現代ダンジョンで成り上がり!   作:ダンジョン厨

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第四話 上へ

 

 白い縦穴は、見上げるだけで心が折れそうなほど高かった。

 

 壁面に沿って螺旋状の通路が伸びている。手すりはない。幅は人が二人並べば肩が触れる程度で、ところどころが崩れ、足場の下には底の見えない暗闇が口を開けていた。下から吹き上がる風は冷たく、鉄と雨の匂いに、かすかな獣臭が混じっている。

 

 晴人は左手で壁に触れ、右足を一段ずつ前へ出した。

 

 走る余裕はない。肩の傷は熱を持ち、右腕は重く、足はとっくに限界を越えている。だが、足を止めればもっとまずい。視界の端には、相変わらず冷たい文字が浮かんでいた。

 

《上方階層への接続路を確認》

 

《帰還可能経路候補》

 

《推奨:上昇》

 

「簡単に言ってくれるよな……」

 

 晴人は息を吐いた。

 

 文句を言えるだけ、まだ余裕がある。そう思うことにした。

 

 下から、かり、と音がした。

 

 振り返る。

 

 縦穴の壁に、細長い影が何本も這っていた。さっきの蛇型に似ている。いや、もっと小さい。黒い紐のような魔物が、壁の溝に沿って上がってくる。数は五、六。小型だが、今の晴人にとっては十分すぎるほど危険だった。

 

《敵性反応:複数》

 

《推奨:交戦回避》

 

「分かってるって」

 

 晴人は歩調を少しだけ上げた。

 

 足場が赤く縁取られる。

 

《警告:崩落危険》

 

「うわっと」

 

 踏み抜く寸前で足を引く。次の瞬間、足場の一部が音もなく崩れ、暗闇へ落ちていった。石片が底に着く音は返ってこない。

 

 晴人は喉を鳴らした。

 

 急げない。けれど、急がなければ追いつかれる。

 

 いやな二択だった。

 

 小型の魔物が一体、壁を蹴って飛んできた。晴人は半身をずらす。危険予測の赤線が頬を掠める。魔物の先端が肩口を狙って伸びた。晴人は短刀を抜き、根元ではなく、表示された白い点を斬る。

 

 刃が鈍く引っかかり、魔物が床に落ちる。

 

 倒した、とは言いきれない。だが、動きは止まった。

 

《急所刺突 Lv.1:熟練度上昇》

 

 表示を確認する暇もなく、二体目が来る。

 

 晴人は短刀を構えようとして、手首に力が入らないことに気づいた。さっき《NULL/BLADE》を使った反動が、まだ残っている。無理に握ると、指先の感覚が薄くなる。

 

 だから、斬らない。

 

 晴人は腰のポーチから割れた測定器を引き抜き、魔物へ投げつけた。魔物は反応して先端を測定器へ向ける。その一瞬で、晴人は壁に沿って前へ滑り込んだ。

 

 測定器が砕かれ、青い火花を散らす。

 

 その明滅が、追ってきた他の魔物の動きを乱した。

 

《環境利用 Lv.1:熟練度上昇》

 

「よし、今のは上手い」

 

 誰も褒めてくれないので、自分で褒めた。

 

 晴人は螺旋通路を上り続けた。途中、崩れた足場を飛び越え、壁から突き出した黒い構造材を掴み、ワイヤーを引っ掛けて身体を引き上げる。落ちれば終わり。そう分かっているのに、不思議と頭は冷えていた。

 

 恐怖がなくなったわけではない。

 

 ただ、怖がりながら動くことに、少しだけ慣れてきた。

 

《行動履歴:登攀/跳躍/魔力節約/危険回避》

 

《条件進行中》

 

 晴人は表示を一瞥した。

 

「条件、条件って……俺、試験受けてるわけじゃないんだけどな」

 

 返事はない。

 

 代わりに、上方から風が強くなった。

 

 晴人は顔を上げる。遥か上に、横へ伸びる通路が見えた。白い縦穴の壁面に開いた出口。そこから、暗い空のような色が覗いている。

 

 出口だ。

 

 希望が見えた瞬間、足が少しだけ軽くなる。

 

 その直後、通路が揺れた。

 

「……は?」

 

 縦穴全体に、低い振動が走る。壁の溝を流れていた青白い光が一斉に強まり、底の暗闇から、重いものが擦れる音が響いた。

 

