大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている 作:とりにく
休日の夕方、俺は洗濯物を畳んでいた。
畳んでいた、というと聞こえはいい。
実際には、ソファの上に積み上がった服の山を前にして、そろそろ人として向き合うべきだと観念しただけである。
部屋の中には、洗剤の匂いが少し残っていた。
窓の外は薄く茜色で、向かいのマンションの窓にもぽつぽつと明かりがつき始めている。
一人暮らしの休日の夕方。
静かで、少し気が抜けていて、放っておくとこのまま適当に夕飯を済ませてしまいそうな時間。
その時、スマホが震えた。
『今から行くね』
陽菜からだった。
俺は画面を見つめる。
何しに。
そう打とうとした。
その前に、玄関のチャイムが鳴った。
早い。
「今から」とは、普通もう少し未来を指す言葉ではなかったか。
俺が玄関を開けると、そこには大きな紙袋を二つ抱えた犬飼陽菜が立っていた。
「晴人、夕飯まだでしょ?」
「挨拶より先に生活状況を断定するな」
「当たってる?」
「……当たってる」
陽菜は満足そうに笑った。
その尻尾が、玄関の傘立てに触れかける。
俺は無言で傘立てを半歩ずらした。
最近、俺は陽菜が来るとまず部屋の小物を避難させる癖がついている。
これは幼なじみを迎える準備ではない。
大型台風への事前対策である。
「今、傘立て避難させた?」
「気のせいだ」
「絶対したよね?」
「備えあれば憂いなし」
「わたし、災害扱い?」
「被害規模だけ見れば、分類上は近い」
「ひどい!」
陽菜はぷくっと頬を膨らませた。
ただし、両手には紙袋。
背後では大きな尻尾。
そして俺の玄関は、決して広大ではない。
この状況で陽菜が不満げに一歩踏み込むと、傘立てだけでなく靴べらまで危機にさらされる。
俺は素早く靴べらも回収した。
「晴人、今度は何を隠したの?」
「未来」
「靴べらだよね?」
「未来の靴べら」
「やっぱり靴べらじゃん」
陽菜は笑いながら靴を脱ぎ、いつものように部屋へ入ってきた。
いつものように。
その言葉が、少し怖い。
陽菜は昔から俺の生活圏に入ってくるのが自然だった。
小さい頃は家に上がってくるのも、冷蔵庫から麦茶を出すのも、ソファで勝手に寝るのも、全部が当たり前だった。
その延長で今も来る。
俺もそれを止めていない。
止める理由がないからだ。
少なくとも、そう思ってきた。
「台所、借りるね」
「もう紙袋を置いてる時点で、借りる前提だったろ」
「確認は大事だから」
「確認の順番も大事だぞ」
陽菜は台所へ向かい、紙袋から次々と食材を取り出していく。
鶏肉。
野菜。
卵。
豆腐。
出汁のパック。
それから、なぜか大きめの保存容器が三つ。
「待て。保存容器が多い」
「作り置き用」
「誰の?」
「晴人の」
「本人より先に決定するな」
「でもあると助かるでしょ?」
「助かるけど」
「じゃあ作るね!」
勝てない。
正論と善意と食材を持った陽菜には、勝てない。
俺は畳みかけの洗濯物を横に寄せ、ソファから台所の方を見た。
陽菜は手を洗い、髪を後ろでまとめる。
大きな手が器用に髪を束ね、ゴムで留める。
その仕草が妙に手慣れていて、俺は少しだけ見入ってしまった。
いつも明るくて、よく笑って、尻尾で物を倒す幼なじみ。
けれど台所に立つ陽菜は、思ったより落ち着いている。
食材を出す順番にも無駄がない。
まな板を置き、包丁を取り、鍋に水を張る。
その一つ一つが大きな体に似合わず細かい。
いや、似合わずというのは失礼か。
陽菜は大雑把なようで、相手のために何かをする時だけ妙に丁寧になる。
「晴人、洗濯物まだ畳んでる途中?」
「途中というか、戦線が膠着している」
「手伝おうか?」
「料理してるだろ」
「同時にできるよ?」
「獣人の身体能力を家事で無駄遣いするな」
「家事は大事だよ」
陽菜はそう言って、野菜を切り始めた。
包丁がまな板を叩く音が、部屋に規則正しく響く。
それに混じって、鍋の水が温まる音。
窓の外を通る車の音。
陽菜の尻尾が時々、台所の戸棚に触れそうになる気配。
俺はソファの上でシャツを畳みながら、少しだけ息を吐いた。
部屋に誰かがいる音がする。
一人暮らしをしていると、部屋の静けさに慣れる。
冷蔵庫の低い音や、エアコンの風の音まで聞こえるくらいの静けさだ。
そこに陽菜が入ってくると、空気が変わる。
台所に立つだけで、部屋の端まで体温が届くような気がする。
それはうるさいというより、少し安心する変化だった。
「晴人、冷蔵庫開けるよ」
「どうぞ」
「卵、賞味期限近いよ」
「見なかったことにしてた」
「だめです」
「はい」
「あと、野菜室にしなびた何かがいる」
「何かって何だ」
「元きゅうり」
