようなものが外側に開き、その隙間から青黒い光が漏れている。
見ただけで分かった。
勝てない。
D級門の鼠とは違う。三枝が倒した魔物とはまるで違う。あれは、今の晴人が正面から戦っていい相手ではない。
魔物が、胸の口を開いた。
晴人は逃げた。
情けないほど必死に走った。足がもつれ、壁に肩をぶつけ、肺が焼け、右腕が悲鳴を上げる。それでも走った。後ろで白い床が砕ける音がする。魔物が追ってきている。
「くそ、くそっ、速いな!」
晴人は笑った。
笑うしかなかった。
角を曲がる。行き止まり。戻る。爪が頬を掠める。熱い血が飛ぶ。短刀を振る。弾かれる。手首が痺れる。相手の外皮には傷一つついていない。
(無理だ。勝てない。今の俺じゃ、絶対に勝てない)
分かっている。
だから、勝たなくていい。
生きればいい。
晴人は壊れた扉の隙間に身体を滑り込ませた。魔物の腕が追ってくる。白い爪が肩を裂いた。痛みで視界が跳ねる。晴人は叫びそうになる口を噛みしめ、短刀を扉の隙間に突き立てた。てこの要領で、崩れかけた金属板を落とす。
轟音。
魔物の腕が一瞬、瓦礫に挟まった。
晴人は転がるように奥へ逃げた。
そこは、小さな保守室のような場所だった。壁には読めない文字列が並び、中央には壊れた柱状の装置が立っている。逃げ道はない。背後では、魔物が瓦礫を砕いている。
晴人は壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返した。
魔力は残り少ない。短刀は欠けた。右腕は上がらない。足は震えている。頭も割れそうに痛い。
それでも、晴人は床に爪を立てた。
「まだ……死んでない」
声は震えていた。
だが、言葉は出た。
「まだ死んでないなら、終わりじゃない」
魔物が瓦礫を砕き、保守室の入口に立った。
胸の口が開く。
青黒い光が集まる。
晴人は短刀を握り直した。
勝てない。逃げ場もない。助けも来ない。
それでも、目だけは逸らさなかった。
その瞬間、視界の奥で、存在しない文字列が走った。
《登録外知性体を確認》
《生存確率、基準値未満》
《基礎魔力操作履歴を照合》
《継続意思を確認》
《例外処理を開始》
《ORIGIN://AUTHORITY を起動します》
世界が、静止した。
魔物の胸に集まる光が、線になって見えた。
床の亀裂が、逃げ道のように光った。
自分の心臓の鼓動が、数字のように脳裏へ刻まれた。
晴人は、何が起きたのか分からなかった。
だが、視界に一つの表示が浮かんでいた。
《推奨行動:左方へ半歩。姿勢を下げろ》
晴人は考えなかった。
左へ半歩ずれ、膝を落とした。
直後、青黒い光が頭上を通り過ぎ、背後の壁を音もなく消し飛ばした。
白い壁の向こうに、通路が開く。
晴人は目を見開いた。
まだ、帰れる。
その可能性だけが、暗闇の中で眩しく光っていた。
キリがいい所まで連続投稿です。