現代ダンジョンで成り上がり! 作:ダンジョン厨
朝比奈紗季が榊晴人の言葉を信じたのは、彼の能力を理解していたからではなかった。
理解など、できるはずがない。壊れた帰還札から帰還座標の痕跡を読むなど、協会の標準装備にも、感知系の固有発現にも存在しない芸当だ。普通ならば疑う。錯乱していると判断する。負傷と門圧による幻覚だと切り捨てる方が、指揮官としては正しい。
けれど、朝比奈は見ていた。
あのホームで、晴人が魔物の突進より一瞬早く床面の星骸質流路を利用したこと。犬型の動きが乱れる場所を、まるで最初から知っていたように選んだこと。御影へ飛びかかった魔物の後脚だけを、刃のない黒い柄で断ち切ったこと。そして何より、彼が一度も自分だけ逃げようとしなかったこと。
榊晴人は、強い探索者ではない。
少なくとも今は、身体能力も、魔力量も、戦闘技術も、どれも未熟だ。だが、死地で嘘をつく人間ではなかった。分からないことは分からないと言い、怖い時は怖いと認め、それでも足を止めなかった。
だから朝比奈は、彼の言葉を信じた。
それは盲信ではない。能力への信頼ですらない。
崩れかけた門内で、残された選択肢の中から最も生存率が高いものを選ぶ、探索者としての判断だった。
「信じる。榊、先導!」
その命令を口にした時、朝比奈紗季は、榊晴人が何者なのかをまだ知らなかった。
ただ、この少年が示す道だけは、今この瞬間、誰よりも生きて帰る可能性に近いと判断していた。
◇
協会支部の医療区画は、門の中とは違う意味で白かった。
壁も天井も清潔で、廊下には消毒液の匂いが薄く漂っている。窓の外には夜の街があり、遠くを走る車のライトが、現実の時間がまだ途切れず続いていることを示していた。けれど晴人にとって、その白は門内で見た保守区画の白とどうしても重なった。
骨のような壁。青白い流路。読めない文字列。刃のない黒い柄。
目を閉じると、それらが瞼の裏に浮かぶ。
《ORIGIN://AUTHORITY》
《権限深度:0.003%》
《当該接続を観測した外部管理系が存在します》
最後に見た表示の意味は、今も分からなかった。
「榊晴人さん。質問を続けても?」
ベッド脇に立つ協会職員が、静かな声で言った。
黒いスーツの男だった。年齢は三十代後半ほど。胸元には探索者協会監査部の徽章がある。隣には鑑定局の女性職員が一人、タブレット端末を抱えて控えていた。
晴人は固定された右腕を見下ろし、それから頷いた。
「はい。大丈夫です」
「では、確認します。あなたは本日午前、D級門の再調査任務中、未確認の転移現象によって隊列から離脱。その後、未登録階層と思われる領域を単独で移動し、複数の敵性個体と交戦。さらに、協会分類外の未登録兵装を取得した。ここまでは間違いありませんか」
「間違いないです」
「その過程で、あなたの固有能力が発現したと考えられます」
固有能力。
その言葉が、胸の奥に小さく落ちた。
未発現者。
ずっとそう呼ばれてきた。魔力操作はできる。探索者登録も通っている。けれど、肝心の固有能力だけがない。だから晴人は、探索者でありながら、どこか探索者になりきれていなかった。
その自分に、ついに能力が発現した。
本来なら喜ぶべきなのだろう。
けれど、今はまだ、喜びよりも困惑の方が大きかった。
「……たぶん、そうだと思います」
「たぶん?」
「俺にも、まだ分かっていないんです。見えるようになったものがあって、それに従ったら助かった。でも、それが普通の固有能力なのかは、正直分かりません」
監査部の男は表情を変えなかった。
「具体的には、何が見えましたか」
晴人は少し迷った。
全部を話していいのか分からない。視界に浮かんだ警告は、情報開示に注意しろと言っていた。だが、何も言わなければ協会は疑う。朝比奈や御影を助けたことも、《NULL/BLADE》を使ったことも説明できない。
だから、核心だけを少し避けることにした。
「危険な場所が分かりました。魔物の攻撃の方向とか、床が崩れる場所とか、魔力が流れている場所とか。あと、魔物の弱点みたいなものも、少しだけ」
「視覚情報として?」
「はい。線とか、色とか、文字みたいな形で」
「文字?」
鑑定局の女性が、初めて顔を上げた。
晴人は頷く。
「ゲームの画面みたいな感じです。状態とか、推奨行動とか、敵の情報とかが出ます」
室内の空気が、わずかに変わった。
監査部の男は表情を崩さなかったが、鑑定局の女性は明らかに反応していた。タブレットに何かを入力している指が少し速くなる。
「レベル、スキルといった表記はありましたか」
「……ありました」
