大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
休日の昼どき、俺は部屋着のままソファに沈んでいた。
午前中に洗濯機だけは回した。
それだけで、今日の人類としての活動はだいたい終わった気がしている。
昼飯はどうするか。
冷蔵庫に何かあっただろうか。
なければ、適当にカップ麺でもいい。
そんなことを考えていると、スマホが震えた。
『晴人、起きてる?』
『お昼食べた?』
『食べてないでしょ』
『新しいカフェ行こ!』
返信する前から、すでに俺の昼食予定が書き換えられている。
俺は画面を見つめたまま、ため息をつく。
今日は外に出る予定はない。
できればこのまま部屋で昼を済ませて、午後も何も考えずに過ごしたい。
そう思っていると、さらにメッセージが届いた。
『晴人、どうせ今日は部屋でぐったりしてるでしょ。甘いもの食べに行こ』
俺は画面を見つめた。
……生活習慣を幼なじみに読まれたうえで、昼食予定まで組まれる人生。
二度目の日本でも、これはなかなか経験できない。
返信欄に「今日は家にいる」と打ちかける。
打ちかけて、止まる。
陽菜のことだ。
俺が断れば、たぶん「じゃあ買っていくね!」になる。
そして本当に来る。
甘いものだけでなく、昼飯と、飲み物と、なぜかクッションまで持ってくる可能性がある。
昔からそうだった。
犬飼陽菜は、俺の生活圏へ入ってくる速度が速い。
物理的にも、精神的にも、距離を詰めるのがうまい。
いや、うまいというより、本人に距離を詰めている自覚が薄い。
俺が少しでも元気をなくすと、気づけば隣にいる。
俺が放っておいてほしい時でも、完全には放っておかない。
ただ、それが嫌だったかと聞かれると、困る。
嫌ではなかった。
むしろ、救われたことの方が多い。
だから余計に、断り方が分からない。
『分かった。どこ集合?』
送信すると、三秒で返事が来た。
『迎えに行く!』
早い。
しかも集合場所を聞いたのに、迎えに来ることが決定した。
俺はスマホを置き、しばらく天井を見上げた。
昼飯を食べに行くだけだ。
ただの幼なじみと、休日にカフェへ行くだけ。
そう自分に言い聞かせながら、部屋着から外出用の服に着替える。
ただの幼なじみ。
その言葉は、最近少しだけ使い勝手が悪くなってきている。
十分ほどして、インターホンが鳴った。
玄関を開ける前から、向こう側に誰がいるかは分かっている。
明るい気配というものがあるなら、たぶん今、ドアの向こうで尻尾を振っている。
鍵を開けると、予想どおり犬飼陽菜が立っていた。
「晴人、お昼!」
「挨拶が食事名になってるぞ」
「お昼どきだからね!」
身長二〇七センチ。
ゴールデン・レトリバーの特徴を受け継いだ獣人。
明るい茶色の髪に、ふわりとした犬耳。感情のままに動く大きな尻尾。
そして今日も、存在感がすごい。
休日だからか、陽菜は動きやすそうなパーカーとパンツ姿だった。
運動教室のインストラクターらしく、立ち姿に無駄がない。肩幅も腕も脚も、人間の女性よりずっと大きく、しっかりしている。
それなのに、雰囲気は柔らかい。
陽の当たる場所にいる大型犬みたいに、見ているだけでこちらの緊張をほどいてくる。
……いや、大型犬みたい、というのは幼なじみに対して失礼かもしれない。
ただ、そのくらい陽菜はあたたかい。
「晴人?」
「ん?」
「今、ぼーっとしてた」
「昼飯のことを考えてた」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
嘘である。
正確には、陽菜のことを考えていた。
幼なじみだ。
小さい頃から知っている。
家族ぐるみの付き合いで、昔は泥だらけになって一緒に遊んだ。
だから、見慣れているはずだった。
それなのに、大人になった陽菜を前にすると、時々言葉に詰まる。
大柄で、健康的で、よく笑う。