《警告》

 

《大型敵性反応:下方より接近》

 

《推奨:即時離脱》

 

 晴人は下を見た。

 

 暗闇の奥に、巨大な白い手が見えた。

 

 指が六本ある。壁面を掴み、縦穴をゆっくりと上ってくる。手のひらだけで晴人の身体ほどある。続いて、肘、肩、頭部らしきものが闇から現れた。頭はあるが、顔はない。ただ、顔面の中央に縦長の裂け目があり、その奥で青黒い光が燃えている。

 

 胸口の魔物より、さらに大きい。

 

 晴人は笑った。

 

「いや、無理無理無理。あれは無理」

 

 言いながら走り出した。

 

 もう足場を選んでいる余裕はない。危険予測が赤を出す。崩落警告が出る。だが、立ち止まれば大型に追いつかれる。晴人は魔力を脚へ通し、失敗しながらも、無理やり身体を前へ運んだ。

 

 足の裏が滑る。

 

 右側の足場が砕けた。

 

「っ!」

 

 身体が外へ流れる。

 

 左手が壁を掴もうとして空を切った。底の見えない縦穴が視界の下に広がる。落ちる。そう思った瞬間、晴人は腰のワイヤーを投げた。先端のフックが螺旋通路の縁に引っかかる。

 

 衝撃。

 

 肩の傷が裂けた。

 

「があっ……!」

 

 声が出た。

 

 それでも、ワイヤーは切れていない。晴人の身体は空中で揺れ、壁に叩きつけられた。痛みで視界が滲む。下では大型の魔物が、顔の裂け目をこちらへ向けている。

 

《状態:出血増加》

 

《推奨:上昇》

 

「言われなくても……!」

 

 晴人はワイヤーを掴み、足を壁に押し当てた。魔力を腕に回す。痛い。流れが乱れる。だが、訓練場で何度も何度もやった基礎循環が、ここでかろうじて形になる。

 

 一歩。

 

 もう一歩。

 

 身体を引き上げる。

 

 大型の魔物が、下から腕を伸ばした。指先が空気を裂く。あと少しで足を掴まれる。

 

 晴人は歯を食いしばり、最後の力で通路へ這い上がった。

 

 その瞬間、視界に文字が走る。

 

《条件達成》

 

《スキル:魔力節約 Lv.1 を取得》

 

《スキル:登攀 Lv.1 を取得》

 

《レベルが上昇しました》

 

「今かよ……!」

 

 晴人は叫んだ。

 

 だが、身体の奥で魔力の流れがわずかに整う。疲労が消えるわけではない。痛みも残っている。それでも、さっきまで穴の空いた桶みたいに漏れていた魔力が、ほんの少しだけ保つようになった。

 

 ありがたい。

 

 文句を言ったが、ものすごくありがたい。

 

 晴人は立ち上がり、出口へ向かって走った。

 

 背後で大型の魔物が縦穴の壁を砕きながら迫る。螺旋通路が崩れていく。白い破片が雨のように落ち、青白い光が火花のように散る。

 

 出口まで、あと十メートル。

 

 八メートル。

 

 五メートル。

 

 大型の腕が、晴人の背後へ迫った。

 

《危険》

 

《推奨:前方へ跳躍》

 

 晴人は躊躇しなかった。

 

 走った勢いのまま、出口へ飛ぶ。

 

 足場がない。身体が空中へ投げ出される。伸ばした左手が、出口の縁を掴んだ。爪が剥がれそうな痛みが走る。右手もかける。肩が悲鳴を上げる。

 

 背後を巨大な指が掠めた。

 

 晴人は身体をねじ込み、出口の通路へ転がり込んだ。

 

 直後、入口が大型の手で塞がれる。白い指が通路内へ入り込もうとするが、サイズが合わない。魔物はしばらく壁を砕こうとしていたが、やがて縦穴の底へ落ちていくように、ゆっくりと姿を消した。

 

 振動が遠ざかる。

 

 晴人は仰向けになったまま、しばらく天井を見つめていた。

 

 息ができる。

 

 生きている。

 

 それだけで、今は十分だった。

 

「……上ったぞ」

 

 誰にともなく言った。

 

 返事の代わりに、表示が浮かぶ。

 

《上方階層への到達を確認》

 

