大型犬な幼なじみと、狼な同僚に挟まれている   作:とりにく

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陽菜視点です。
この話を読んで、二人の関係に後方訳知り親戚おじさんになった方の評価と感想をお待ちしています。



幼馴染は心配する

夕飯の買い物をしている時、ふと晴人の冷蔵庫を思い出した。

 

正確には、野菜室の中で静かに役目を終えかけていた、元きゅうりのことを思い出した。

 

あれは、きゅうりだった。

たぶん。

昔は。

 

スーパーのかごに鶏肉を入れながら、わたしは少しだけ考える。

 

今日は休日。

晴人はたぶん、部屋にいる。

洗濯くらいはしているかもしれない。

でも夕飯は、放っておいたら冷凍うどんか、カップ麺か、そのあたりで済ませる気がする。

 

晴人は、大丈夫と言う。

 

少し疲れていても。

ご飯を適当にしていても。

自分のことを後回しにしていても。

 

だから、晴人の大丈夫は、全部そのまま信じないことにしている。

 

わたしは保存容器を三つ、かごへ入れた。

 

少し作り置きもしておこう。

 

それからスマホを取り出して、短くメッセージを打つ。

 

『今から行くね』

 

送信。

 

晴人の返事を待つ前に、わたしはレジへ向かった。

 

マンションまでは、もう歩いて数分だった。

 

 

レジ袋では少し頼りなかったので、持ってきていた大きめの紙袋に食材を詰め直す。

 

鶏肉。

野菜。

卵。

豆腐。

出汁のパック。

保存容器。

 

少し多い気もしたけれど、余れば作り置きにすればいい。

 

晴人は、自分のためだけだと料理を簡単に済ませる。

食べないわけではない。

倒れるほど無理をするわけでもない。

 

でも、気づくと少しずつ雑になる。

 

冷蔵庫の中身とか。

休日の過ごし方とか。

疲れている時の返事とか。

 

昔からそうだった。

 

晴人は困っていても、困っている顔をあまりしない。

わたしが聞くと、少しだけ笑って「大丈夫」と言う。

 

その大丈夫が、本当の時もある。

でも、少しだけ無理をしている時もある。

 

小さい頃は、そこまで分からなかった。

 

ただ、晴人が元気のない日は、いつもより遠くにいる気がした。

同じ公園にいても。

隣に座っていても。

手を引いたらちゃんと歩いてくれるのに、少しだけ別の場所を見ている。

 

だから、外へ連れ出した。

 

遊ぼうと言った。

走ろうと言った。

一緒に帰ろうと言った。

 

晴人は最初、少し困った顔をする。

それから、仕方なさそうに笑う。

 

その顔を見ると、わたしも少し安心した。

 

今でも、たぶん同じだ。

 

マンションの入口が見えてきたところで、スマホが震えた。

 

『何しに』

 

短い返事だった。

 

わたしは歩きながら画面を見る。

 

『夕飯』

『あと作り置き』

 

送信。

 

すぐに返事が来る。

 

『もう近くにいるだろ』

 

わたしは少しだけ立ち止まった。

 

ばれている。

 

なんで分かったんだろう。

 

少し考えてから、スマホをしまう。

 

まあ、いいか。

 

わたしはエントランスを抜け、エレベーターに乗った。

 

扉が閉まる前に、鏡に映った自分の尻尾が見えた。

 

ゆっくり揺れている。

 

「……落ち着いて」

 

誰もいないエレベーターの中で、小さく言う。

 

夕飯を作りに行くだけだ。

いつものこと。

 

昔から晴人の家には何度も行っている。

今さら緊張するようなことではない。

 

そう思ったのに、尻尾はあまり言うことを聞かなかった。

 

 

チャイムを鳴らすと、少しして扉が開いた。

 

晴人は部屋着姿だった。

 

髪は少しだけ乱れていて、たぶん部屋でのんびりしていたのだと思う。

休日らしい気の抜けた姿に、なんとなく安心する。

 

「晴人、夕飯まだでしょ?」

 

「挨拶より先に生活状況を断定するな」

 

「当たってる?」

 

「……当たってる」

 

やっぱり。

 

わたしは笑って、一歩中へ入ろうとした。

 

その時、晴人が玄関脇の傘立てを少しだけずらした。

 

「今、傘立て避難させた?」

 

「気のせいだ」

 

「絶対したよね?」

 

「備えあれば憂いなし」

 

「わたし、災害扱い?」

 

「被害規模だけ見れば、分類上は近い」

 

「ひどい!」

 

思わず一歩踏み込む。

 

晴人は今度、靴べらを回収した。

 

「晴人、今度は何を隠したの?」

 

「未来」

 

「靴べらだよね?」

 

「未来の靴べら」

 

「やっぱり靴べらじゃん」

 

笑ってしまう。

 

こういうやり取りは、昔から変わらない。

 

変わらないことに、少し安心する。

 