子どもの頃の面影はたしかにあるのに、もう昔のままではない。
ふとした瞬間の横顔や、こちらを覗き込む時の近さに、心臓が遅れて反応する。
前世の記憶があるぶん、俺はもう少し落ち着いた大人でいられると思っていた。
現実は、二メートル超えの幼なじみに玄関前で笑われただけで、脳内会議が一時中断する程度である。
人間、二度生きても弱いところは弱い。
「じゃ、行こ!」
「はいはい」
陽菜が歩き出す。
マンションの廊下を並んで歩くと、彼女は自然に俺の歩幅へ合わせた。
本気で歩けば、陽菜の方がずっと速い。脚の長さも違うし、そもそもの身体能力も違う。
それでも陽菜は、俺と並ぶ時だけ少しゆっくり歩く。
昔からそうだった。
小学生の頃も、陽菜は俺より速かった。
走ればすぐに遠くへ行けるのに、俺が遅れると必ず振り返った。
そして、何事もなかったみたいに隣まで戻ってきた。
あの頃は、それを当たり前だと思っていた。
今思えば、陽菜はずっと俺を待ってくれていたのかもしれない。
「新しいカフェって、どこにできたんだ?」
「駅の向こう。人間用の席も、大柄な獣人でも座りやすい広い席もあるんだって」
「よく調べてるな」
「晴人と行こうと思ってたから」
「……そういうことをさらっと言うな」
「え? 何が?」
本人はきょとんとしている。
陽菜のこういう無自覚な一言は、心臓に悪い。
小さい頃なら何も思わなかった。
けれど大人になった今、それを同じ温度で受け流せるほど、俺は強くない。
駅の方へ歩くと、昼どきの通りはほどよく賑わっていた。
ベビーカーを押す人間の夫婦。
買い物袋を提げた猫の特徴を持つ女性。
大きな体を少しかがめて古い店の軒を避ける、角のある獣人の男性。
人間と獣人が並んで暮らすこの日本の日常だ。
何もかもが獣人向けに作られているわけではない。
人間も普通に暮らしているし、古い店は人間基準のまま残っている。
けれど、新しい建物や店では、少しずつ両方に合わせた設計が増えている。
今日行くカフェも、その一つらしい。
「あ、ここ!」
陽菜が指さした先には、木目調の落ち着いた外観の店があった。
入口は広めで、普通のドアの横に、大柄な客でも通りやすい自動ドアがある。
店内を覗くと、通常のテーブル席のほかに、背の高い椅子や広めのソファ席も見えた。
昼どきらしく、店内にはランチを取る客が多い。
サンドイッチや食事系パンケーキの匂いが漂ってきて、急に腹が空いてきた。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
店員に聞かれ、陽菜が元気よく頷いた。
「はい!」
「通常席と広めのお席、どちらになさいますか?」
俺が答える前に、陽菜がこちらを見た。
「晴人、どっちがいい?」
「陽菜が楽な方でいいよ」
「じゃあ広い席!」
即答だった。
聞いた意味。
案内されたのは、窓際の広めのソファ席だった。
陽菜が座っても窮屈そうではない。俺が向かいに座ると、テーブルの幅が少し広く感じる。
陽菜はメニューを開くなり、耳をぴんと立てた。
「見て、晴人。チキンサンドある。食事パンケーキもある。あと季節のパフェ」
「昼飯と甘いものを両方行く気だな」
「お昼だからちゃんと食べて、そのあと甘いもの」
「完璧な計画みたいに言うな」
「完璧だよ?」
自信満々だった。
陽菜は真剣な顔でメニューを見つめている。
その横顔を、俺は何となく眺めてしまった。
黙っている時の陽菜は、意外と大人びて見える。
いつも明るくて、よく笑って、尻尾で感情を全部ばらす。
だから忘れそうになるが、陽菜は俺と同い年の社会人だ。
仕事では利用者を相手にインストラクターとして働き、大柄な体をしっかり使いこなしている。
肩や腕には、日々動いている人間の――いや、獣人のしなやかな強さがある。
それでいて、表情は柔らかい。
昔は、陽菜の大きさをただ「すごい」と思っていた。
運動会で誰よりも速く走る背中を見て、単純に憧れた。
