大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
俺が前世の記憶を取り戻したのは、たぶん三歳くらいの頃だった。
きっかけは、保育園の先生の頭に生えていた、ふわふわした犬の耳である。
泣いている子を抱き上げるたびに、その耳がぴこぴこと揺れた。昼寝の時間になると、尻尾が園児たちに枕として狙われ、先生は毎回「先生の尻尾はお昼寝用じゃありません」と真顔で注意していた。
その日、俺は理解した。
俺はもう一度、日本に生まれた。
ただし、前にいた日本とは違う日本に。
この世界には、人間だけでなく獣人がいる。
それは日本だけの話ではなく、海の向こうの国にも、遠い大陸にも、当たり前のように人間と獣人が暮らしているらしい。
獣人といっても、姿は人によって違う。
耳や尻尾に特徴が出ている人もいれば、牙や爪、顔立ち、手足に獣の名残を強く残している人もいる。
それから、受け継いだ獣の特徴によって、獣人は人間より大きいことが多い。
二メートル前後の身長も、特別珍しいわけではない。
もちろん、獣人が人間より生物として強くとも、この社会の何もかもが獣人中心に作られているわけではない。人間も普通に暮らしているし、古い建物や小さな店は人間基準のまま残っている。
だから駅には普通の改札と、少し広めの改札が並んでいる。電車には通常の座席のほかに、大柄な乗客向けのスペースがある。役所や病院には高さの違う窓口があり、会社の備品カタログには人間用の椅子と、大柄な獣人にも対応した椅子が別々に載っている。
便利な場所もあれば、少し窮屈な場所もある。
大型の獣人が古い喫茶店で天井の梁に頭をぶつけたり、人間が大きすぎる椅子に座って足をぶらぶらさせたりする。
それが、この日本の日常だった。
そして俺、
慣れているはずだった。
「はーるーとー!」
朝。
玄関の向こうから、聞き慣れた声がした。
俺はスーツのネクタイを締めながら、壁の時計を見る。出勤まではまだ少し余裕がある。余裕はあるが、あの声が聞こえた時点で、俺の朝の平穏は余命三秒だった。
鍵が開く音。
廊下を踏む足音。
そして、背後から迫る気配。
「おはよー!」
次の瞬間、俺は後ろから抱きしめられた。
いや、抱きしめられたという表現は少し優しい。
実際には、身長二〇七センチの大型犬系獣人に背後から捕獲された。
「ぐえっ」
「え、今ぐえって言った?」
「言った。人間は肺を圧縮されると、だいたいそういう音が出る」
「ご、ごめん! 力入れてないつもりだったんだけど!」
俺を包み込んでいた腕の力が少し緩む。
しかし、緩んでもまだ近い。かなり近い。というか密着している。
俺の幼なじみで、昔から家族ぐるみの付き合いがある。受け継いだ獣の特徴は大型犬に近く、明るい茶色の髪に、ふわりとした犬耳、感情のままに動く大きな尻尾がある。
そして、でかい。
子どもの頃から周りより大きかったが、二十五歳になった今では、俺が隣に立つと完全に見上げる形になる。
しかも、ただ大きいだけじゃない。
陽菜は健康的で、よく動く体つきをしていて、明るく笑うたびに全身から生命力みたいなものがあふれている。幼なじみだから見慣れている。見慣れているはずなのに、社会人になった今の陽菜は、昔の感覚だけで受け止めるには少々心臓に悪い。
いや、少々ではない。
かなり悪い。
「晴人、今日ちょっと眠そう」
「朝だからな」
「違うよ。匂いが眠そう」
「匂いに眠気を混ぜるな」
陽菜は俺の肩越しに、すんすんと鼻を鳴らした。
近い。
近いって。
俺の首元で嗅覚を発揮するな。前世の記憶があっても、これは慣れない。前世込みなら俺の精神年齢はそれなりに落ち着いているはずなのに、こういう時だけ脳内の大人たちが全員定時退社する。
「昨日、遅かったでしょ」
「まあ、少しだけ残業」
「少しだけって言う時の晴人、だいたい少しじゃない」
「俺のことをよくご存じで」
「幼なじみだからね!」
陽菜は得意げに胸を張った。
その動きに合わせて、尻尾がぶん、と横に振られる。
