現代ダンジョンで成り上がり! 作:ダンジョン厨
ひび割れた扉の向こうは、細い回廊だった。
白い壁は相変わらず骨のように滑らかで、触れると石でも金属でもない妙な冷たさが指先に残る。床には薄い溝が何本も走り、その奥を青白い光が血管のように流れていた。天井は低い。ところどころで壁面が剥がれ、内部の黒い構造材が露出している。その黒は、ただ暗いのではなく、見つめていると目の焦点が合わなくなるような黒だった。
晴人は短刀を右手に握り、左手で壁に触れながら進んでいた。
右肩の傷は応急処置で塞いだが、動かすたびに熱い痛みが走る。足も重い。魔力を回そうとすれば、全身の内側で細い針が暴れるような感覚があった。けれど、止まるわけにはいかなかった。
背後の機械室に長く留まれば、青白い霧に身体をやられる。前に進めば、次の魔物に遭遇するかもしれない。どちらにしても安全な選択肢はない。
なら、少しでも生き残る確率が高い方を選ぶしかなかった。
《現在状態:負傷/魔力残量低下/疲労蓄積》
《推奨:戦闘回避》
《推奨:休息可能地点の探索》
視界の端に浮かぶ文字列は、さっきから淡々としている。晴人が痛がっても、怖がっても、泣きそうになっても、表示は変わらない。ただ、生き残るために必要な情報だけを提示してくる。
その冷たさが、逆にありがたかった。
励まされても困る。大丈夫だと言われても信じられない。けれど、右へ進めば危ないとか、足元が崩れるとか、魔物が近いとか、そういう情報なら信じられる。
「ええと……確認って、できるのか?」
晴人は小さく呟いた。
返答はない。けれど、意識を視界の文字へ向けると、表示が切り替わった。
《榊晴人》
《Level:2》
《Authority Depth:0.001%》
《状態:負傷》
《取得スキル:危険予測 Lv.1/環境利用 Lv.1/急所刺突 Lv.1》
《未解析項目:多数》
「本当にレベル上がってる……」
晴人は思わず苦笑した。
身体が急に軽くなったわけではない。力が湧いてくるわけでもない。傷が塞がるわけでもない。さっきより少しだけ、魔力の流れが分かりやすくなった気はするが、それがレベルの効果なのか、死にかけたせいで感覚が尖っているだけなのかは判断できなかった。
ただ、スキルの効果は分かる。
通路の先、左側の壁に赤い薄線が走った。
《危険予測:微弱反応》
晴人は足を止めた。
何も見えない。音もしない。だが、赤い線は壁の向こうをゆっくり移動している。
魔物か。罠か。それとも、この階層そのものの異常か。
晴人は呼吸を浅くし、短刀を構えた。戦うつもりはない。戦えば死ぬ。さっき勝てたのは、運と地形と、この妙な表示が噛み合っただけだ。次も同じことができる保証はどこにもない。
赤い線が近づく。
壁の奥で、かり、かり、と細い音がした。
(壁の中を通ってる……?)