わたしは靴を脱ぎ、部屋へ入った。

 

晴人の部屋には、洗剤の匂いが少し残っていた。

 

ソファの上には、畳みかけの洗濯物。

テーブルの端には、読みかけらしい雑誌。

窓の外はもう暗くなり始めていて、向かいの建物にはぽつぽつと明かりがついている。

 

一人暮らしの部屋。

 

知っているはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。

 

静かだからかもしれない。

晴人と二人だからかもしれない。

 

「台所、借りるね」

 

「もう紙袋を置いてる時点で、借りる前提だったろ」

 

「確認は大事だから」

 

「確認の順番も大事だぞ」

 

わたしは紙袋から食材を取り出した。

 

鶏肉。

野菜。

卵。

豆腐。

出汁。

 

最後に保存容器を三つ並べる。

 

晴人がそれを見て、少しだけ目を細めた。

 

「待て。保存容器が多い」

 

「作り置き用」

 

「誰の?」

 

「晴人の」

 

「本人より先に決定するな」

 

「でもあると助かるでしょ?」

 

「助かるけど」

 

「じゃあ作るね!」

 

晴人は何か言いかけて、それから諦めたように息を吐いた。

 

勝った。

 

いや、勝ち負けではない。

晴人の夕飯をちゃんと作るだけだ。

 

わたしは手を洗い、髪を後ろでまとめた。

 

ゴムで留める時、なんとなく晴人の視線を感じた。

 

振り返る。

 

晴人は洗濯物を畳んでいた。

 

「晴人?」

 

「ん?」

 

「今、何か見てた?」

 

「洗濯物」

 

「ふーん」

 

「何だよ」

 

「別に?」

 

たぶん、気のせいだ。

 

気のせいだと思う。

 

でも、耳のあたりが少し熱い。

 

わたしは包丁を持ち、野菜を切り始めた。

 

晴人の台所は、わたしには少し低い。

 

使えないほどではない。

ただ、長く立っていると少し腰が疲れる。

 

人間用の高さだから仕方がない。

 

まな板の上で野菜を切る。

鍋に水を入れる。

出汁を取る。

 

その間にも、晴人はソファで洗濯物を畳んでいる。

 

時々、こちらを見る。

 

気がする。

 

わたしは包丁を動かしながら、少しだけ落ち着かなくなった。

 

晴人は昔から、あまりじっと人を見るタイプではない。

 

話す時はちゃんと顔を見る。

でも、必要以上には見ない。

 

だから、視線を感じると少し気になる。

 

髪、変だったかな。

服に何かついているかな。

尻尾がまた何かに当たりそうになっているかな。

 

そう思って、ちらっと振り返る。

 

晴人はすぐにシャツへ視線を落とした。

 

やっぱり見ていた気がする。

 

「晴人、洗濯物まだ畳んでる途中?」

 

「途中というか、戦線が膠着している」

 

「手伝おうか?」

 

「料理してるだろ」

 

「同時にできるよ?」

 

「獣人の身体能力を家事で無駄遣いするな」

 

「家事は大事だよ」

 

晴人が少し笑う。

 

その顔を見て、胸の奥が軽くなる。

 

いつもの晴人だ。

 

少し疲れていても。

生活が少し雑でも。

こうして話していると、ちゃんと笑う。

 

それだけで、来てよかったと思う。

 

冷蔵庫を開ける。

 

卵は少し期限が近い。

奥には、見覚えのある野菜がいた。

 

「晴人、冷蔵庫開けるよ」

 

「どうぞ」

 

「卵、賞味期限近いよ」

 

「見なかったことにしてた」

 

「だめです」

 

「はい」

 

「あと、野菜室にしなびた何かがいる」

 

「何かって何だ」

 

「元きゅうり」

 

「きゅうりに謝れ」

 

晴人は困った顔をした。

 

わたしは笑いながら、元きゅうりを取り出す。

 

やっぱり来てよかった。

 

放っておいたら、次は元にんじんとか、元キャベツとかが生まれていたかもしれない。

 

冷蔵庫の中を軽く整理してから、料理へ戻る。

 

「晴人ってさ」

 

「何だ?」

 

「一人だと、すぐご飯適当にするよね」

 

「そこまでじゃない」

 

「元きゅうり」

 

「証拠品を出すな」

 

また笑ってしまう。

 

晴人の部屋で料理をする。

晴人が後ろで洗濯物を畳んでいる。

時々話す。

時々笑う。

 

静かな部屋に、包丁の音と、鍋の音と、晴人の声がある。

 

それが、なんとなく心地いい。

 

ずっとこうだった気もする。

 

でも、ずっとこうではなかった気もする。

 

前はもっと簡単だった。

 

晴人の家に行くことも。

隣に座ることも。

近づくことも。

 

何も考えなかった。

 

最近は、時々少しだけ考えてしまう。

 