今は違う。
大きさだけじゃない。
その体つきも、仕草も、近づいた時の存在感も、全部が妙に意識に引っかかる。
幼なじみという言葉は便利だ。
昔から知っている相手を、ずっと同じ場所に置いておける気がする。
でも本当は、そんなことはできない。
陽菜は変わった。
俺も変わった。
変わっていないのは、陽菜が俺の隣で当たり前みたいに笑うことくらいだ。
「晴人?」
「ん?」
「またぼーっとしてた」
「ランチの重要性について考えてた」
「それは大事だね」
納得された。
ごまかせたらしい。助かった。
注文を終えると、陽菜は水を一口飲んでから、俺をじっと見た。
「で、最近どう?」
「どうって?」
「仕事。忙しいでしょ」
「まあ、少しな」
「少し?」
陽菜の耳が動いた。
「晴人の少しは、信用できない」
「俺の発言、そんなに信用ない?」
「大丈夫って言う時ほど、大丈夫じゃないこと多いから」
陽菜の声が、少しだけ落ち着いた。
いつもの明るい調子ではない。
責めているわけでもない。
ただ、心配している声だった。
俺は言葉を探した。
「限界ってほどじゃないよ」
「限界じゃなくても、疲れるでしょ」
「それはまあ」
「だから今日は外に出す日」
「俺は布団か何かに封印されてたのか」
「ソファに吸われてた」
「だいたい合ってる」
陽菜はにっと笑った。
「晴人、休みの日に一人でいると、ご飯適当にするでしょ」
「……否定はしない」
「で、午後になってからちょっと後悔する」
「俺の休日を見てきたように言うな」
「だいたい分かるよ」
陽菜は胸を張った。
「晴人のこと、ずっと見てきたもん」
その一言は、明るい声で放たれた。
けれど、俺の胸には妙に深く残った。
ずっと見てきた。
確かに、陽菜はずっと近くにいた。
小さい頃も、学生の頃も、社会人になった今も。
前世の記憶を取り戻してしばらくの間、俺はこの世界に馴染めているのか分からなかった。
家族は優しかった。
友人もいた。
けれど、どこかで「前にいた場所」と比べてしまう自分がいた。
そんな時、陽菜は何も知らないまま、当たり前のように隣に来た。
外で遊ぼうと手を引いてきた。
落ち込んでいると勝手に隣に座った。
理由を聞くより先に、「一緒にいる」と言った。
陽菜にとっては、それが普通だったのだと思う。
でも俺にとっては、その普通がありがたかった。
この世界で生きていいのだと、少しずつ思えた。
「……ありがとな」
俺が言うと、陽菜は目を丸くした。
「え、なに急に」
「いや。そういうの、助かってるから」
陽菜の耳がぴんと立った。
次に、尻尾がゆっくり揺れ始める。
まずい。
「陽菜、尻尾」
「え? あっ」
テーブルの端にあったメニュー立てが、尻尾の風圧でぐらりと揺れた。
俺は反射的に手を伸ばして押さえる。
「本日一件目未遂」
「未遂ならセーフ!」
「裁判では情状酌量の余地あり」
「やった!」
「無罪ではない」
「えー!」
ちょうどその時、注文したランチプレートと食事系パンケーキが運ばれてきた。
陽菜の表情がぱっと明るくなる。
耳が立つ。尻尾が動く。
俺は即座にメニュー立てを安全圏へ避難させた。
「晴人、今すごく自然に避難させたね」
「経験が俺を強くした」
「わたしの尻尾、そんなに危ない?」
「正直に言うと、そこそこの危険物」
「危険物……」
陽菜がしゅんとする。
大きな体を少し丸め、耳を伏せる。
その姿を見ると、どうにも言い過ぎた気がしてくる。
「でも、陽菜の尻尾が動いてると、楽しそうなのは分かる」
俺がそう言うと、陽菜は顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ危険物じゃなくて、楽しい物?」
「楽しい物はメニュー立てを倒さない」
「厳しい!」
陽菜は笑った。
その笑顔を見ると、こちらまで少し軽くなる。
疲れていたはずなのに、いつの間にか肩の力が抜けていた。