直後、玄関脇に置いていた折りたたみ傘が、軽快な音を立てて倒れた。
「あっ」
「本日一回目」
「朝からカウントしないでよ!」
「昨日は3回だった」
「今日は一回で終わる予定だから!」
「その予定、毎日聞いてる」
陽菜はしゅんと耳を伏せた。
この状態になると、身長二メートル超えの大柄な女性であるにもかかわらず、捨てられた子犬みたいに見えるからずるい。
俺は倒れた傘を拾い、玄関の端に戻した。
「別に怒ってない」
「ほんと?」
「ほんと。ただ、うちの玄関が陽菜の尻尾に勝てないだけだ」
「じゃあ玄関を鍛えよう」
「玄関は鍛えられない」
陽菜は真剣な顔で「そっか」と頷いた。
なぜ少し残念そうなんだ。
俺が鞄を持つと、陽菜はぱっと表情を明るくした。
「駅まで一緒に行こ!」
「いつも一緒だろ」
「いつも一緒だけど、今日も一緒がいい」
何気ない一言だった。
陽菜はたぶん、深く考えていない。
昔からそうだ。思ったことをそのまま口に出す。嬉しい時は笑うし、寂しい時は耳が下がる。好きなものにはまっすぐ向かっていく。
そのまっすぐさに、俺は何度も救われてきた。
ただし、最近は救われるのと同じくらい、心臓を乱されている。
「……はいはい」
「やった!」
陽菜の尻尾がまた振られる。
今度は玄関の壁に軽く当たった。
「本日二回目」
「今のは壁が近いの!」
「壁は昔からそこにいる」
「晴人が壁の味方した!」
そんなやり取りをしながら、俺たちは部屋を出た。
朝のマンションの廊下には、俺たち以外にも出勤する住人がいる。小柄な人間の老夫婦。スーツ姿の猫の耳を持つ女性。大きな角を持った獣人の男性は、エレベーターの前で少し身をかがめながらスマホを見ていた。
この光景は、もう珍しくない。
俺にとっては日常だ。
日常のはずなのに、隣を歩く陽菜がふとこちらを覗き込むだけで、俺の歩幅は乱れる。
「晴人」
「何だ?」
「今日、無理しすぎないでね」
からかうような声ではなかった。
陽菜はいつもの笑顔のまま、けれど少しだけ耳を伏せていた。
「眠そうな匂い、してるから」
俺は返事に詰まった。
陽菜の距離感は近い。近すぎる。
朝から抱きついてくるし、尻尾で物を倒すし、俺の匂いで体調を判断してくる。
でも、その全部が陽菜なりの優しさから来ていることも、俺は知っている。
「……分かった。今日はちゃんと早く帰る」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ帰りに連絡して。迎えに行くから」
「いや、そこまでは」
「行くから」
「決定事項だった」
陽菜は満足そうに笑った。
その笑顔を見ていると、断る気力が少しずつ削られていく。
俺の平穏は、だいたいこうして陽菜に押し切られる。
物理的にも、精神的にも。
駅前で陽菜と別れ、俺は会社へ向かった。
勤務先は、住宅設備やオフィス備品を扱う会社だ。人間用の商品もあれば、大柄な獣人に対応した商品もある。椅子、机、収納、扉、キッチン、浴室。人間と獣人が同じ場所で暮らすこの社会では、そういう細かな調整が意外と重要になる。
エントランスを抜け、社員証をかざして中に入る。
その時だった。
ロビーの向こうに、すらりとした長身の女性が立っていた。
黒に近い銀灰色の髪。
鋭い目元。
頭上には狼を思わせる耳があり、背後には毛並みの整った尾が静かに下がっている。
別部署の同僚で、社内では少し近寄りがたい人として知られている。
彼女は誰かと短く言葉を交わしたあと、こちらに気づいた。
無表情のまま、軽く会釈する。
俺も慌てて頭を下げた。
立っているだけで目を引く人だと思った。
背が高いから、というだけではない。姿勢がいい。動きに無駄がない。陽菜の明るさが太陽みたいなものなら、大神さんは夜の中に立つ影みたいな静けさがある。
そして俺は、ほんの一瞬見惚れていたことに気づき、慌てて視線をそらした。
朝から幼なじみに捕獲され、出社直後に同僚に見惚れる。
どうやら今日も、俺の平穏は最初からあまり期待できそうになかった。