大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
大神静玖という人は、社内で少し怖がられている。
理由は分かる。
背が高い。目つきが鋭い。口数が少ない。
それに、狼の特徴を受け継いだ獣人特有の、静かな迫力がある。
廊下の向こうから歩いてくるだけで、社員たちが自然に道を空ける。
本人はただ普通に歩いているだけなのに、なぜかそこだけ映画のワンシーンみたいになる。
俺も、大神さんを見かけるたびに少し緊張していた。
ただし、その緊張の半分くらいは怖さではない。
黒に近い銀灰色の髪。
まっすぐ伸びた背筋。
無駄のない歩き方。
鋭い目元は近寄りがたく見えるのに、整った横顔からは妙に目が離せない。
つい見惚れそうになって、慌てて資料へ視線を落とす。
前世の記憶があるからといって、こういう場面で落ち着いていられるわけではない。
むしろ余計な知識と自覚があるぶん、動揺の逃げ場がない。
だから俺は、大神静玖という同僚とは、なるべく平和な距離を保っていた。
その距離が、今日、段ボール箱三つ分くらい一気に縮むことになる。
「佐久間くん、悪いんだけど、搬入の確認お願いできる?」
午前十時。
上司からそう言われた時点では、俺はまだ何も疑っていなかった。
うちの会社は、住宅設備やオフィス備品を扱っている。
人間用の商品もあれば、大柄な獣人にも対応した商品もある。今日届く予定だったのは、獣人対応のオフィスチェア数脚。
社内検証用のサンプルだ。
俺は軽い気持ちで一階の搬入口へ向かった。
軽い気持ちだった。
本当に、軽かった。
だが搬入口に着いた瞬間、その気持ちはきれいに圧死した。
「……でかいな」
目の前には、俺の胸あたりまである段ボール箱が三つ。
しかも横幅も奥行きもある。箱というより、ちょっとした壁である。
こんなデカいの一人で運べるのか?
箱に貼り付けられてる伝票を見る。
間違いない。獣人対応チェア。組み立て式。検証用。
「椅子って、こんなに存在感出していいんだっけ……」
俺は台車を持ってきて、ひとまず一つ目の箱を動かそうとした。
重い。
いや、椅子なのは分かっている。
中身が空気でできているはずもない。フレームも頑丈なのだろう。大柄な獣人が座る前提なら、耐荷重も相当あるはずだ。
分かっている。
分かってはいるが、それにしても重い。
「よい、しょ……っ」
箱の端を持ち上げ、台車に乗せようとした瞬間だった。
足元で台車の車輪が少し滑った。
「あ」
体勢が崩れる。
箱が傾く。
このままでは、俺はサンプル品と一緒に床へ仲良く倒れる。
いや、仲良くはない。
一方的に潰される。
そう思った直後、背後から低い声がした。
「危ない」
低く、落ち着いた声だった。
大きな声ではないのに、不思議と耳に残る。
余計な感情を乗せない、けれど冷たくもない声。
次の瞬間、箱の重さが消えた。
正確には、箱が横から支えられた。
さらに俺の体も、腰のあたりを片腕で押さえられていた。
大神さんが、そこにいた。
「……大丈夫か」
近い。
そう思った瞬間、俺は自分でもかなり情けないくらい動揺した。
狼を思わせる耳が、こちらにわずかに傾いている。
黒に近い銀灰色の髪が、搬入口の白い照明を受けて少しだけ淡く見えた。
横顔は整っているのに、表情はほとんど動かない。その静けさが、かえって視線を引きつける。
助かった。
それは間違いない。
ただ、命の危機が去った代わりに、心拍数が別方面で危険水域に入っている。
「あ、はい。すみません、助かりました」
「立てるか」
「立てます。大丈夫です」
「そうか」
大神さんは俺から手を離した。
そのまま何事もなかったように箱の位置を直し、台車の上へ軽々と乗せる。
軽々と。
俺がさっきまで苦戦していた箱が、まるで少し大きい紙袋みたいに扱われている。
「……すごいですね」
思わず言うと、大神さんはこちらを見た。
「何がだ」
「いや、その、力が」
「このくらいなら問題ない」
問題ないらしい。
俺にとっては問題しかなかった箱が、大神さん基準では問題ない判定を受けた。
俺の筋力に対する会議が脳内で緊急開催される。
「一人で運ぶつもりだったのか」
大神さんの声は、低く静かだった。
責めているわけではない。
ただ、必要な事実だけを置くような話し方だ。
「一応、その予定でした」
「無理だ」
断言だった。
言葉だけ聞けば冷たくも思える。
けれど、その視線は俺の足元と箱の角、それから台車の位置を順番に確認していた。
俺を責めているのではなく、怪我をしないように見ている。
そう分かった瞬間、怖い人だという印象が、少しだけ形を変えた。
「……ですよね」
「手伝う」
「え、でも大神さん、別部署ですよね」