「取得条件は?」
「たぶん、俺が実際にやった行動に関係しています。逃げたり、急所を突いたり、地形を使ったり。それで、スキルとして表示されました」
「つまり、自己成長補助型の固有発現である可能性がある」
鑑定局の女性が呟いた。
監査部の男が短く頷く。
「過去にも類似例はあります。身体能力の数値化、敵性反応の色彩認識、技能習熟の自己暗示化など。ただし、帰還札の座標式を読み、未登録兵装の起動条件を認識したとなると、通常の感知系や成長補助系では説明がつきません」
晴人は黙っていた。
説明がつかない。
それは、晴人自身が一番分かっている。
「榊さん」
「はい」
「あなたが持ち帰った黒い柄について、名称を知っていますか」
視界の端に、淡い文字が浮かんだ。
《NULL/BLADE》
《開示判断:任意》
《警告:当該情報は現行人類分類に存在しません》
晴人は喉を鳴らした。
言うべきか。
言わないべきか。
少し考えてから、彼は正直に答えた。
「表示では、《NULL/BLADE》と出ました」
鑑定局の女性が入力を止めた。
「ヌルブレード」
「はい」
「それは、あなたの能力が表示した名称ですか」
「そうです。俺が勝手につけた名前じゃありません」
監査部の男は、ほんのわずかに目を細めた。
「その兵装を、あなたは起動できる」
「できる、というより、一瞬だけ使えました。ただ、反動が強いです。右腕の魔力循環がおかしくなったのも、多分それが原因です」
「通常の魔力供給では起動しないと、鑑定局から報告を受けています」
「俺が使った時も、普通に魔力を流したら駄目でした。対象の……線みたいなものが見えた時だけ、一瞬反応しました」
「線?」
「魔物を繋いでいるもの、みたいな感じです。そこを切ると、身体がほどけました」
言葉にすると、ますます異常だった。
晴人は自分で話しながら、目の前の二人が自分を危険物扱いしても仕方ないと思った。実際、こんな話を訓練場で誰かがしたら、疲れているのかと心配する。
監査部の男はしばらく沈黙し、それから端末を閉じた。
「現時点では、あなたの固有発現を未分類として扱います」
「未分類、ですか」
「はい。仮称としては、視覚情報型、成長補助型、空間解析型、兵装干渉型の複合発現。ただし、どの分類にも完全には該当しません。詳細な検査が必要です」
「俺、どうなるんですか」
晴人は、できるだけ普通の声で聞いた。
だが、内心では少し怖かった。
協会は探索者を守る組織であると同時に、探索者を管理する組織でもある。未登録兵装。未知の能力。未登録階層からの帰還。これだけ揃えば、ただの新人探索者として扱われないことくらいは分かる。
監査部の男は、淡々と答えた。
「少なくとも、治療完了までは支部内での経過観察となります。外部任務への参加は禁止。面会も一部制限されます。ただし、拘束ではありません」
「拘束ではないけど、自由でもない感じですね」
「正確です」
「正直で助かります」
晴人が苦笑すると、鑑定局の女性が少しだけ目を瞬かせた。
監査部の男も、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。
「榊さん。あなたの協力次第では、今回の事案は探索者協会にとって極めて重要な発見になります」
「協力はします。でも、条件があります」
「条件?」
「三枝さんの捜索状況を教えてください。俺が今すぐ行けないのは分かっています。でも、何も知らないまま待つのは嫌です」
監査部の男は、数秒だけ晴人を見た。
それから、端末を操作する。
「三枝悠真探索者は、現在も未帰還です。門は一時的に安定を取り戻しましたが、内部構造に変質が確認されています。救助隊は二班投入済み。ただし、深部への再侵入は門圧の上昇により制限されています」
「生存反応は」
「不明です」
短い言葉だった。
晴人は拳を握ろうとして、右腕の痛みに顔をしかめた。左手だけをシーツの上で握り締める。
「……分かりました。ありがとうございます」
「あなたに救助義務はありません」
「はい」
「今回、あなたは十分に生存者救出へ貢献しました」
「はい」
「それでも、気にするのですね」
晴人は少しだけ考えた。
そして、頷いた。
「気にします。三枝さん、俺のことを助けようとしてくれたので」
未知のトラップが発動した瞬間、三枝は槍を捨てて踏み込んだ。晴人を見下していたわけではない。固有能力を持たない未発現者でも、仲間として手を伸ばしてくれた。
だから、忘れられない。
監査部の男は、それ以上何も言わなかった。
事情聴取が終わり、二人が病室を出ていくと、室内は急に静かになった。
