大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
大神さんと、以前より少しだけ話せるようになった。
少しだけ、だ。
廊下ですれ違えば会釈をする。
検証用の備品について確認があれば、短く言葉を交わす。
搬入作業を手伝ってもらった件で、俺が改めて礼を言えば、大神さんはいつも通りの無表情で「問題ない」と返す。
そのくらいの距離だ。
親しい、というには遠い。
けれど、まったく知らない相手というには、少しだけ近い。
その日の夕方、俺が退勤前の資料を片づけていると、部署の入口に大神さんが現れた。
「佐久間」
低く、よく通る声で呼ばれて、俺は顔を上げる。
「はい」
「この前の検証用チェアの確認だ。書類に一点、聞きたいことがある」
「あ、分かりました」
大神さんは、手元の資料を開いて俺の机の横に立った。
黒に近い銀灰色の髪。
まっすぐ伸びた背筋。
狼を思わせる耳は静かに立っていて、尾もほとんど揺れていない。
相変わらず、立っているだけで妙に目を引く人だ。
俺は資料へ視線を落とす。
落とした。
ちゃんと落とした。
……はずなのに、視界の端に大神さんの姿勢のよさとか、スーツ越しでも分かる長身のラインとかが入ってくる。
やめろ、俺。
これは仕事中だ。
社会人として資料を見ろ。
大神さんを見るな。
いや、相手が説明している以上、まったく見ないのも失礼ではある。
つまり俺は今、礼儀と理性の間で板挟みになっている。
「ここだ」
大神さんが資料の一点を指差す。
「この寸法は、人間用の標準値か」
「はい。こっちは人間用で、下の欄が大柄な獣人向けの対応値です」
「分かった」
確認はすぐに終わった。
大神さんは資料を閉じると、ふと俺を見た。
「今日は、無理をしていないか」
「大丈夫です。今日は重い物も運んでません」
「それはいい」
「そこ基準なんですね」
大神さんの耳が、ほんの少し動いた。
笑った、のかもしれない。
表情はほとんど変わっていないので、判断は難しい。
ただ、その小さな反応が少しだけ印象に残る。
やがて終業時刻になり、俺は鞄を持って部署を出た。
ちょうど大神さんも別部署の方へ戻る途中だったらしく、エレベーター前でまた顔を合わせる。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
短く言葉を交わす。
一緒に帰る、というほどではない。
ただ、会社の出口までは同じ方向だった。
そのまま二人で自動ドアを抜けた時だった。
「晴人ー!」
会社の前の歩道で、聞き慣れた明るい声が弾けた。
振り向く前から分かる。
この声で俺を呼ぶ人物は、一人しかいない。
俺の幼なじみ、犬飼陽菜である。
陽菜は歩道の少し先で、大きく手を振っていた。
明るい茶色の髪。ふわりとした犬耳。感情を隠す気のない尻尾。
そして、今日も遠目で分かる二〇七センチの存在感。
「陽菜?」
「迎えに来た!」
「頼んでないけど」
「近くまで来たから!」
この言い方の時、陽菜はだいたい本当に近くまで来ている。
ただし、その「近く」の範囲が少し広い。
徒歩二十分圏内は、陽菜の中では近所である。
地図アプリもたぶん泣いている。
陽菜は俺の前まで来ると、いつもの調子で顔を覗き込んだ。
「晴人、今日はちゃんと元気?」
「だから近い」
「顔見ないと分かんないじゃん」
「普通はもう少し離れて確認する」
「晴人は遠いとごまかすから」
会話がすでに見慣れた流れになっている。
俺の行動パターンは、幼なじみにかなり読まれているらしい。
陽菜はそこで、ようやく俺の隣にいる大神さんに気づいた。
「あっ」
陽菜の耳がぴんと立つ。
大神さんの狼耳も、ほんの少しだけ動いた。
一瞬、空気が止まった。
二メートルを超えるゴールデン・レトリバーの特徴を受け継いだ幼なじみ。
二メートル級のシンリンオオカミの特徴を受け継いだ同僚。
明るい大型犬と、静かな狼。
その二人が、俺を挟む位置で向かい合っている。
俺は思った。
これ、俺が間にいる必要あるか?