「今日は検証側の立ち会いで来た。だから問題ない」
大神さんはそう言うと、二つ目の箱に手をかけた。
俺は慌てて反対側を持つ。
「佐久間」
「はい」
「そこは持つな。指を挟む」
「あ、はい」
言われた通りに手をずらす。
「台車は少し斜めに入れた方がいい」
「はい」
「腰を入れすぎるな。箱に引っ張られる」
「はい」
完全に指導されている。
俺は社会人である。
毎日それなりに働いている。
なのに今、狼の特徴を受け継いだ長身の同僚に、荷物の持ち方を教わっている。
しかも悔しいことに、すごく分かりやすい。
大神さんは口数こそ少ないが、説明は的確だった。
声は低く、耳に近いところへすっと届く。
余計な言葉がないぶん、一つ一つがやけにはっきり残る。
「そのまま押せるか」
「押せます」
「無理なら言え」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当にです」
「顔が少し無理をしている」
「顔に出てました?」
「少し」
大神さんは真顔で言った。
顔に出ていたらしい。
陽菜には匂いでバレ、大神さんには顔でバレる。俺の隠蔽能力はどうなっているのか。
エレベーター前まで箱を運ぶ途中、廊下にいた社員がこちらを見て、少しだけ身を引いた。
大神さんは気づいているのか、いないのか。
表情は変わらない。
だが彼女は、箱の角が通行人に当たらないように、ほんの少しだけ自分の体を壁側に寄せた。
俺はそれを見た。
たぶん、周囲の人は気づかない。
大神さんの動きは静かすぎる。
けれど、確かに気遣いだった。
検証室に着くまで、大神さんはほとんど無駄話をしなかった。
必要なことだけを短く言う。
その言葉も、ぶっきらぼうではあるけれど、冷たくはない。
「そこ、段差がある」
「はい」
「台車を止める」
「はい」
「佐久間、少し下がれ」
「はい」
いつの間にか、俺は完全に指示待ちの新人になっていた。
そして最後の箱を運び終えた時、俺は額にうっすら汗をかいていた。
一方、大神さんはまったく息を乱していない。
この差は何だ。
受け継いだ獣の特徴によるものと言えばそれまでだが、日頃の鍛え方の問題もある気がする。耳が痛い。狼耳ではなく俺の耳が。
「助かりました。本当に」
俺が頭を下げると、大神さんは少しだけ視線を逸らした。
「当然のことをしただけだ」
「でも、一人だったらたぶん潰れてました」
「……それは困る」
「困りますね。俺も困ります」
「会社も困る」
「そこは俺個人を心配してくれてもよくないですか?」
そう言った瞬間、大神さんが俺を見た。
鋭い目元。
無表情。
やばい。
調子に乗ったかもしれない。
そう思った時、彼女は短く言った。
「君が怪我をするのも、困る」
俺は一瞬、返事を忘れた。
言い方は淡々としていた。
けれど、その声は思ったより柔らかかった。
低くて、静かで、必要以上に踏み込んでこない。
なのに、ちゃんとこちらに届く声だった。
「……ありがとうございます」
今度は、さっきより少しだけ丁寧に言った。
すると、大神さんの狼耳が、ほんのわずかに動いた。
ぴくり、と。
表情は変わらない。
声も出さない。
けれど耳だけが、たしかに反応した。
俺は見てはいけないものを見た気がして、慌てて視線を箱へ戻した。
「どうした」
「いえ。椅子、大きいなと思って」
「そうだな」
危なかった。
耳が動きましたね、などと言ったら、たぶん空気が終わる。
大神さんは箱の伝票を確認し、必要な書類を机に置いた。
そして出ていく前に、ふと足を止める。
「佐久間」
「はい」
「重い物を運ぶ時は、誰かを呼べ」
「分かりました」
「一人で無理をするな」
その言葉は短かった。
けれど、さっき箱を支えてくれた腕と同じくらい、確かな重さがあった。
「はい。次からそうします」
俺が答えると、大神さんは小さく頷いた。
そして検証室を出ていく。
その後ろ姿を、俺は少しだけ見送った。
長い脚。
まっすぐな背筋。
静かに揺れる尾。
歩くたび、周囲の空気がすっと整うような人だった。
怖い人だと思っていた。
いや、今でも少し怖い。
目つきは鋭いし、口数は少ないし、真顔で「無理だ」と断言してくる。
けれど、それだけではない。
人をよく見ている。
危ないところに先に気づく。
言葉は足りないけれど、行動は驚くほど優しい。
俺は机の上に置かれた書類を見下ろし、小さく息を吐いた。
この日本での生活には慣れている。
獣人のいる職場にも、大柄な同僚にも、もう慣れている。
慣れている、はずだった。
けれど。
狼な同僚に片腕で支えられ、低い声で心配されて、耳が少しだけ動くところを見てしまう。
そんな出来事に慣れるには、俺の社会人経験はまだ少し足りないらしい。