大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている   作:とりにく

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狼の耳は、意外と正直だった

 

午後の社内は、朝よりも少しだけ音が増える。

 

キーボードを叩く音。

コピー機が紙を吐き出す音。

誰かが椅子を引く音。

獣人用の広めの通路を、大柄な社員がゆっくり歩いていく足音。

 

その中を、俺は資料を抱えて廊下を歩いていた。

 

今日中に確認を取らなければならない書類がある。

検証室から戻ってきた修正案と、商品企画部の確認項目。

正直、紙の束を持って移動しているだけで、少し仕事をしている気分になる。

 

実際には、まだ確認が終わっていないので何も終わっていない。

社会人の達成感は、たまに錯覚でできている。

 

廊下の先で、人の流れが少しだけゆるんだ。

 

自然に視線を上げる。

 

大神さんがいた。

 

黒に近い銀灰色の髪。

まっすぐ伸びた背筋。

静かに立つ狼耳。

手には資料を持っていて、目の前には他部署の若い社員が一人。

 

大神さんは、ただ立っているだけで目立つ。

 

背が高いから、というだけではない。

姿勢が崩れない。

視線がまっすぐで、声が低い。

余計な動きが少ないせいで、周りの空気まで少し静かになる。

 

俺も少し前までは、大神さんを見かけると反射的に背筋が伸びていた。

 

いや、今も伸びる。

そこは否定できない。

 

ただ、前とは少し違う。

 

あの人は、たぶん怒っているわけじゃない。

言葉が短いだけだ。

必要なところを見て、必要なことだけを言う。

そのせいで、少し冷たく見える。

 

そう思えるくらいには、俺も大神さんのことを少しだけ知った。

 

「この数値は、違う」

 

大神さんの声が廊下に落ちた。

 

大きな声ではない。

けれど、低くてよく通る。

 

目の前の若い社員が、びくりと肩を揺らした。

 

「す、すみません……!」

 

彼は慌てて資料を見直す。

指先が少し震えていた。

たぶん、怒られたと思っている。

 

大神さんは表情を変えないまま、資料の一点を指で示した。

 

「ここは獣人対応値ではなく、人間用の標準値だ。混ざると、発注先に誤った寸法で伝わる」

 

言っていることは正しい。

 

むしろ、かなり大事な指摘だ。

人間用と大柄な獣人向けの寸法が混ざれば、後で面倒なことになる。

椅子なら高さが合わない。机なら膝が入らない。扉なら通りにくい。

小さな数字の違いが、使う人にとっては大きな不便になる。

 

けれど、大神さんの言葉は短い。

 

正しい。

正しいのだが、受け取る側に余白が少ない。

 

若い社員は、完全に固まっていた。

 

俺は資料を抱え直しながら、少しだけ足を速める。

 

このままだと、彼はたぶん「大神さんに怒られた」という記憶だけを持ち帰る。

実際には、怒られたというより、事故を未然に止められただけなのに。

 

「すみません、横から失礼します」

 

俺が声をかけると、若い社員がこちらを見た。

 

大神さんも、静かに視線を向けてくる。

 

その視線を受けた瞬間、俺は一瞬だけ言葉を選んだ。

 

やっぱり目力が強い。

悪意がないのは分かっている。

分かっているが、正面から見ると少し心臓にくる。

 

ついでに、姿勢がよすぎる。

 

スーツの線がすっと通っていて、長身の輪郭がやけに整って見える。

あまり意識しないようにしているのだが、こういう真正面の位置はよくない。

視線の逃げ場が、資料か床くらいしかない。

 

俺は迷わず資料を選んだ。

 

社会人として正しい選択である。たぶん。

 

「この項目、間違いやすいんですよ。人間用と獣人対応値が同じ表に入ってるので」

 

俺は若い社員に向けて言った。

 

「前にも別件で似た修正が出てました。ここで気づけたなら、むしろ助かった方だと思います」

 

若い社員の表情が、少しだけ緩んだ。

 

「そ、そうなんですか」

 

「はい。発注前でよかったです」

 

そう言ってから、俺は大神さんを見る。

 

「ですよね、大神さん」

 

大神さんは一拍置いて、短く頷いた。

 

「そうだ。今なら直せる」

 

若い社員は、ようやく息を吐いたようだった。

 

「ありがとうございます。すぐ修正します」

 

そう言って、彼は資料を抱えて足早に戻っていった。

 

廊下に残ったのは、俺と大神さんだけだった。

 

正確には、通り過ぎる社員は何人もいる。

けれど、一瞬だけ周囲の音が遠くなった気がした。

 

大神さんは若い社員の背中を見送り、それから俺を見る。

 

「助かった」

 

低い声だった。

 

さっきと同じ声のはずなのに、少しだけ違って聞こえた。

 

俺は資料を持ち直しながら、首を振る。

 

「いえ。大神さんの指摘が正しかっただけです」

 

