大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
定時を過ぎると、社内の音は少しずつ輪郭を変える。
昼間は話し声に埋もれていたキーボードの音。
複合機が紙を吐き出す音。
誰かが帰り支度をするたびに鳴る、鞄のファスナーの音。
窓の外では、向かいのビルに明かりが並んでいた。
日中は薄く青みがかって見えたガラスが、今は室内灯を映して淡い橙色に染まっている。
俺はデスクの上に広げた資料を見下ろした。
獣人対応チェアの検証報告。
人間用の標準値。
大柄な獣人向けの対応値。
座面高の調整幅。
肘掛けの位置。
それから、俺の尊厳と引き換えに得られた下肢接地不良の記録。
資料上では、もう「足ぷらぷら」とは書かれていない。
そこだけは社会人としての理性が勝った。
「佐久間、まだやるのか?」
隣の席で、浅見が上着を羽織りながら言った。
「あと少し。三枝先輩から追加で修正が来た」
「大変だな。会社の未来を支えた足ぷらぷら」
「その功績名を定着させるな」
「歴史は後世の人間が決めるものだろ」
「俺は存命中だ」
浅見は笑いながら鞄を肩にかけた。
昼間なら、周囲の誰かがその軽口を拾ったかもしれない。
けれど、残っている社員はもう少ない。
少し離れた席でパソコンを閉じる音がして、大柄な獣人社員が椅子を引く。通常より頑丈な脚部が、床の上で低い音を立てた。
「じゃ、お先。あんまり無理すんなよ」
「お前までそれ言うのか」
「幼なじみと大神さんから言われてるだろ。俺も流れに乗っとこうと思って」
「雑な便乗だな」
「でも本音」
浅見は片手を上げ、廊下の向こうへ消えていった。
少しして、遠くでエレベーターの閉まる音がする。
社内は急に静かになった。
俺は一度だけ肩を回し、資料へ視線を戻す。
画面の隅には、三枝先輩から届いた修正指示が並んでいる。
表の見せ方を変える。
人間用の標準値と獣人対応値を色分けする。
共用備品として使う場合の注意書きを追記する。
どれも必要な作業だ。
必要なのは分かっている。
分かっているが、細かい。
社会人の仕事というものは、だいたいこの「必要だが細かい」でできている。
俺は一行修正し、もう一度見直す。
その時、通路の奥から足音が近づいてきた。
一定の間隔。
急いでいるわけではない。
けれど、迷いのない歩き方。
顔を上げる。
黒に近い銀灰色の髪。
静かに立つ狼耳。
片手には数枚の資料。
大神さんだった。
「佐久間」
低く、落ち着いた声が、夜の社内では昼間より少し近く聞こえた。
「まだ残っていたのか」
「大神さんもですよね?」
「私は、確認事項を届けに来ただけだ」
大神さんはそう言って、俺のデスクの脇へ立った。
相変わらず姿勢がいい。
ただ資料を渡しに来ただけなのに、立ち姿に無駄がない。
大神さんが手元の紙を開く。
俺も椅子の向きを少し変えた。
近づいた拍子に、ふと視界へ入るものがある。
スーツの線。
長身の輪郭。
姿勢のよさによって強調される、静かな存在感。
俺はすぐに資料へ目を落とした。
今は仕事中だ。
残業で疲れているからといって、理性まで先に帰宅させてはいけない。
見るべきは数字。
寸法。
追記事項。
山岳観測ではない。
「ここに、追記した方がいい項目がある」
大神さんはそんな俺の内心など知らず、資料の一枚目を指で示した。
「この使用条件だと、座面高だけでなく、足置きの追加も検討した方がいい」
「ああ……確かに」
俺は資料を受け取り、該当箇所を見る。
「共用スペースに置くなら、調整幅だけでは限界があるかもしれませんね」
「そう思う」
「肘掛けも、下げられる範囲を広げるだけじゃなくて、前後位置も調整できた方がよさそうです」
「それも追記した」
大神さんが別の紙を差し出す。
几帳面な字で、検証結果が簡潔にまとめられていた。
言葉は少ない。
けれど、必要な情報は揃っている。
俺は少しだけ感心した。
「分かりやすいですね」
「そうか」
「はい。資料に反映しやすいです」
大神さんの狼耳が、ごく小さく動いた。
最近、あの耳が気になる。
