大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
週明けの朝は、いつも少しだけ職場の空気が重い。
エレベーターの中では、誰もがまだ休日の名残を背中に貼りつけている。
人間の社員も、獣人の社員も、それぞれの眠気を抱えたまま、無言で階数表示を見上げていた。
俺もその一人だった。
別に仕事が嫌なわけではない。
ただ、月曜の朝というものは、人生に何度目があっても慣れない。
一度死んで生まれ直しても、慣れないものは慣れないのである。
「おはよ、佐久間」
デスクに鞄を置いたところで、隣から声をかけられた。
浅見拓也。
俺の同期で、人間の同僚だ。
軽口は多いが、仕事はそこそこできる。そこそこ、という言い方を本人にすると怒るが、俺の中ではそこそこできる男として登録されている。
「おはよう」
「顔が眠そうだな」
「お前もな」
「俺はまだ日曜を諦めてない」
「出社してる時点で負けてるぞ」
浅見は深いため息をつきながら、自分の席に腰を下ろした。
そんな朝の気だるさが、ようやく仕事用の空気へ切り替わり始めた頃だった。
商品企画部の三枝千夏先輩が、資料を片手に俺たちの島へやって来た。
三枝先輩は人間で、仕事が早い。
判断も早い。
ついでに、人を巻き込む判断も早い。
嫌な予感がした。
「佐久間くん、今日の午後、検証室に来られる?」
「検証室ですか?」
「うん。例の獣人対応チェア、社内検証するから。資料担当として立ち会ってほしくて」
「ああ、分かりました」
そこまでは普通だった。
獣人対応チェア。
大柄な獣人が長時間座っても安定するように作られた、座面の広いオフィスチェアだ。
先日搬入されたばかりで、今日はその使用感を社内で確認する予定になっている。
俺の担当は、検証内容の記録と資料化。
つまり、立って見て、メモを取る仕事である。
そのはずだった。
三枝先輩はにこりと笑った。
「あと、人間側の比較データも欲しいんだよね」
俺は一瞬、返事を忘れた。
横で浅見が、こちらを見た。
その顔には、すでに面白そうなものを見つけた人間の気配があった。
「佐久間」
「何だ」
「お前、今日なにかに座らされる顔してる」
「やめろ。不吉な未来予知をするな」
しかし、未来はだいたい浅見の言った通りになった。
午後。
検証室には、例の獣人対応チェアが三脚並んでいた。
座面は広い。
背もたれは高い。
肘掛けは頑丈。
全体的に、椅子というより小型の要塞みたいな存在感がある。
検証室の奥では、ヒグマの特徴を受け継いだ熊谷亮介主任が、チェアの脚部を確認していた。
身長は二二〇センチ近くあり、穏やかな表情をしているのに、立っているだけで壁のような安心感がある。
その近くには、大神さんもいた。
黒に近い銀灰色の髪。
まっすぐな背筋。
静かに立つ狼耳。
いつも通り表情は読みにくいが、検証用の資料に目を落とす姿は妙に絵になる。
俺は慌てて視線をチェアへ戻した。
仕事だ。これは仕事である。
職場で同僚の立ち姿に気を取られている場合ではない。
「佐久間くん」
三枝先輩が、クリップボードを構えたまま言った。
「ちょっと座ってみて」
「俺がですか?」
「うん。人間側の比較データも欲しいから。足のつき方とか、肘掛けの位置とか、座面の余り方とか」
「座面の余り方」
「大事なデータだよ」
三枝先輩は真面目な顔をしていた。
真面目な顔なのに、少し楽しそうなのは気のせいだろうか。
浅見が隣で親指を立てた。
「頑張れ、佐久間。俺は記録係として、お前の勇姿を見届ける」
「その勇姿、たぶん椅子に足が届かない姿なんだが」
「なおさら記録価値がある」
「お前が代わってくれてもいいぞ」
浅見は爽やかに笑った。
味方の顔をした観客だった。
俺は目の前の椅子を見た。
どう見ても、俺のサイズではない。
嫌な予感がした。
この椅子に座った瞬間、俺はたぶん、会社員ではなく検証用の展示品になる。
「では、佐久間くん。まず普通に座って」
「普通に、ですね」
「うん。なるべく自然に」
自然に。
俺は小型要塞に腰を下ろした。
沈み込むほどではない。
座面はしっかりしている。背もたれも安定している。たしかに椅子としての品質は高い。
ただし、問題があった。
足が、床につかない。
正確には、つま先だけがかろうじて床に触れている。
かかとは完全に浮いている。
「……三枝先輩」
「うん、見えてる」
「これ、俺が悪いんですか?」
「椅子と佐久間くんの相性の問題かな」
「言い方」
浅見が横で肩を震わせていた。