《帰還可能経路候補に接近》

 

《推奨:休息》

 

「そうする」

 

 晴人は素直に従った。

 

 通路は、これまでの白い保守区画とは少し違っていた。壁の色が灰色に近く、床には割れたタイルが敷かれている。空気も重くない。遠くから、電車の走行音にも似た低い反響が聞こえた。

 

 見覚えがある。

 

 最初に入ったD級門の、廃地下鉄駅に似ていた。

 

 完全に同じではない。壁面には白い構造材が侵食するように食い込んでいるし、床の亀裂から青白い光が漏れている。それでも、さっきまでの異質な施設よりは、ずっと人間の世界に近かった。

 

「戻ってきた……のか?」

 

《未登録階層から既存階層への接続を確認》

 

《通信遮断:継続》

 

《帰還札:破損》

 

《門外帰還には追加経路の探索が必要》

 

「そう簡単には帰してくれないか」

 

 晴人は壁にもたれ、壊れた帰還札を取り出した。

 

 薄い札の表面には、協会の刻印と座標式が刻まれている。探索者の魔力を通すことで、門の入口付近に設定された帰還座標へ転移する緊急脱出装備。本来なら、低等級門での保険としては十分なものだった。

 

 だが、札は中心から割れている。魔力を通しても、表面に一瞬だけ光が走るだけで、すぐに消えた。

 

《帰還札:機能不全》

 

《座標式:一部残存》

 

《修復:現条件では不可》

 

《代替利用:座標参照として限定使用可能》

 

 晴人は札をじっと見た。

 

「座標参照……つまり、帰り道の方角くらいは分かるってことか?」

 

《肯定》

 

 初めて返事らしい返事が返ってきた気がして、晴人は少しだけ驚いた。

 

「……会話できるのか?」

 

 表示は沈黙した。

 

「そこは無視なんだな」

 

 晴人は苦笑し、帰還札を慎重にポーチへ戻した。

 

 まだ帰れる。

 

 帰還札そのものは使えない。通信もできない。けれど、入口座標の痕跡は残っている。システムメッセージがそれを読めるなら、完全な迷子ではない。

 

 ほんの少しだけ、胸の奥に灯りが戻った。

 

 その時、遠くから声がした。

 

「――……きろ」

 

 晴人は顔を上げた。

 

 人の声。

 

 聞き間違いかと思った。疲労と痛みで幻聴を聞いたのかもしれない。けれど、もう一度、通路の奥から叫び声が響いた。

 

「誰か、いるのか!」

 

 晴人は立ち上がった。

 

 協会の救助隊か。朝比奈たちか。あるいは別の探索者か。

 

 分からない。

 

 けれど、人の声だった。

 

《音声反応を検出》

 

《距離:推定百二十メートル》

 

《敵性反応:複数》

 

《推奨:接近には注意》

 

 晴人は短刀を抜こうとして、刃が欠けきっていることを思い出した。腰の黒い柄に触れる。《NULL/BLADE》は沈黙している。連続使用は無理だ。だが、何もしない選択肢はなかった。

 

「助けられるなら、助ける」

 

 声に出す。

 

 それだけで、身体が少しだけ前へ進む。

 

 通路の奥へ向かうと、廃地下鉄駅のホームのような空間に出た。天井の発光体は半分ほど消え、線路の代わりに青白い溝が走っている。ホームの中央には三人の探索者がいた。

 

 一人は倒れている。もう一人は盾を構え、最後の一人が治癒系らしい魔力を必死に流していた。周囲を囲んでいるのは、犬型の魔物が五体。D級門で出る低級魔物より大きく、背中の棘も鋭い。

 

 晴人は息を呑んだ。

 

 見覚えがあった。

 

 倒れているのは、御影莉子だった。

 

 盾を構えているのは朝比奈紗季。腕部装甲がひび割れ、頬に血が流れている。治癒を試みているのは三枝ではない。別の協会職員らしき男性だった。三枝の姿は見えない。

 

「朝比奈さん!」

 

 叫んだ瞬間、朝比奈がこちらを見た。

 

 彼女の目が、大きく見開かれる。

 

「榊……!?」

 

「生きてます!」

 

「なんで上から出てくるのよ!」

 

「説明すると長いです!」

 

「でしょうね!」

 