晴人は深く息を吐いた。
身体が重い。話しただけで疲れている。右腕の奥には、まだ冷たい痛みが残っている。
それでも、眠気は遠かった。
しばらくして、病室の扉が軽く叩かれた。
「入っていい?」
朝比奈の声だった。
「はい」
扉が開き、朝比奈紗季が入ってくる。手には紙コップが二つあった。片方をベッド脇のテーブルに置く。中身は温かいほうじ茶だった。
「事情聴取、お疲れさま」
「ありがとうございます。朝比奈さんも、休まなくていいんですか」
「休めって言われてる。でも、寝たら嫌な夢を見そうだから」
「分かります」
「あなたは寝なさい」
「理不尽ですね」
「上官特権」
「俺、朝比奈さんの部下なんですか」
「今日から仮でそういうことにしておくわ。面倒を見る人間が必要でしょ」
晴人は少しだけ目を丸くした。
朝比奈は椅子に座り、紙コップに口をつけた。
「さっき、監査部に聞かれたでしょう。私がどうしてあなたの言葉を信じたのか」
「聞かれました。朝比奈さん、本当に信じてくれたんだなって、今さら思いました」
「信じたというより、判断したの」
「判断?」
朝比奈は頷いた。
「門内で指揮を執る時、一番危険なのは、理解できないものを全部切り捨てることよ。もちろん、根拠のない発言に従うのも危険。でも、あなたの発言には根拠があった」
「俺、ちゃんと説明できてました?」
「できてなかった」
「ですよね」
「でも、あなたの行動が先に証明していた」
朝比奈は、淡々と言った。
「あのホームで、あなたは床面流路を利用して魔物を転倒させた。犬型の後脚だけを断って、御影を助けた。崩落区画でも、床の危険箇所を避けた。帰還座標の方向も、実際に照明区画と繋がっていた。つまり、あなたが何かを見ていること自体は、現場で確認済みだった」
晴人は黙って聞いていた。
「それに、あなたは分からないことを分からないと言った。『絶対です』とは言わなかった。『たぶん』と言った。あの状況では、その方が信用できる」
「たぶんって、頼りなくないですか」
「頼りないわ。でも、門の中で確実なんて言い切る新人の方が怖い」
朝比奈は少しだけ笑った。
「それと、最後の理由」
「まだあるんですか」
「あなたは逃げなかった」
晴人は言葉に詰まった。
朝比奈の声は静かだった。
「あの時、あなたには自分だけ先に出口へ向かう選択肢もあった。御影を置いていくことも、私たちを囮にすることもできた。でも、そうしなかった。弱いのに、戻ってきた。怖いはずなのに、声を上げた」
「それは……普通じゃないですか」
「普通じゃない」
朝比奈は、はっきりと言った。
「死にかけた人間は、そんなに綺麗に動けない。探索者でも同じよ。だから私は、あなたの能力を信じたんじゃない。榊晴人の判断を信じた」
胸の奥が、また熱くなった。
褒められているのだと思う。けれど、素直に受け取るには重かった。
「……ありがとうございます」
「礼はいいわ。代わりに、次からはもう少し自分の身体も勘定に入れなさい。あなた、自分の生存率を低く見積もりすぎ」
「表示にも怒られそうです」
「表示?」
「あ、いや、能力の話です」
朝比奈は、じっと晴人を見た。
「その能力、あなたには何て見えているの」
晴人は少し迷った。
だが、朝比奈には話してもいい気がした。
「《ORIGIN://AUTHORITY》って表示されました」
「オリジン、オーソリティ」
「たぶん、能力名だと思います。意味は分かりません」
「原初、権限……みたいな意味ね」
「かっこいいですけど、正直、名前負けがすごいです」
「いいじゃない。未発現者よりは」
朝比奈の言葉に、晴人は小さく笑った。
その時、病室の扉が勢いよく開いた。
「榊!」
久我蓮司だった。
面会制限とは何だったのか、と思うほど自然に入ってきた。手にはコンビニ袋を持っている。見舞いの品なのだろうが、中身はゼリー飲料とスポーツドリンクと、なぜかカップ焼きそばだった。
「久我。入っていいやつなのか、それ」
「受付で止められたけど、朝比奈さんの名前出したら通れた」
朝比奈が眉を上げる。
「私の名前を勝手に使わないで」
「すみません。でも通れました」
「余計に悪いわ」
久我は素直に頭を下げ、それから晴人のベッド脇に立った。
「で、どうなんだよ。腕、動くのか」
「今は駄目らしい。無理に魔力回すと神経が焼けるかもって」
「重いことを軽く言うな」
「軽く言わないと怖いだろ」
「……それは、まあ」
久我は口を噤んだ。
いつもの皮肉は少ない。心配しているのが丸分かりだった。
「聞いたぞ。固有能力、出たんだってな」