「だが、怖がらせた」

 

表情は変わらない。

けれど、狼耳がほんの少しだけ伏せたように見えた。

 

俺はその動きを見て、言葉を探す。

 

大神さんは、怖い人ではない。

 

でも、怖く見られやすい。

本人もそれを分かっているのかもしれない。

 

そう思った瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが残った。

 

「怖いというより、少し緊張したんだと思います」

 

俺は言った。

 

「大神さん、言うことが短いので」

 

「……そうか」

 

「でも、ちゃんと見てるからこそ気づいたんですよね」

 

大神さんの耳が、ぴくりと動いた。

 

表情はそのまま。

声も出ない。

けれど耳だけが、ほんの少し正直だった。

 

俺は思わず視線を逸らす。

 

まずい。

最近、大神さんの耳の動きに反応する速度が上がっている気がする。

 

これは観察ではない。

業務上の変化検知だ。

そういうことにしておきたい。

 

廊下の向こうで、浅見がこちらを見ていた。

 

目が合う。

 

浅見は、にやっと笑った。

 

嫌な予感がした。

 

これはたぶん、あとで絶対に茶化されるやつだ。

 

「佐久間」

 

大神さんの声で、俺は視線を戻した。

 

「はい」

 

「今の説明は、分かりやすかった」

 

「え?」

 

「私より、相手に伝わっていた」

 

淡々とした言い方だった。

 

けれど、そこに少しだけ沈んだ響きが混じっている気がした。

 

大神さんは、手元の資料に目を落とす。

その横顔はいつも通り整っていて、表情もほとんど動かない。

けれど、耳だけがわずかに伏せている。

 

……なるほど。

 

この人は、分かっていないわけじゃない。

自分の言い方が硬いことも、怖がられやすいことも、たぶん分かっている。

分かっているからこそ、今みたいに少しだけ気にする。

 

それを見てしまうと、ただ「怖い人」だと思っていた頃の自分が、少し雑だった気がした。

 

「俺も、上手く説明できてるかは分からないですけど」

 

俺は言った。

 

「大神さんの言ってることが必要だって分かったから、横から口を挟んだだけです」

 

「必要……」

 

大神さんが小さく繰り返す。

 

「はい。あのまま進んだら、たぶん後で大きな修正になってました」

 

「そうだな」

 

「だから、助かったのはこっちも同じです」

 

大神さんはしばらく黙った。

 

廊下の向こうで、コピー機が紙を吐き出す音がした。

近くの会議室から、誰かの笑い声が小さく漏れる。

大柄な獣人社員が台車を押して通り過ぎる時、俺たちは少し横へ避けた。

 

大神さんは、その社員が通りやすいように一歩だけ壁際へ寄った。

無意識の動きだったと思う。

 

こういうところだ。

 

言葉は短い。

けれど、周りは見ている。

 

「大神さんは、怖いというより」

 

俺はそこで少し迷った。

 

言いすぎると失礼かもしれない。

でも、何も言わないのも違う気がした。

 

「少し、伝わり方で損してるだけだと思います」

 

言ってから、しまった、と思った。

 

これ、結構踏み込んだのではないか。

 

大神さんは静かに俺を見る。

 

鋭い目元。

まっすぐな視線。

 

俺は手元の資料を握り直した。

 

心の中で社会人としての謝罪文を組み立て始める。

件名は「先ほどの発言について」。

本文は「ご不快な思いをさせてしまい」。

早い。脳内メール作成が早い。

 

だが、大神さんは怒らなかった。

 

「損」

 

「……すみません、言い方が悪かったです」

 

「いや」

 

大神さんは首を横に振った。

 

「合っていると思う」

 

その声は、低いままだった。

けれど、さっきより少しだけ柔らかかった。

 

俺はほっとする。

 

そして、ほっとした勢いで視線を上げてしまった。

 

大神さんの耳が、まだ少し伏せている。

その下にある横顔は、相変わらず凛としていて、近寄りがたいくらい整っている。

 

それでいて、今日は少しだけ違って見えた。

 

無表情の奥にあるものが、ほんの少しだけ見えた気がしたからかもしれない。

 

……いや、待て。

 

今の俺は何を見ている。

 

耳だ。

耳を見ている。

感情の変化を見るために耳を見ている。

決して、伏せた耳から流れる髪のラインとか、そこから続く姿勢のよさとか、正面に立った時の山影とか、そういう方向へ意識が滑ったわけではない。

 

滑っていない。

 

滑ってはいないが、足元はかなり凍っている。

 

「佐久間?」

 

「はい」

 

「どうした」

 

「いえ。資料の重さで少し意識が現実から離れかけました」

 

「持とうか」

 

「大丈夫です。これは自分で持てる重さです」

 

「そうか」

 

大神さんは素直に引いた。

 

こういうところも、陽菜とは違う。

 