「佐久間、今のお前、社長室に迷い込んだ新人みたいになってる」
「新人にしても扱いが雑だろ」
「いや、悪くないぞ。威厳はないけど」
「そこまで言えとは言ってない」
三枝先輩は冷静にメモを取っている。
「足裏接地、ほぼなし。肘掛け、やや高め。座面、左右にかなり余裕あり」
「かなり余裕あり」
「大事なデータだよ」
「さっきからデータの名を借りた攻撃が多くないですか?」
「仕事だから」
便利な言葉だ。
仕事だから。
この一言で、人間はかなりのことを正当化できる。
俺は座面の上で姿勢を直した。
直したところで、足は浮いたままだ。
浅見が小声で言う。
「ちょっと足ぶらぶらしてみろよ」
「しない」
「資料映えするぞ」
「映えなくていい」
その時、大神さんの狼耳が、ほんの少しだけ動いた。
俺は見逃さなかった。
「大神さん」
「何だ」
「今、笑いました?」
「笑っていない」
表情は変わらない。
声も変わらない。
けれど耳は動いた。
俺はもう、大神さんの耳がたまに本音を漏らすことを知っている。
いや、知っていると言えるほど親しくはない。
ただ、数回見ただけだ。
それでも、あれはたぶん笑いに近い何かだった。
浅見が俺の横に寄ってきて、小声で囁いた。
「大神さん、今ちょっと笑ってたな」
「やめろ。俺の心の安全を壊すな」
「お前、最近大神さんの耳ばっか見てない?」
「見てない」
「即答が早い時はだいたい怪しい」
「同期ってもっと味方じゃなかったか?」
「味方だから教えてやってるんだよ」
こいつの味方の定義は、一度社内研修で見直した方がいい。
「次は熊谷主任、お願いします」
三枝先輩が声をかけると、熊谷主任が穏やかに頷いた。
「分かった」
熊谷主任が椅子に座る。
すると、先ほどまで俺を小型要塞に変えていた椅子が、急に普通のオフィスチェアに見えた。
足はしっかり床につく。
背もたれの高さも自然。
肘掛けの位置も合っている。
これが本来の姿なのだろう。
「座面の幅は十分だな。背もたれも悪くない。ただ、長時間なら腰当ての調整幅がもう少し欲しい」
熊谷主任は落ち着いた声で言った。
大きい。
とにかく大きい。
だが、動作はゆっくりで、声も穏やかだ。
同じ大柄な獣人でも、陽菜の明るい圧とはまるで違う。
熊谷主任は俺の方を見て、少し笑った。
「佐久間が座ると、ずいぶん違って見えたな」
「主任まで」
「いや、参考になる。人間と獣人が同じ空間で使う備品なら、両方の感覚が必要だ」
そう言われると、少しだけ抵抗しづらい。
俺は展示品ではなく、ちゃんと仕事をしている。
そう思うことにした。
精神衛生のために。
「では、大神さんもお願いします」
三枝先輩が言った。
大神さんは短く「はい」と答え、椅子の前に立った。
俺は資料へ目を落とした。
落とした。
落としたのだが。
大神さんが椅子へ腰を下ろす動きが、視界の端に入る。
背筋がまっすぐで、動作に無駄がない。
膝を曲げ、座面に体を預けるまでの所作が妙に静かだ。
椅子の大きさも、大神さんには自然に合っていた。
スーツ越しでも分かる長身のライン。
背もたれに沿う姿勢のよさ。
肘掛けに置かれた手の指先。
俺は資料を見ている。
見ているはずだ。
だが、仕事上の確認として、座面との適合性を確認する必要がある。
これは椅子の検証だ。
人ではなく椅子を見ている。
椅子を見ているのだ。
「佐久間」
浅見の声が耳元で聞こえた。
「見すぎ」
「椅子を見てるんだよ」
「椅子のどのへん?」
「全体」
「へえ」
「その顔やめろ」
浅見はにやにやしていた。
本当に、こいつは同期でよかった。
上司だったら評価面談でこちらの心が死んでいた。
「座面の奥行きは問題ない。背もたれは少し硬いが、許容範囲だと思う」
大神さんは淡々と感想を述べる。
三枝先輩がメモを取る。
「肘掛けは?」
「位置は合っている。ただ、長時間の作業なら高さ調整が細かい方がいい」
「なるほど」
大神さんは必要なことだけを言う。
けれど、その内容は具体的だった。
感覚だけではなく、実際の仕事で使う場面を考えている。
無口だが、見ているところは細かい。
その印象は、前より少し強くなった。
「佐久間」
大神さんが急にこちらを見た。
「はい」
「さっきの姿勢だと、足が安定していなかった」
「はい」
「肘掛けも高すぎた。あれでは肩に力が入る」
「……見てたんですか」
「検証だから」
当然のように言われた。
いや、当然だ。
俺は比較データとして座っていた。見られるのが仕事である。
しかし、実際に言われると微妙に恥ずかしい。