もちろん、見ようとして見ているわけではない。
表情より先に動くから、自然と目に入るだけだ。
たぶん。
「大神さん、これ、少し時間かかりましたよね」
「確認が必要だったから」
「ありがとうございます。助かります」
「仕事だ」
短い返事。
いつも通りだ。
けれど、突き放すような冷たさはない。
必要以上に近づかない。
それでも、必要なところには手を伸ばす。
大神さんのそういう距離感が、少しずつ分かるようになってきた。
「では、これで」
大神さんが立ち去ろうとする。
俺は反射的に声をかけた。
「あ、大神さん」
「何だ」
「これだけ反映したら、俺も終わります」
言ってから、自分でも少し意味が分からなくなった。
だから何だという話である。
大神さんも、少しだけ首を傾けた。
「そうか」
「はい」
会話が終わった。
終わったはずだった。
大神さんは一度、俺の机の上へ視線を落とす。
開いた資料。
画面の端に並ぶ修正箇所。
空になった紙コップ。
「何か飲んだ方がいい」
「え?」
「集中が落ちている」
「分かります?」
「少し」
大神さんはそれだけ言うと、今度こそ踵を返した。
俺は彼女の背中を見送る。
廊下の奥へ向かう足音は、すぐに遠ざかっていった。
「……集中が落ちてる、か」
言われてみれば、その通りだった。
同じ行を何度か見直している。
誤字も一つ見落としていた。
俺は背もたれに少し体を預ける。
あと少し。
本当にあと少しだ。
そのあと少しが、残業中は妙に長い。
十分ほど経った頃。
俺はようやく表の修正を終え、追記事項を入力していた。
社内には、もうほとんど人がいない。
空調の音。
パソコンのファンが回る音。
時々、遠くのフロアで何かが動く音。
昼間なら気にならないものが、夜になるとはっきり聞こえる。
そこへ、また足音が近づいてきた。
顔を上げる。
大神さんだった。
少し意外だった。
もう別部署へ戻ったものだと思っていた。
彼女は俺の机の脇で立ち止まると、手に持っていた缶をそっと置いた。
カフェオレだった。
俺が普段、休憩中によく買うもの。
「自動販売機にあった」
大神さんは言った。
「休憩のついでだ」
「……ありがとうございます」
俺は缶を見る。
温かい。
大神さんはブラックコーヒーの缶を持っていた。
つまり、自分の分を買うついでに俺の分も選んだということだ。
特別なことではない。
同僚として、残業している相手に飲み物を買ってくる。
それだけのことだ。
それだけなのだが。
「俺がこれ飲むの、覚えてたんですね」
口にしてから、少し踏み込みすぎた気がした。
大神さんは一瞬だけ黙る。
「何度か見た」
「そうですか」
「違ったか」
「いえ。合ってます」
大神さんの耳が少しだけ動いた。
俺は缶を両手で持つ。
温かさが指先に伝わってくる。
何となく、少しだけ落ち着かない。
陽菜の優しさは、もっと近い。
食事を持って部屋まで来る。
勝手に冷蔵庫を確認する。
疲れていれば、ソファへ押し込む。
分かりやすくて、明るくて、逃げ場がない。
大神さんは違う。
必要な資料を置く。
集中が落ちていると短く言う。
ついでだと言って、飲み物を置いていく。
踏み込んでこない。
だからこそ、残る。
「佐久間」
大神さんの声で、俺は少しだけ我に返った。
「はい」
「顔が止まっている」
「すみません。温かいなと思って」
「そうか」
「缶が」
「缶が」
「はい」
何を言っているんだ、俺は。
温かいのは缶だ。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、わざわざ説明するほどのことでもない。
大神さんは少しだけ俺を見たあと、近くの空いている席へ資料を置いた。
「私も、あと少し確認する」
「まだ作業あるんですか?」
「明日でもいい。だが、ここまで来たので終わらせる」
「分かります」
区切りの悪いところで帰ると、翌朝また同じところから頭を起動しなければならない。
それが妙に面倒なのだ。
大神さんは俺の向かいではなく、一つ隣の机へ座った。
近すぎない距離。
紙をめくる音がする。
時々、ペンが走る。