「はじめまして! 犬飼陽菜です。晴人の幼なじみです!」
陽菜が元気よく頭を下げた。
尻尾がぶん、と揺れる。
俺は反射的に半歩下がった。経験が人を育てる。
大神さんは落ち着いた動作で会釈する。
「大神静玖です。佐久間とは、同じ会社で働いています」
声が静かだ。
短い。
でも礼儀正しい。
陽菜はぱっと顔を明るくした。
「大神さん! 晴人がお世話になってます!」
「いや、母親か」
「幼なじみ代表として」
「そんな代表選出してない」
大神さんが俺を見る。
「昔から、こうなのか」
「だいたいこうです」
「そうか」
大神さんは納得したように頷いた。
納得しないでほしい。
いや、間違ってはいないのだが。
陽菜は俺の横に並ぶと、自然に俺の肩へ手を置いた。
自然すぎた。
呼吸と同じくらい自然だった。
「晴人、今日もちゃんと帰れそう?」
「会社の前で社会生活を心配するな」
「だって放っておくと無理するし」
「その話、今日何回目だ」
陽菜の手は大きい。
肩に置かれると、軽いはずなのに存在感がある。
そして近い。
昔からこうだ。
陽菜は俺の近くに来るのが当たり前で、俺もそれを拒んでこなかった。
ただ、会社の前で、大神さんの横で、同じ距離感をされると妙に落ち着かない。
視界の端で、大神さんが静かに陽菜の手を見た気がした。
ほんの一瞬だ。
何かを言うわけでもない。
表情も変わらない。
でも、見た。
俺はなぜか言い訳したくなった。
いや違う。
何が違うのかは分からないが、違う。
これは幼なじみの通常距離である。
社会的に説明しづらいだけで、通常距離である。
「佐久間は、今日は無理をしていないようだった」
大神さんが言った。
陽菜の耳が動く。
「大神さん、晴人のこと見てくれてたんですか?」
「搬入の件があったので」
「搬入?」
「あー、それは……」
俺が説明しようとすると、大神さんが淡々と続けた。
「以前、重い荷物を一人で運ぼうとしていた。危なかった」
「晴人」
陽菜の声が低くなった。
俺は即座に背筋を伸ばした。
「はい」
「また一人で無理したの?」
「いや、あれは結果的に少し重かっただけで」
「少し?」
陽菜の目が細くなる。
ゴールデン・レトリバーの特徴を受け継いでいても、怒る時は普通に圧がある。
隣では大神さんが黙っている。
しかしその沈黙が、なぜか証人席の重みを持っている。
やめてほしい。
左右から証拠を固めないでほしい。
「次からは誰か呼ぶって大神さんにも言いました」
「ほんと?」
「本当です」
「大神さん、晴人ほんとに言ってました?」
「言っていた」
大神さんが短く答える。
陽菜はほっとしたように息をついた。
「ならいいけど」
「俺の信用、大神さん経由なんだな」
「だって晴人は大丈夫って言うから」
「そこは否定できない」
陽菜は俺の肩から手を離した。
少しだけ、空気が軽くなる。
と思ったのも束の間、陽菜が大神さんに向き直った。
「大神さん、ありがとうございます。晴人、たまに自分のこと後回しにするので」
「そうなのか」
「そうなんです」
「本人の前で個人情報を開示するな」
「大事な情報だから」
「俺の取扱説明書を配布するな」
大神さんはほんの少し考えるように俺を見た。
鋭い目元。
落ち着いた声。
必要なことだけを拾うような視線。
「覚えておく」
「覚えなくていいです」
「必要な情報だ」
「必要判定された」
陽菜が嬉しそうに笑った。
「大神さん、分かってる!」
「陽菜は俺の何なんだ」
「幼なじみ!」
即答だった。
その即答が、妙に胸に引っかかる。