「人間が使う可能性もあるなら、座面高の調整幅は必要だと思う」
大神さんは続けた。
「それと、肘掛けももう少し下げられる方がいい。佐久間のような体格だと、長時間は疲れる」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
からかわれているのだと思っていた。
いや、周囲の何人かは明らかに面白がっていた。特に浅見。
けれど大神さんは、ちゃんと見ていた。
俺が足を浮かせていたことも、肘掛けの高さに困っていたことも、単なる笑いどころではなく、改善点として見ていた。
「……ありがとうございます」
俺がそう言うと、大神さんは少しだけ視線を外した。
「仕事だから」
その言い方はいつも通り淡々としていた。
でも、どこか優しかった。
三枝先輩がぱん、と手を叩く。
「よし、方向性は見えてきたね。大型獣人向けの安定感は残しつつ、人間も一時的に使える調整幅を入れる。これでまとめよう」
「一時的に、なんですね」
「佐久間くんが一日中これに座ったら、たぶん足が悲鳴を上げるから」
「足にも人権があります」
「あるね。だから改善する」
三枝先輩はさらさらとメモを書き込んだ。
熊谷主任が穏やかに頷く。
「共用備品なら、誰かにだけ負担が偏るのはよくない。いい検証だった」
「そう言ってもらえると、少し救われます」
浅見が笑った。
「よかったな、佐久間。お前の足ぷらぷらにも意味があったぞ」
「言い方」
「まぁ、これも仕事の内だろ…クク」
「今笑ったよな?」
三枝先輩が真面目な顔で言った。
「でも実際、佐久間くんの足ぷらぷらは立派なデータだよ」
「先輩まで」
「資料に書く時はもう少しちゃんとした表現にするから」
「ちなみに?」
「下肢接地不良」
「急に業務資料っぽくなった」
「仕事だから」
また出た。
仕事だから。
この会社では、俺の尊厳も業務用語に変換されるらしい。
検証が終わり、俺は資料をまとめながら小さく息を吐いた。
今日分かったこと。
獣人対応チェアは大きい。
熊谷主任が座ると普通に見える。
大神さんが座ると妙に絵になる。
俺が座ると足が浮く。
そして、浅見は味方の顔をした観客である。
「佐久間」
大神さんの声がした。
顔を上げると、彼女が資料を一枚差し出していた。
「ここ、私の使用感も追記しておいた」
「あ、ありがとうございます」
「それと」
「はい」
大神さんは少しだけ間を置いた。
「さっきの椅子だが」
「はい」
「似合っていないわけではなかった」
俺は固まった。
褒められたのか。
慰められたのか。
それとも高度な追撃なのか。
判断がつかない。
大神さんの表情は変わらない。
けれど耳が、ほんのわずかに動いた。
浅見が後ろで吹き出した。
「佐久間、よかったな。似合ってないわけではないって」
「お前は黙ってろ」
「絶妙な評価だな」
「黙ってろ」
大神さんは不思議そうにこちらを見ている。
たぶん、悪気はない。
本気でそう言ったのだと思う。
だからこそ困る。
俺は資料を受け取りながら、どうにか平静を装った。
「……ありがとうございます」
「うん」
大神さんは小さく頷いて、検証室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は思った。
大神さんは、やっぱり少し分かりにくい。
けれど、ちゃんと見ている。
人を笑いものにするためではなく、必要なことを見落とさないために。
その視線が、少しだけくすぐったい。
「佐久間」
浅見が肩を叩いてきた。
「何だ」
「今日のお前、なかなか面白かったぞ」
「俺は比較対象であって、娯楽ではない」
「安心しろ。ちゃんと両方だった」
「安心できる要素が一つもない」
三枝先輩がクリップボードを閉じる。
「じゃあ佐久間くん、今日の検証メモ、夕方までにまとめてね」
「分かりました」
「タイトルは『獣人対応チェアにおける体格差使用感比較』で」
「急にちゃんとしてる」
「仕事だからね」
俺は頷いた。
仕事だから。
全てを正当化する魔法の言葉だ。
俺の足が浮いたことも。
浅見に笑われたことも。
大神さんに反応に困る微妙な評価をされたことも。
全部、仕事だから。
そう思わないと、やってられないな。
仕事とはいえ、勘弁してほしいもんだ。
そんなこと頭に浮かべながら俺は資料を抱え、検証室を出た。
背後で浅見がまだ笑っていた。
次に椅子の検証がある時は、絶対に記録係に回ろう。
俺は、心の中で固く決意した。
あと、浅見お前のことは絶対同じ目に合わせてやるからな。