「出た、らしい」
「らしいって何だよ」
「俺にもまだ分からない。ゲームみたいな画面が見える」
「は?」
「そうなるよな」
久我は数秒ほど固まり、それから深く息を吐いた。
「お前さ。未発現だった時から変なやつだったけど、発現しても変なんだな」
「もうちょっと祝ってくれてもいいんだぞ」
「生きてたことは祝ってる。能力は後で考える」
「堅実」
「お前が無茶苦茶だからな」
そう言いながら、久我はコンビニ袋からゼリー飲料を取り出し、テーブルに置いた。
「食えるようになったら飲め。カップ焼きそばは、俺が食う」
「見舞いとは」
「病室で飯テロしてやろうかと思って」
「やめろ、医療区画から追い出される」
朝比奈が呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情は少しだけ柔らかかった。
久我が来たことで、病室の空気が少し現実に戻った。未知の能力。原典遺物。未登録階層。外部管理系。そういう大きすぎるものに押し潰されそうだった意識が、コンビニ袋と同期の文句で、少しだけ地面に戻される。
その時、廊下の向こうが慌ただしくなった。
複数の足音。無線の声。医療班の呼びかけ。
朝比奈が即座に立ち上がる。
「何?」
病室の扉が開き、協会職員が顔を出した。先ほどの監査部員ではない。現場装備の職員だった。
「朝比奈探索者。救助隊より連絡です」
晴人の心臓が跳ねた。
朝比奈の顔から表情が消える。
「三枝は」
職員は一瞬だけ言葉を選んだ。
「生存反応を確認しました」
晴人は、思わず身体を起こそうとした。
右腕に激痛が走る。
「っ……!」
「動くな!」
久我が慌てて肩を押さえる。
朝比奈も一歩こちらへ踏み出したが、すぐに職員へ視線を戻した。
「状態は」
「不明です。ただし、通常階層ではありません。救助隊が到達した地点の奥に、未登録構造物が確認されています。門圧が不安定で、これ以上の進入は危険と判断されました」
晴人の視界の端に、文字が浮かんだ。
《追加目標:三枝悠真の生存確認》
《進行中》
《関連座標反応を検出》
《警告:現在状態での再侵入は不可》
分かっている。
行けない。
今の自分が行っても、足手まといになるだけだ。
それでも、表示された関連座標の薄い線が、病室の白い床の上に重なって見えた。
晴人は左手でシーツを握った。
「朝比奈さん」
「駄目」
即答だった。
「まだ何も言ってないです」
「顔に書いてある。駄目」
「でも、俺、座標が見えます」
病室の空気が止まった。
朝比奈だけでなく、久我も、職員も晴人を見る。
晴人はゆっくり息を吸った。
「今すぐ行けるとは言いません。でも、俺の能力なら、三枝さんがいる場所の手がかりを読めるかもしれません。救助隊に情報だけでも渡せるかもしれない」
朝比奈は厳しい顔で晴人を見ていた。
その目は、拒絶ではない。判断している目だった。門の中で晴人の言葉を信じた時と同じ目。
「あなたは動けない」
「はい」
「だから再侵入もさせない」
「はい」
「でも、情報提供ならできる可能性がある」
「あります」
「根拠は」
晴人は視界に浮かぶ薄い線を見た。
それは、門の方角へ伸びている。現実の壁を無視して、どこか遠くへ続いている。壊れた帰還札を読んだ時よりも、ずっと細く、不安定な線だった。
「見えてます。まだ、途切れてません」
朝比奈は数秒黙った。
そして、職員へ向き直る。
「監査部と救助隊を呼んで。榊を動かすんじゃない。ベッドごと情報を取る」
「しかし」
「責任は私が持ちます」
その言葉に、晴人は目を見開いた。
朝比奈は振り返らないまま言った。
「勘違いしないで。あなたを信じているからじゃない」
「はい」
「あなたが見ているものを、私がまだ判断材料として使えると思っただけ」
「はい」
晴人は頷いた。
それで十分だった。
信頼とは、全部を分かってもらうことではない。少なくとも今は、そう思えた。
朝比奈紗季は、晴人の能力をまだ理解していない。
だが、榊晴人が死地で示したものを、彼女は覚えている。
それだけで、次の一歩を踏み出す理由にはなった。
病室の外が騒がしくなる。
監査部、救助隊、鑑定局、医療班。いくつもの足音が近づいてくる。晴人はベッドの上で、左手だけを握り締めた。
《追加目標:三枝悠真の生存確認》
《支援条件を更新》
《現在状態:戦闘不能》
《実行可能行動:情報解析》
《ORIGIN://AUTHORITY》
《限定解析を開始します》
視界の奥に、再び文字が走る。
今度は、逃げるためではない。
誰かを助けるための表示だった。
次話は明日21時に投稿予定です