幼なじみ。
間違っていない。
陽菜は俺の幼なじみだ。ずっと近くにいて、俺の変なところも弱いところも知っている。
その言葉は安心する。
安心するのに、時々少しだけ苦しい。
俺はそれを考えないようにして、視線を前へ戻した。
「駅まで行くなら、私も途中まで同じ方向だ」
大神さんが言った。
陽菜がぱっと顔を明るくする。
「じゃあ一緒に行きましょう!」
「構わない」
構う。
主に俺の心が。
数分後、俺は会社から駅へ向かう歩道を、二人に挟まれて歩いていた。
左に陽菜。
右に大神さん。
俺は今、二メートル級の獣人女性二人に挟まれている。
まず、圧がすごい。
物理的な圧が。
陽菜は明るく話しかけてくる。
大神さんは一歩落ち着いた距離で歩いている。
二人とも歩幅を俺に合わせてくれているのは分かる。
分かるのだが、それでも存在感が強い。
そして、なるべく意識しないようにしているのだが、俺の身長的にどうしても二人のある部分が視界に入る。
まあ、なんというか。
でかいお山が。
陽菜は健康的で柔らかそうな存在感があるし、大神さんは姿勢がいいせいで、スーツ越しのラインがやけにはっきりしている。
いや違う。
分析するな、俺。
これは不可抗力だ。
視界の問題だ。
俺は見ようとしているわけではない。
ただ、左右に二メートル級の女性がいて、なおかつ俺が一七三センチである以上、視野には限界というものがある。
前を見ろ。
前だけを見るんだ。
俺はまっすぐ前を見た。
なお、前を見ても視界の端に圧が残る。
逃げ場がない。
「晴人、どうしたの? 顔赤くない?」
「夕日だ」
「まだそんなに夕日じゃないよ」
「心の夕日だ」
「何それ」
陽菜が首を傾げる。
大神さんがこちらを見た。
「熱があるのか」
「ないです」
「顔色は少し変わった」
「気のせいです」
「そうか」
大神さんはそれ以上追及しなかった。
助かった。
大神さんのこういう、必要以上に踏み込んでこないところはありがたい。
ありがたいのだが、横にいるだけで妙に緊張する。
声をかけられると背筋が伸びるし、視線を向けられると妙に言葉を選んでしまう。
陽菜とは違う緊張だ。
陽菜は近い。
近すぎるくらい近い。
だからこそ、俺はその近さに甘えてきた。
大神さんは近づきすぎない。
けれど、危ない時には手を伸ばす。
その一歩分の距離が、かえって意識に残る。
「大神さんって、晴人の部署とよく関わるんですか?」
陽菜が聞いた。
「頻繁ではない。検証や確認がある時だけだ」
「へえ。晴人、ちゃんと働いてます?」
「働いている」
大神さんは即答した。
「少なくとも、真面目ではある」
「少なくともって何ですか」
「たまに無理をする」
「やっぱり」
陽菜が俺を見る。
「晴人」
「はい」
「無理しない」
「本日何度目だこの注意」
「大事なことは何回でも言う」
大神さんが小さく頷いた。
「それは正しい」
「大神さんまで」
左右から正論が来る。
逃げ道がない。
物理的にも正論的にも、俺は挟まれている。
陽菜は大神さんに向かってにこっと笑った。
「大神さん、静かだけど優しいんですね」
その一言に、大神さんの耳がかすかに動いた。
俺は見た。
陽菜もたぶん見た。
大神さんは表情を変えずに答える。
「普通だ」
「普通かなあ」
陽菜は楽しそうに首を傾げた。
「でも、晴人のこと助けてくれたなら、わたしは嬉しいです」
「……そうか」
大神さんの声が、ほんの少しだけ低くなった気がした。
照れている。
かもしれない。
まだ判断できるほど分かってはいない。