昼食を食べ終えたあと、陽菜は待ってましたと言わんばかりにデザートメニューを開いた。
「晴人、パフェ半分こしよ」
「半分で済むか?」
「たぶん」
「たぶん」
「晴人も甘いもの食べた方がいいよ」
「分かったよ」
季節のパフェが運ばれてくると、陽菜は幸せそうに目を細めた。
「おいしい」
「よかったな」
「晴人も食べる?」
「いいのか?」
「うん!」
陽菜はスプーンをこちらへ向けかけて、途中で止まった。
そして、なぜか少しだけ固まる。
「……あ」
「どうした?」
「今、普通に食べさせようとした」
「社会人男女の距離感としては、なかなか攻めてるな」
「だ、だよね!」
陽菜の耳が慌ただしく動いた。
尻尾も揺れかけ、本人が必死に押さえる。
珍しい。
いつもなら「昔はやってたじゃん」と言いそうな陽菜が、今はちゃんと照れている。
その反応を見た瞬間、俺まで妙に意識してしまった。
昔なら何でもなかった。
同じジュースを飲むのも、アイスを一口もらうのも、遊び疲れて寄りかかるのも、全部当たり前だった。
でも今は違う。
目の前にいるのは、幼なじみで、俺をよく知る相手で、そして大人になった女性だ。
大きな手。
柔らかく笑う目。
照れて伏せた耳。
その全部が、今さらみたいに俺の中へ入ってくる。
「……じゃあ、器ごと少しもらう」
「う、うん。そうしよ」
陽菜は少しぎこちなくパフェの器を押してきた。
俺はそこから一口もらう。
甘い。
昼飯の後なのに、疲れた体にやけに染みた。
「おいしいな」
「でしょ!」
陽菜は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
陽菜は、距離感が近い。
昔のまま、ずっと近い。
けれど、その近さが変わっていないからといって、俺たち自身まで変わっていないわけではない。
陽菜は俺を見ている。
俺の疲れに気づく。
俺が無理をする前に、こうして連れ出す。
そして俺は、その優しさに安心している。
安心しているくせに、時々どうしようもなく胸が落ち着かなくなる。
前世も合わせれば、精神年齢は40代ぐらいなんだかなぁ。
「晴人」
「何だ?」
「元気、ちょっと戻った?」
「……戻った気がする」
「よかった」
陽菜はほっとしたように笑った。
「晴人が元気ないと、わたしも落ち着かないから」
それは、陽菜にとっては自然な言葉だったのだと思う。
でも俺は、すぐに返事ができなかった。
昼の光が、窓越しに陽菜の髪を淡く照らしている。
大きな体を少しこちらに傾けて、真剣に俺を見る瞳がある。
その近さが、今日は妙に胸に残った。
「……そっか」
どうにか返した声は、自分でも少し頼りなかった。
陽菜は不思議そうに首を傾げる。
「晴人?」
「いや。なんでもない」
俺は水を飲んでごまかした。
昼飯を食べに来ただけのはずだった。
少し気分転換するだけのはずだった。
なのに、帰る頃には別の疲れが増えている気がした。
心臓のあたりに、落ち着かない種類の疲れが。
店を出ると、午後の風が少しだけ冷たかった。
陽菜は隣に並び、歩幅を俺に合わせてくれる。
二メートルを超える彼女が、本気で歩けば俺よりずっと速い。
それでも陽菜は、昔から俺の隣を歩く時だけ、少しゆっくりになる。
「送ってく」
「昼だぞ」
「昼でも送る」
「家、逆方向だろ」
「途中までだから平気」
「途中までって言いながら、だいたい最後まで来るよな」
「晴人の家までが途中かもしれない」
「地図を再定義するな」
陽菜は楽しそうに笑った。
その笑顔に、俺もつられて笑う。
この距離感は、変わらない。
変わらないから安心する。
でも、変わらないままではいられない気もしている。
隣を歩く陽菜の尻尾が、午後の光の中でゆっくり揺れていた。
俺はそれを横目で見ながら、少しだけ息を吐く。
幼なじみの距離感は、社会人になっても更新されない。
けれど俺の方は、どうやら少しずつ、勝手に更新され始めているらしい。