晴人は一歩下がった。
その瞬間、白い壁の一部が花びらのように開いた。中から飛び出してきたのは、蛇に似た魔物だった。だが鱗はなく、全身が濡れた黒いケーブルの束でできている。先端には小さな口があり、針のような歯が並んでいた。
《敵性個体:名称未登録》
《危険度:低》
《推奨:回避後、接合部を切断》
「低でこれかよ!」
晴人は横へ転がった。
蛇型の魔物が、さっきまで晴人の首があった場所を貫く。壁に突き刺さった先端が震え、黒いケーブルの身体が波打った。
晴人は立ち上がるより早く、膝立ちのまま短刀を振った。狙ったのは頭ではなく、壁から伸びている根元。表示が黄色く点滅している。
刃が通る。
蛇型の魔物はびくりと跳ね、床に落ちた。まだ動いている。晴人は二度目を振る。今度は胴体中央の光点。短刀が食い込み、黒い身体が青白い粒子になってほどけた。
《敵性個体の沈黙を確認》
《急所刺突 Lv.1:熟練度上昇》
晴人は荒く息を吐いた。
強くなった、とは思えなかった。
ただ、見えるようになった。
どこを避ければいいのか。どこを切ればいいのか。どこで立ち止まれば死ぬのか。今まで霧の中にあったものが、輪郭だけを持ちはじめている。
それは強さではなく、生き延びるための標だった。
「ありがたいけど……心臓に悪いな、これ」
晴人は床に落ちた魔物の残骸を見下ろした。
黒いケーブルの束は、完全には消えていない。中心部に小さな結晶のようなものが残っている。拾うべきか迷った瞬間、表示が出た。
《回収可能素材:低純度星骸結晶》
《用途:魔力補給材/簡易修復材》
《推奨:回収》
「素材まで分かるのか。便利だな、本当に」
晴人は採取ケースを開けようとして、ケースが割れていることを思い出した。仕方なく、応急キットの空袋に結晶を入れる。協会に持ち帰れば、低級素材でも買い取ってもらえる。普段ならそう考えて少し嬉しくなるところだが、今は金額よりも用途の方が重要だった。
魔力補給材。
表示によれば、これを砕いて少量の魔力を通せば、内部の星骸質を吸収できるらしい。ただし、精製されていないため負荷が大きいとも出ている。
「……非常食みたいなものか。できれば食べたくないやつ」
晴人は空袋をポーチへ押し込み、先へ進んだ。
回廊は何度も折れ曲がり、時折、まったく同じ景色の場所に戻ってきたような錯覚を覚えた。白い壁。青白い溝。黒い構造材。読めない文字列。方向感覚はすぐに役に立たなくなる。
けれど、このゲーム画面のようなシステムメッセージは迷わなかった。
《経路記録中》
《現在地推定:未登録階層・外周保守区画》
《門核反応:遠方》
《休息可能候補:前方八十四メートル》
外周保守区画。
その言葉に、晴人は眉を寄せた。
「保守ってことは……ここ、やっぱり施設なのか?」
ダンジョンは異界だと教わってきた。
門の向こうに広がる、地球とは異なる環境。魔物が発生し、素材が採れ、最奥に門核がある危険領域。協会の教本にはそう書かれている。だが、この場所は森でも洞窟でも廃駅でもなかった。明らかに何かの目的を持って造られた構造物に見える。
晴人は、壁面に走る読めない文字へ視線を向けた。
近づくと、表示が乱れた。
《■■■■■■■■》
《管理記録:破損》
《権限不足》
《権限不足》
《権限不足》
視界の奥に、ざらつくようなノイズが走る。
頭痛がした。
「分かった。読まない。今は読まないから、落ち着け」
誰に言っているのか分からないまま、晴人は壁から離れた。表示の乱れが収まる。まだ見てはいけないものを覗き込んだような、嫌な汗が背中を伝っていた。
何もかも分からない。
けれど、分からないものを全部抱え込めるほど、今の晴人には余裕がない。
今は、帰ることだけ考える。
そう決めて歩き続けると、やがて回廊の先に広い部屋が見えた。
そこは、倉庫のような場所だった。
壁一面に六角形の収納区画が並び、そのほとんどは破損している。床には砕けた白い殻と、黒い金属片が散らばっていた。中央には低い台座があり、その周囲だけが薄い光に包まれている。
《休息可能候補に到達》
《敵性反応:現時点では検出されず》
《環境危険度:低》
晴人は慎重に部屋へ入った。