 朝比奈は叫び返しながら、犬型の突進を盾で受けた。衝撃で足が滑る。硬化系の能力を使っているはずなのに、押されている。魔力切れが近いのだ。

 

 晴人はホームを見渡した。

 

 敵は五体。正面から戦えば無理。朝比奈は負傷。御影は倒れている。治癒役は戦闘不能に近い。三枝はいない。自分の魔力も少ない。

 

 だが、ホームの天井には落ちかけた発光体がある。床には青白い溝。壁際には壊れた標識。犬型の魔物は、棘が重いのか、急な方向転換が遅い。

 

 視界に、赤と黄色と白の線が重なった。

 

《戦闘領域を解析》

 

《敵性個体:五》

 

《推奨:正面交戦不可》

 

《利用可能構造:天井照明/床面星骸質流路/崩落壁》

 

《勝率:低》

 

《生存者救出優先》

 

 晴人は口元を拭った。

 

「低いなら、ゼロじゃないな」

 

 朝比奈が聞き返す暇もなく、晴人はホームへ走った。

 

 犬型の一体が晴人へ向く。背中の棘が開き、低い唸りが響く。晴人はそれを見て、あえて速度を落とした。逃げる獲物に見せる。弱そうに見せる。実際、弱いので演技は簡単だった。

 

「こっちだ!」

 

 犬型が突進する。

 

 晴人は床の赤線を避け、黄色く縁取られた溝の上を踏んだ。足元に魔力をほんの少し流す。魔力節約で漏れを抑え、必要最低限だけを床へ通す。

 

 青白い溝が一瞬だけ強く光った。

 

 犬型の足が滑る。

 

 晴人はその横を抜け、壊れた標識の支柱にワイヤーを巻きつけた。犬型が体勢を立て直し、再び飛びかかる。晴人は支柱を引き倒す。標識が落ち、犬型の前脚を弾いた。

 

 転倒。

 

《環境利用 Lv.1:熟練度上昇》

 

「朝比奈さん、右の二体、床溝に誘導できますか!」

 

「できるけど、あんた何を――!」

 

「滑ります! たぶん!」

 

「たぶんで作戦立てるな!」

 

 そう怒鳴りながらも、朝比奈は即座に動いた。

 

 盾を叩きつけ、犬型二体の注意を引く。負傷しているとは思えない踏み込みだった。彼女が床溝の上をわざと横切る。犬型が追う。晴人は腰のポーチから最後の簡易ビーコンを取り出し、床溝へ投げた。

 

 魔力を流す。

 

 ビーコンが青白く明滅する。

 

 犬型二体の足元で、床溝が一瞬だけ過負荷を起こした。爆発ではない。だが、滑るには十分だった。二体が絡み合うように転倒する。

 

 朝比奈が盾を構え、硬化した拳で一体の頭を殴り抜いた。

 

 鈍い音。

 

 魔物の頭蓋が砕ける。

 

「助かるわ、榊!」

 

「初めて役に立ってます!」

 

「今それ言わなくていい!」

 

 晴人は笑いそうになった。

 

 こんな状況で、少しだけ楽しいと思った自分に驚く。

 

 戦えている。

 

 誰かの後ろで荷物を持つだけではなく、今、自分の判断が誰かの生存に繋がっている。

 

 けれど、油断した瞬間に死ぬ。

 

 残る犬型の一体が、御影へ向かった。治癒役の男性は気づいていない。朝比奈は間に合わない。

 

 晴人は走った。

 

 間に合わない距離だった。

 

 だから、《NULL/BLADE》へ手を伸ばす。

 

《警告:連続使用非推奨》

 

《逆流負荷:中度予測》

 

《限定起動:0.6秒》

 

「六秒じゃなくて、コンマ六かよ……!」

 

 それでも、使うしかない。

 

 晴人は黒い柄を抜いた。

 

 犬型の背中に、白い接続線が一瞬だけ見える。晴人は踏み込み、届かない距離を、腕ごと投げ出すようにして振った。

 

 黒い線が、空間に生まれる。

 

 たった一瞬。

 

 だが、その一瞬で犬型の後脚の接続線を断った。

 

 魔物は走る姿勢のまま崩れ、床へ転がる。牙は御影のすぐ手前で止まった。

 

 同時に、晴人の右腕に激痛が走った。

 

 骨の中を冷たい針でかき回されるような痛みだった。

 