陽菜なら「じゃあ半分持つね!」と言いながら、たぶん九割持っていく。

大神さんは、こちらが大丈夫と言えば引いてくれる。

 

距離の取り方が違う。

 

どちらがいい、という話ではない。

ただ、違う。

 

その違いが、最近少しずつ分かるようになってきた。

 

「大神さん」

 

俺は言った。

 

「今の件、あとで三枝先輩にも共有しておきます。表の見せ方、少し変えた方がいいかもしれないので」

 

「分かった。私も確認する」

 

「ありがとうございます」

 

「いや」

 

大神さんは資料を閉じる。

 

「私の言い方も、少し変える」

 

その言葉が意外で、俺は瞬きをした。

 

大神さんは相変わらず表情を変えない。

けれど、狼耳がもう一度、小さく動く。

 

不器用だ。

 

たぶん、かなり不器用だ。

 

でも、変えようとしている。

 

「それなら」

 

俺は少し笑った。

 

「次からは、最初に『ここで気づけてよかった』って付けると、だいぶ違うと思います」

 

「ここで気づけてよかった」

 

大神さんはそのまま繰り返した。

 

真顔で。

 

「はい。そんな感じです」

 

「なるほど」

 

大神さんは真剣に頷く。

 

あまりにも真面目な反応だったので、少しだけ笑いそうになった。

危ない。

笑うと失礼だ。

 

俺は口元を資料で隠す。

 

「佐久間」

 

「はい」

 

「今、笑いそうだったか」

 

「いいえ」

 

即答した。

 

大神さんの耳が、ぴくりと動く。

 

「そうか」

 

たぶん、バレている。

 

耳ではなく、目がそう言っていた。

 

その時、背後から軽い声が飛んできた。

 

「おーい、佐久間。三枝先輩が呼んでるぞ」

 

浅見だった。

 

片手に缶コーヒーを持ち、いかにも偶然通りかかったという顔をしている。

嘘だ。

絶対に少し見ていた顔だ。

 

「分かった。今行く」

 

「大神さんもお疲れさまです」

 

浅見が軽く頭を下げる。

 

大神さんも小さく会釈した。

 

「お疲れ」

 

浅見は俺の隣に並ぶと、大神さんに聞こえないくらいの声で言った。

 

「お前、大神さんと何かいい感じに話してなかった?」

 

「業務連絡だ」

 

「耳見てたろ」

 

「見てない」

 

「否定が早い」

 

「お前はいつから俺の同期じゃなくて尋問官になったんだ」

 

「どっかの誰かさんが誤魔化そうとするんでな、こっちも尋問せざるを得ないのさ」

 

否定できないのが悔しい。

 

大神さんは、そんな俺たちのやり取りを少しだけ見ていた。

 

表情は変わらない。

けれど、耳がまたほんの少し動いた。

 

今のは、たぶん面白がっている。

 

俺はそう思った。

 

思ってしまった。

 

大神さんの耳の動きで感情を判断し始めている自分に気づき、俺は内心で頭を抱えた。

 

まずい。

これは深みに入り始めている。

 

「佐久間」

 

大神さんが声をかけてきた。

 

「はい」

 

「さっきの言葉、覚えておく」

 

「さっき?」

 

「ここで気づけてよかった」

 

大神さんは、真面目な顔で言った。

 

俺は少しだけ言葉に詰まる。

 

「……はい。たぶん、それだけでも変わると思います」

 

「分かった」

 

大神さんは短く頷き、廊下の向こうへ歩いていった。

 

背筋はまっすぐ。

歩幅は静か。

尾は落ち着いて揺れている。

 

その後ろ姿を見送っていると、浅見が俺の肩を軽く小突いた。

 

「で?」

 

「何が」

 

「お前、大神さんのこと怖くなくなってきたろ」

 

「まあ、少しは」

 

「少し?」

 

「少しだ」

 

「ふーん」

 

浅見の声がにやけている。

いや、声だけじゃない。顔にも妙に腹立つ表情を浮かべてる。

 

俺は資料を抱え直し、歩き出した。

 

「仕事に戻るぞ」

 

「逃げた」

 

「戻るんだ」

 

「はいはい」

 

浅見は笑いながらついてくる。

 

午後の社内は、相変わらず音が多い。

キーボードの音。

コピー機の音。

誰かの話し声。

大柄な獣人社員が通路を歩く足音。

 

その中に、さっきの大神さんの低い声が、まだ少しだけ耳に残っていた。

 

怖い人ではない。

 

ただ、言葉が短くて、目つきが鋭くて、少しだけ不器用な人だ。

 

そして。

 

褒められたり、少し踏み込まれたりすると、耳が意外と正直に動く人でもある。

 

俺はそのことを、今日の業務上の発見として心の中に記録した。

 

なお、この記録は業務資料には書かない。

 

書いたらたぶん、浅見に一生いじられる。

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