けれど、耳は正直だった。
陽菜はそういう反応を見逃さないタイプだ。
尻尾が少し揺れ始める。
まずい。
このままでは陽菜が距離を詰める。
「陽菜、駅まで急ぐんじゃなかったか」
「え、別に急いでないよ?」
「急いでいたことにしてくれ」
「なんで?」
「平和のために」
「晴人、たまに変なこと言うよね」
たまにではないかもしれない。
最近はわりと頻繁だ。
駅前に近づく頃には、三人で歩くことへの通行人の視線にも慣れてきた。
いや、慣れてはいない。
諦めただけだ。
そもそも陽菜と大神さんが並んでいるだけで目立つ。
明るく人懐っこい大型犬の陽菜と、静かで凛とした狼の大神さん。
タイプはまるで違う。
けれど、どちらも人目を引く。
その二人の間に俺がいる。
通行人からはどう見えているのだろう。
護送中の人間か。
保護対象か。
あるいは迷子防止の紐をつけ忘れた何かか。
「佐久間」
駅の手前で、大神さんが足を止めた。
「私はここで」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「礼を言われることはしていない」
大神さんはそう言って、少しだけ視線を外した。
陽菜がにこにこしている。
その顔はやめろ。
何かを察したみたいな顔をするな。
「大神さん、また晴人をよろしくお願いします!」
「陽菜、だから母親か」
「幼なじみ代表!」
「そんな代表は存在しない」
大神さんは陽菜に向かって丁寧に会釈した。
「こちらこそ。佐久間が無理をしていたら、止める」
「お願いします!」
「お願いするな」
俺の意思が左右から消えていく。
大神さんは最後に俺を見る。
「気をつけて帰れ」
「大神さんも」
「分かった」
短く答えて、大神さんは駅の別方向へ歩いていった。
その後ろ姿は、やはり静かだった。
人混みの中でも、歩き方に無駄がない。尾の揺れも小さく、背筋はまっすぐ伸びている。
俺がそれを少し見送っていると、横から陽菜の声がした。
「晴人」
「何だ?」
「大神さんって、いい人だね」
「ああ。たぶん、すごく」
「たぶん?」
「まだ、そこまでよく知ってるわけじゃないから」
「そっか」
陽菜はそう言って、少しだけ俺を見た。
いつもの明るい顔だった。
けれど、その耳が一瞬だけ小さく揺れた気がした。
「じゃあ、これから知っていくんだね」
「仕事で関わることはあるだろうしな」
「ふーん」
「何だよ」
「別に?」
陽菜は笑った。
その笑顔は明るい。
明るいのに、どこか少しだけ探るようでもあった。
俺はその意味を深く考えないことにした。
今日だけで、俺の頭はもう十分働いている。
陽菜が隣に並ぶ。
「じゃ、帰ろっか」
「送るとか言い出すなよ」
「駅まで来たし、途中まで」
「また途中の範囲が広いやつだ」
「晴人の家までが途中かもしれない」
「地図を再定義するなって前も言った」
陽菜は楽しそうに笑った。
その笑顔に、俺もつられて息を吐く。
大型犬な幼なじみと、狼な同僚。
二人が初めて並んだだけで、俺の平穏は想像以上に揺れた。
恋愛とか、そういう言葉で整理するにはまだ早い。
少なくとも、今の俺には早すぎる。
ただ、一つだけ分かったことがある。
二メートル級の女性二人に挟まれると、人間は前を見るだけでもかなりの精神力を使う。
俺はそれを、今日の教訓として胸に刻んだ。
ここで、言うと主人公の身長は173cmです。
そして、幼馴染と同僚のお二人の身長は2メートル越え。
あとは言わなくてもお分かりいただけるでしょう。