「きゅうりに謝れ」
陽菜は冷蔵庫の中を確認しながら、てきぱきと整理していく。
俺の部屋なのに、俺より冷蔵庫の状況を把握する速度が早い。
これはもう侵略に近い。
ただし侵略者が夕飯を作ってくれるので、反撃の理由が弱い。
「晴人ってさ」
「何だ?」
「一人だと、すぐご飯適当にするよね」
「そこまでじゃない」
「元きゅうり」
「証拠品を出すな」
陽菜は楽しそうに笑った。
その笑い声を聞いていると、俺まで少し笑ってしまう。
ずるい。
陽菜は昔からそうだ。
俺が面倒だと思っている部分へ、当たり前みたいに手を伸ばしてくる。
そして、気づいた時には少しだけ楽になっている。
俺が前にいた場所の記憶を持っていることを、陽菜は知らない。
知らないまま、ずっと隣にいた。
この世界にうまく足をつけられなかった時期も、俺が周りと同じ顔をしながら内心では妙に浮いていた時期も。
陽菜は何も聞かずに、ただ近くに来た。
その近さに救われた。
だから俺は、陽菜を突き放せない。
いや、違う。
突き放せないのではなく、たぶん突き放したくない。
「晴人、味見して」
声をかけられて、俺は顔を上げた。
陽菜が小皿を持って、こちらへ歩いてくる。
鍋から取ったスープらしい。
湯気がふわりと上がっている。
「ほら」
「ん」
俺は小皿を受け取ろうとした。
が、陽菜は当然のようにそのまま小皿を俺の口元へ近づけた。
「待て」
「え?」
「今、食べさせようとしただろ」
「味見だから」
「味見でも、自分で食べられる」
「昔は普通にしてたじゃん」
「昔は昔、今は今」
「そっか」
陽菜はそこで、少しだけ止まった。
ほんの少しだけ。
耳が小さく動き、尻尾の揺れが弱くなる。
俺はその反応を見て、胸の奥が妙に詰まった。
昔は普通だった。
たしかにそうだ。
昔は何でもなかった。
陽菜が飲み物を差し出すのも、アイスを一口くれるのも、遊び疲れて肩にもたれてくるのも。
今、それを同じように受け取れないのは、俺の方が変わったからだ。
陽菜も変わっている。
でも、陽菜はまだその変化に名前をつけていないだけなのかもしれない。
「……皿、貸して」
「うん」
陽菜は小皿を渡してきた。
俺はスープを一口飲む。
温かい。
出汁が効いていて、やさしい味だった。
「うまい」
そう言うと、陽菜の耳がぴんと立った。
「ほんと?」
「ほんと」
「よかった!」
尻尾が勢いよく揺れる。
俺は反射的にローテーブルの上のリモコンを救出した。
「晴人、今なにしたの?」
「事前防災」
「また災害扱い!」
「リモコンの命を守った」
「命はないよ!」
「俺の生活にはある」
陽菜は笑いながら台所へ戻っていった。
その背中を見て、俺は少しだけ安心する。
さっきの小さな間を、笑いで流せた。
流せたはずだ。
ただ、胸の奥にはまだ少し残っている。
昔と今の境目みたいなものが。
料理ができるまで、俺は洗濯物を畳むふりをしていた。
ふり、というのは正確ではない。
ちゃんと畳んではいる。
ただ、意識の半分くらいは台所に持っていかれていた。
陽菜がかがんで下の棚から鍋を取り出す。
そのたびに、どうしても視界に入るものがある。
大きい。
いや、何がとは言わない。
言わないが、大きいものは大きい。
台所という日常的な空間に、見事な山が存在している。
しかも距離が近い。
やめろ、俺。
相手は夕飯を作ってくれている幼なじみだ。
邪念を混ぜるな。
これは家庭的な光景だ。
平和な休日の夕方だ。
決して観測の時間ではない。
そう自分に言い聞かせながら、俺はシャツを畳む。
ところが陽菜が振り返る。
「晴人、どうしたの? さっきから静か」
「洗濯物と対話してた」
「返事してくれた?」
「無言だった」
「それはたぶん畳まれ待ちだね」
陽菜は真面目に返してきた。
だめだ。
こういうところが陽菜だ。
俺の雑なごまかしを、陽菜は変な方向で受け止める。
そのせいで、俺だけが内心で勝手に疲れる。
「できたよ」
しばらくして、テーブルに料理が並んだ。
鶏肉と野菜のスープ。
卵焼き。
豆腐のあんかけ。
それから、保存容器に取り分けられた作り置き分。
普通に立派な夕飯だった。
「……これ、完全に店じゃないか?」
「そんな大げさだよ」
「いや、俺が一人だったら冷凍うどんだった」
「だから来た」
陽菜は当たり前のように言った。
その当たり前が、また胸に残る。
俺たちは向かい合って食事をした。
陽菜はよく食べる。
大柄な体に見合った食べ方だが、所作は意外と綺麗だ。
箸の持ち方もきちんとしているし、口元も騒がしくない。
ただ、うまいと言うと尻尾が動く。
「陽菜、スープうまい」
「ほんと?」
ぶん。
「卵焼きも」
「よかった!」
ぶん。
「尻尾」
「あっ」
椅子の背に尻尾が当たりかけ、陽菜が慌てて押さえる。