安全、と表示されても完全には信じない。入口の左右を確認し、天井を見上げ、床の溝を避けながら進む。協会の基礎講習で叩き込まれた手順だ。未発現者でも、落ちこぼれでも、覚えていることはある。
台座のそばに腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けた。
「……ああ、やっばい。座ると立てなくなるやつだ」
そう言いながらも、晴人はしばらく動けなかった。
応急キットを開き、肩の止血をやり直す。頬の傷も塞ぐ。右腕の打撲には冷却パッチを貼った。どれも探索者用の安物だが、ないよりは遥かにいい。
次に、ポーチからさっきの低純度星骸結晶を取り出した。
《低純度星骸結晶》
《処理方法:粉砕後、微量魔力を通して吸収》
《警告:未精製素材による汚染リスクあり》
「汚染リスクあり、ね。今の俺に選べるほど贅沢なメニューはないんだよな」
晴人は小型ピックで結晶を砕き、掌に乗せた。青白い粉が皮膚に触れるだけで、ぴりぴりと痺れる。そこへ慎重に魔力を通す。
瞬間、手のひらから冷たい火が入ってきた。
「っ、ぐ……!」
喉の奥が苦くなる。胃がひっくり返りそうだった。だが、魔力の底がわずかに満ちる感覚もある。泥水を飲んで喉の渇きを誤魔化すような、不快で乱暴な補給だった。
《魔力残量:微量回復》
《魔力節約系統の取得条件進行中》
「魔力節約……まだ取れてなかったのか」
晴人は息を整えながら呟いた。
取得条件進行中、ということは、この状況で魔力を切らさずに生き延び続ければ、いずれスキルとして固まるのかもしれない。
死にかけるほど成長する。
そう考えると、あまり笑えなかった。
しばらく休んだあと、晴人は部屋の中を調べはじめた。収納区画のほとんどは空だったが、いくつかには黒い破片や、用途不明の部品が残っている。触れるたびに《破損》《用途不明》《権限不足》と表示された。
そして、奥の収納区画で、晴人はそれを見つけた。
最初は、ただの柄に見えた。
長さは三十センチほど。剣の柄に近いが、鍔はない。黒い。だが露出した構造材と同じく、ただ暗いのではなく、光を吸っているような黒だった。刃は存在しない。壊れた武器の残骸か、何かの工具の持ち手にしか見えない。
けれど、晴人が近づいた瞬間、視界が大きく揺れた。
《Origin Relic detected》
《識別名:NULL/BLADE》
《状態:休眠》
《起動権限:不足》
《限定起動:条件付きで可能》
《警告:使用者の魔力循環に逆流負荷》
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
「……ヌル、ブレード?」
晴人は、黒い柄へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、冷たいものが腕を這い上がってきた。魔力ではない。だが、魔力に似ている。もっと古く、もっと無機質で、もっと深い場所から届く何かだった。
視界に、また文字が走る。
《登録外個体による接触を確認》
《正規認証:失敗》
《代替認証:ORIGIN://AUTHORITY》
《限定使用者として仮登録》
《使用条件:対象構造の観測/接続線の露出/魔力供給》
《警告:連続使用は推奨されません》
晴人は黒い柄を持ち上げた。
重さはほとんどない。むしろ軽すぎて不気味だった。握り込んでも、刃は出ない。魔力を通してみる。反応はない。もう少し強く流すと、手首の内側に鋭い痛みが走った。
「いっ……!」
《警告:通常魔力供給では起動不可》
《推奨:使用を控える》
「拾わせといて、使うなって言うのか」
晴人は顔をしかめたが、柄を手放す気にはなれなかった。
これが何なのかは分からない。けれど、さっきまでの表示とは明らかに違う。星骸兵装*1。原典遺物*2。協会の座学で聞いたことだけはある。門内で稀に発見される、現代技術では再現不能の武装や装置。ほとんどは使用条件不明で、見つかれば協会が即座に回収する危険物。
そんなものが、今、自分の手の中にある。
晴人は乾いた笑いを漏らした。