必要な時だけ、短い言葉を交わす。
「この表、最新版ですか?」
「そうだ」
「共有フォルダにも入ってます?」
「入れた」
「助かります」
「うん」
会話はそれだけ。
静かな時間が流れる。
気まずいわけではない。
むしろ、意外と落ち着く。
俺はカフェオレを一口飲んだ。
甘さが少し疲れた頭に染みる。
缶を置いた時、視界の端で大神さんの尾が小さく揺れた。
資料へ目を落としたままなので、意味は分からない。
意味を考えるほど、俺は大神さんを知っているわけでもない。
ただ。
少し機嫌が悪い時。
少し気まずそうな時。
何かを褒められた時。
耳や尾が、表情より先にほんの少し動く。
そういうことを、俺は少しずつ知り始めている。
「佐久間」
「はい」
「進んでいるか」
「あと二項目です」
「そうか」
大神さんはそれ以上何も言わない。
でも、席を立たない。
自分の仕事が残っているからだ。
それだけだと思う。
それだけなのに、一人で残業している時より肩の力が少し抜けていた。
不思議なものだ。
誰かとずっと話したいわけではない。
何か特別な言葉が欲しいわけでもない。
ただ、同じ空間に誰かがいる。
それだけで、夜の社内の静けさは少し違って聞こえる。
作業が終わった時、時計はそれほど遅い時間にはなっていなかった。
「終わった……」
俺は小さく息を吐き、パソコンを閉じる。
大神さんも顔を上げた。
「終わったのか」
「はい。大神さんは?」
「こちらも終わった」
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
同じタイミングで席を立つ。
俺は空になった缶を捨て、机の上を軽く片づけた。
大神さんも資料をまとめる。
夜の社内を二人で歩く。
昼間なら多くの社員が行き交う通路も、今は静かだった。
照明は少し落とされていて、床へ細長い影が伸びる。
大神さんの足音が、一定の間隔で響く。
俺の少し前。
並んで歩くというより、たまたま同じ出口へ向かっている。
そのくらいの距離だった。
エレベーターに乗る。
扉が閉まる。
狭い箱の中で、二人きりになる。
……狭い。
いや、エレベーターとしては普通だ。
大柄な獣人も使う前提なので、むしろ少し広めですらある。
ただ、大神さんと二人だと、その存在感が近い。
横を向く必要はない。
階数表示を見ればいい。
俺は上を見る。
二階。
一階。
社会人として完璧な階数確認だ。
ふと、大神さんの低い声が横から聞こえた。
「佐久間」
「はい」
「今日は、無理をしていたわけではないのか」
「残業のことですか?」
「そうだ」
「無理ではないです。今日中に区切りをつけたかったので」
大神さんは少しだけこちらを見る。
「なら、いい」
扉が開いた。
俺たちはエントランスへ出る。
外はもう暗い。
自動ドアの向こうで、街灯の光が歩道を照らしている。
「今日はありがとうございました」
俺は言った。
「資料も、カフェオレも」
「ついでだ」
「それでも助かりました」
大神さんの耳が、ほんの少しだけ動いた。
「そうか」
それだけ言って、大神さんは歩道の先へ視線を向ける。
駅までの道は同じ方向だ。
けれど、大神さんは少しだけ立ち止まり、それから言った。
「私は、こちらに寄るところがある」
「あ、分かりました」
「気をつけて帰れ」
「大神さんも」
「うん」
大神さんは短く頷き、駅とは少し違う方向へ歩いていった。
黒に近い銀灰色の髪が、街灯の下で淡く見える。
尾は落ち着いて揺れていた。
俺はその後ろ姿を少しだけ見送る。
大神さんは、たぶん気遣いを言葉にするのが得意ではない。
だから、資料を置く。
飲み物を置く。
短く確認する。
そういう小さな行動に、優しさが混ざる。
目立つものではない。
けれど、一度気づくと妙に残る。
俺は歩き出した。
駅へ向かう夜道は、昼間より少し静かだった。
手の中には、もう空になったカフェオレの缶はない。
それでも指先には、温かさが少しだけ残っている気がした。
……いや。
たぶん気のせいだ。
疲れているだけだろう。
明日は早めに帰ろう。
そう考えながら、俺は駅へ向かった。