「今日はまだ何も倒してない」
「それを誇るラインにするな」
「成長!」
「低めの成長だ」
陽菜は不満そうにしながらも、どこか楽しげだった。
食事が進むにつれ、部屋の中の空気がゆっくり緩んでいく。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
街灯の光がカーテンの隙間から細く入る。
テーブルの上には温かい料理。
向かいには、当たり前みたいに座っている陽菜。
俺はふと、変なことを思った。
この光景に、違和感がない。
陽菜が俺の部屋で飯を作って、向かい合って食べている。
客というより、もっと近い。
家族というには少し違う。
幼なじみと言えば簡単だが、それだけで説明しきれる気もしない。
「晴人?」
「ん?」
「またぼーっとしてる」
「満腹で少し意識が遠くなった」
「食後に寝ちゃだめだよ」
「母親か」
「幼なじみです」
「便利な肩書きだな」
陽菜は笑った。
そのあと、食器を片づけながら、何でもない口調で言った。
「でもさ、合鍵あったら便利だよね」
俺は箸を落としかけた。
「……何の?」
「晴人の部屋の」
「何でそんな当然みたいに」
「だって、今日みたいな時にすぐ来られるし。ご飯置いておけるし。晴人が寝込んだ時も入れるし」
「最後の理由が重い」
「大事だよ?」
陽菜は本気で言っている顔だった。
本気で。
悪気なく。
ただ純粋に、便利だと思っている。
俺は言葉を探した。
合鍵。
たった二文字なのに、破壊力が高い。
幼なじみとしてなら、まあ、あり得なくはないのかもしれない。
家族ぐるみの付き合いで、昔から近い。
陽菜が俺の生活を心配しているのも知っている。
だが、社会人の男女で、合鍵。
言葉の持つ意味が、俺の中で勝手に別方向へ全力疾走する。
待て。
落ち着け。
これは陽菜だ。
陽菜の中ではたぶん、非常時対応とか、作り置き搬入とか、そういう方面の話だ。
俺だけが勝手に意識している可能性が高い。
高いが。
目の前には陽菜がいる。
大きくて、明るくて、こちらの生活に当たり前のように入ってくる幼なじみがいる。
「陽菜」
「ん?」
「合鍵は、距離感としてだいぶ踏み込んでる」
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも昔、晴人の家によく行ってたし」
「それは実家だろ」
「今も晴人の家だよ?」
「言葉の地面をさらっと崩すな」
陽菜は不思議そうに首を傾げた。
本当に、分かっていないのかもしれない。
あるいは、少し分かっていて、分からないふりをしているのかもしれない。
俺にはまだ、その違いが判断できない。
陽菜はしばらく俺を見つめたあと、ふっと笑った。
「冗談だよ」
「……本当に?」
「ほんとほんと」
陽菜は軽く手を振った。
その尻尾が、少しだけ揺れている。
俺はそれを見た。
冗談だと言う声は明るかった。
けれど尻尾は、ほんの少しだけ落ち着きなく動いていた。
どっちだ。
本当に冗談なのか。
それとも、冗談の形をした何かなのか。
俺は判断を保留した。
今の俺に、その答えを出す能力はない。
夕飯を食べて満腹になった脳には、荷が重すぎる。
「まあ、合鍵は置いておくとして」
「置いておくんだ」
「今日の作り置き、冷蔵庫に入れておくね」
「それは助かる」
「あと、元きゅうりは処分します」
「丁重に頼む」
陽菜は楽しそうに笑い、台所へ戻った。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
部屋には、まだ料理の温かい匂いが残っている。
テーブルの上には、片づけ途中の食器。
冷蔵庫には陽菜が作った保存容器。
俺の部屋が、少しだけ陽菜の気配で満たされている。
それが嫌ではない。
むしろ、安心する。
問題は、安心するだけでは済まなくなってきていることだ。
陽菜は幼なじみだ。
ずっと近くにいた。
近すぎて、俺はその近さの意味を考えないようにしてきた。
けれど、合鍵という言葉は、さすがに考えないわけにはいかない。
陽菜は冗談だと言った。
でも、俺の胸には妙に残った。
「晴人」
台所から陽菜が顔を出す。
「明日、ちゃんと作り置き食べるんだよ」
「はいはい」
「はいは一回」
「母親か」
「幼なじみです」
本日二度目の肩書き主張だった。
俺は笑って、洗濯物の残りに手を伸ばした。
ソファの上の服の山は、いつの間にか半分以上片づいている。
陽菜が来る前より、部屋は少し騒がしくなった。
物は少し動いた。
冷蔵庫の中身も変わった。
俺の心の中も、少し変な方向に散らかった。
けれど、不思議と悪くない。
幼なじみは、距離感を間違えている。
たぶん。
いや、もしかすると。
間違えているのは、俺の方なのかもしれない。