「未発現者が初任務で原典遺物拾うとか、報告書に書いたら絶対怒られるやつだな」
だが、怒られるためには帰らなければならない。
晴人は黒い柄を腰のベルトに差した。短刀はもう限界に近い。使えるか分からない武器でも、持っていないよりはましだった。
その時、部屋の入口側に赤い線が走った。
《危険予測:敵性反応》
《数:三》
《推奨:隠密》
「休憩終了、早すぎないか……?」
晴人は慌てて台座の陰へ身を滑り込ませた。
数秒後、入口から三体の魔物が入ってきた。
さっきの蛇型に似ているが、今度は人の腕ほどの太さがある。壁を這い、床を這い、空気の匂いを探るように先端を揺らしている。真正面から戦えば、今の晴人では厳しい。魔力も少ない。短刀も欠けている。
《敵性個体:名称未登録》
《危険度:低》
《推奨:戦闘回避》
晴人は息を殺した。
逃げ道は入口しかない。その入口を魔物が塞いでいる。戦闘回避と言われても、回避する場所がない。
蛇型の一体が、晴人の血の跡に反応した。
先端が床をなぞり、ゆっくりと台座へ近づいてくる。
(まずい)
短刀を握る。
鼓動が速くなる。
すると、腰に差した黒い柄が、わずかに震えた。
《NULL/BLADE》
《限定起動条件、一部充足》
《対象構造:単純接続体》
《接続線:観測可能》
《起動時間予測:0.8秒》
《反動:軽度》
晴人は目を見開いた。
蛇型の魔物の身体に、細い白線が見えた。頭部から胴体へ伸びる、一本の線。さっきの魔物にも似たようなものがあった。星骸質結合核。あるいは、魔物を魔物として繋ぎ止めている何か。
晴人は黒い柄を抜いた。
刃はない。
だが、握った瞬間、手の中に冷たい感触が走った。
魔物が台座を回り込む。
晴人は飛び出した。
短刀ではなく、黒い柄を振る。
その瞬間だけ、柄の先に黒い線が生まれた。
刃というには薄すぎる。光ではなく、むしろ空間に引かれた切れ目のようだった。それが蛇型の魔物の白線に触れる。
音はなかった。
魔物の身体が、二つに分かれた。
切った、というより、繋がりが消えたように見えた。黒いケーブル状の身体は形を保てなくなり、青白い粒子となって床へ崩れる。
直後、晴人の手首に激痛が走った。
「づっ……!」
《限定起動終了》
《逆流負荷:軽度》
《連続使用非推奨》
「これで軽度かよ……!」
残る二体が反応する。
晴人は戦わなかった。倒した一体の残骸を蹴り、青白い粒子を散らす。蛇型の魔物たちが一瞬だけ動きを止めた。その隙に入口へ走る。
《環境利用 Lv.1:熟練度上昇》
《推奨:右方回廊へ離脱》
晴人は右へ曲がった。
背後で魔物が追ってくる。だが、さっきよりも距離を取れている。危険予測が赤線を示すたび、晴人は身を低くし、壁を蹴り、床の溝を避けた。
黒い柄は、もう沈黙している。
一度だけ。
今の晴人に許された使用は、おそらくその程度だ。
けれど、一度だけでも十分だった。
晴人は走りながら、口の端を上げた。
「……すごいな、これ」
怖い。痛い。死にそうだ。
それでも、ほんの少しだけ、前に進めた。
自分には何もないと思っていた。魔力操作はできても、固有能力はない。身体強化も弱い。誰かの後ろを歩くことしかできない。そう思っていた。
だが今は、違う。
見える。選べる。工夫できる。そして、ほんの一瞬なら、格上に届く刃もある。
それだけで、晴人の足は止まらなかった。
やがて回廊の先に、広い縦穴が現れた。
底は見えない。だが壁面には螺旋状の通路があり、遥か上方へ続いている。上からは、かすかな風が降りてきていた。機械室や保管庫の淀んだ空気とは違う。わずかに鉄と雨の匂いがする。
《上方階層への接続路を確認》
《帰還可能経路候補》
《推奨:上昇》
晴人は足を止めた。
見上げる。
遠い。
身体はぼろぼろで、魔力も少ない。途中で魔物に遭えば、今度こそ終わるかもしれない。
それでも、上に道がある。
帰れるかもしれない道が、ある。
晴人は短刀を鞘に戻し、黒い柄を腰に差し直した。左手で壁に触れ、右足を螺旋通路の最初の段へ乗せる。
「よし」
声に出すと、少しだけ力が戻った。
「登ろう。怒られるために、ちゃんと帰らなきゃな」
晴人は笑った。
そして、白い縦穴を上り始めた。