「ぐ、あっ……!」

 

 黒い柄が手から落ちかける。

 

 晴人は左手でそれを掴み直した。膝が落ちる。視界が揺れる。

 

《逆流負荷:中度》

 

《右上肢の魔力循環に異常》

 

《警告:再使用不可》

 

「分かってる……!」

 

 晴人は歯を食いしばった。

 

 倒れた犬型に朝比奈が追撃を入れる。残り二体は、床溝を避けるように動きを変えている。学習している。低級魔物ではない。

 

 だが、流れは変わった。

 

 朝比奈は盾を前に出し、晴人へ叫ぶ。

 

「榊、御影を連れて下がりなさい!」

 

「了、解!」

 

 晴人は御影のそばに駆け寄った。彼女は意識が朦朧としている。腹部の装備が裂け、出血がひどい。治癒役の男性が青ざめた顔で言う。

 

「止血はした。けど、長くは保たない」

 

「出口は?」

 

「分からない。地図が狂ってる。通信もできない」

 

 晴人は帰還札の破片を取り出した。

 

 視界に薄い線が浮かぶ。

 

《帰還座標痕跡を参照》

 

《推定経路:北東側連絡通路》

 

《危険:中》

 

 晴人は顔を上げた。

 

 ホームの奥、崩れかけた連絡通路がある。

 

「あっちです。たぶん、入口側に戻れます」

 

「根拠は?」

 

「壊れた帰還札の座標を読んでます」

 

 治癒役の男性が絶句した。

 

「そんなこと、できるのか?」

 

「今できるようになりました」

 

「どういう意味だ」

 

「俺も分からないです」

 

 自分で言っていて、ひどい説明だと思った。

 

 だが、今は信じてもらうしかない。

 

 朝比奈が最後の犬型を盾で押し返しながら、鋭く言った。

 

「信じる。榊、先導!」

 

「はい!」

 

 晴人は御影の腕を肩に回し、身体を支えた。

 

 重い。傷が痛む。右腕はほとんど使えない。それでも、倒れない。

 

 朝比奈が後ろを守り、治癒役の男性が御影の出血を押さえながら進む。晴人は視界に浮かぶ帰還座標の痕跡を追った。薄い青い線が、崩れた通路の奥へ続いている。

 

 出口に繋がっている保証はない。

 

 途中でまた罠に飛ばされるかもしれない。

 

 もっと強い魔物がいるかもしれない。

 

 それでも、晴人は進んだ。

 

 未発現者。

 

 荷物持ち。

 

 足手まとい。

 

 そう呼ばれていた自分が、今は誰かを連れて歩いている。

 

 その事実が、痛みよりも熱く胸に残った。

 

「榊」

 

 肩を借りた御影が、かすれた声で言った。

 

「はい」

 

「……生きてたんだ」

 

「はい。しぶといのが取り柄なので」

 

「よかった」

 

 たったそれだけの言葉だった。

 

 晴人は一瞬、喉の奥が詰まった。

 

 けれど、泣くのはまだ早い。

 

「帰ってから、もっと言ってください。できれば協会の人が聞いてる前で」

 

 御影が、痛みに顔を歪めながらも、ほんの少し笑った。

 

「調子、乗ってる」

 

「今だけです。生還ボーナスみたいなものです」

 

 その時、前方の通路の奥に、薄い光が見えた。

 

 白でも青でもない。

 

 門の入口に設置された協会の照明に似た、人工的な光。

 

《帰還座標に接近》

 

《外部通信、微弱回復》

 

《門外まで推定二百六十メートル》

 

 晴人は息を吸った。

 

 帰れる。

 

 今度こそ、本当に。

 

「朝比奈さん!」

 

 晴人は振り返らずに叫んだ。

 

「出口、近いです!」

 

「よくやった!」

 

 朝比奈の声が返ってくる。

 

 その声には、疲労と痛みと、それでも消えない力があった。

 

 晴人は御影を支え直し、光の方へ歩いた。

 

 まだ終わっていない。背後には魔物がいる。通路は崩れかけている。自分の身体も限界だ。けれど、出口が見えている。

 

 なら、歩ける。

 

 榊晴人は、固有能力を持たない未発現者だった。

 

 だが、その日、誰よりも先に帰り道を見つけたのは、彼だった。

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