晴人がどう思っているのか。

わたしがどう見えているのか。

 

考え始めると、よく分からなくなる。

 

だから、考えないことにする。

 

今は夕飯を作る。

 

それでいい。

 

スープの味を確認する。

 

少しだけ薄い気がして、調味料を足す。

 

もう一度味を見る。

 

今度は大丈夫。

 

「晴人、味見して」

 

声をかけると、晴人が顔を上げた。

 

「ん」

 

わたしは小皿に少しスープを取り、晴人のところまで歩く。

 

そのまま口元へ差し出した。

 

いつものように。

 

「ほら」

 

晴人が少し固まった。

 

「待て」

 

「え?」

 

「今、食べさせようとしただろ」

 

「味見だから」

 

「味見でも、自分で食べられる」

 

「昔は普通にしてたじゃん」

 

言ってから、わたしも少し止まった。

 

昔は普通だった。

 

本当に、普通だった。

 

晴人も気にしなかった。

わたしも気にしなかった。

 

でも今は、晴人が少し困った顔をしている。

 

その顔を見た瞬間、急に小皿が重くなった気がした。

 

わたしは何をしようとしていたんだろう。

 

味見。

 

ただの味見。

 

それだけなのに、耳が熱い。

 

「そっか」

 

どうにかそれだけ言った。

 

晴人が小皿を受け取る。

 

わたしは台所へ戻った。

 

尻尾が落ち着かない。

 

背中の後ろで、左右に動きそうになる。

戸棚に当たる前に、片手で押さえる。

 

落ち着いて。

 

昔と同じ。

昔と同じでいい。

 

でも、昔と同じではない。

 

晴人の声が聞こえた。

 

「うまい」

 

わたしは振り返る。

 

「ほんと?」

 

「ほんと」

 

嬉しい。

 

胸の奥がぱっと明るくなる。

 

尻尾が勝手に動く。

 

晴人は反射的に、テーブルの上のリモコンを避難させた。

 

「晴人、今なにしたの?」

 

「事前防災」

 

「また災害扱い!」

 

「リモコンの命を守った」

 

「命はないよ!」

 

「俺の生活にはある」

 

笑ってしまった。

 

さっきの気まずさが、少しだけ薄くなる。

 

晴人はそういうところがずるい。

 

困っていたはずなのに、何でもないみたいに笑わせる。

 

料理ができるまでの間、何度か晴人の視線を感じた。

 

気のせいかもしれない。

 

でも、下の棚から鍋を取ろうとかがんだ時。

冷蔵庫から食材を取り出した時。

振り返った時。

 

晴人は、少しだけ慌てて目を逸らす。

 

どうしたんだろう。

 

洗濯物に集中しているようには見えない。

 

わたしは少し考える。

 

服が変かな。

お尻に何かついているかな。

尻尾が動きすぎているかな。

 

気になる。

 

でも、聞くのも少し恥ずかしい。

 

だから聞かない。

 

聞かないけれど、妙に意識してしまう。

 

台所は静かだ。

包丁の音も、鍋の音も、やけに近く聞こえる。

 

「晴人、どうしたの? さっきから静か」

 

「洗濯物と対話してた」

 

「返事してくれた?」

 

「無言だった」

 

「それはたぶん畳まれ待ちだね」

 

晴人が少し変な顔をした。

 

何かおかしかっただろうか。

 

まあ、いいか。

 

料理をテーブルに並べる。

 

鶏肉と野菜のスープ。

卵焼き。

豆腐のあんかけ。

 

保存容器には、明日以降の分を取り分けておく。

 

「……これ、完全に店じゃないか?」

 

「そんな大げさだよ」

 

「いや、俺が一人だったら冷凍うどんだった」

 

「だから来た」

 

晴人は少しだけ黙った。

 

その反応が気になって、わたしも一瞬だけ動きを止める。

 

何か変なことを言っただろうか。

 

でも晴人は、それ以上何も言わなかった。

 

向かい合って食事をする。

 

晴人がおいしいと言うたび、嬉しくなる。

 

嬉しくなるたび、尻尾が動く。

 

「陽菜、スープうまい」

 

「ほんと?」

 

ぶん。

 

「卵焼きも」

 

「よかった!」

 

ぶん。

 

「尻尾」

 

「あっ」

 

慌てて押さえる。

 

「今日はまだ何も倒してない」

 

「それを誇るラインにするな」

 

「成長!」

 

「低めの成長だ」

 

晴人が笑う。

 

わたしも笑う。

 

その時間が、好きだと思った。

 

晴人と一緒にご飯を食べる。

晴人が少しだけ力を抜いて笑う。

 

昔から、そういう時間は好きだった。

 

たぶん、それだけだ。

 

そう思いたい。

 

食事が終わり、食器を片づける。

 

冷蔵庫に作り置きを入れながら、わたしは何気なく言った。

 

「でもさ、合鍵あったら便利だよね」

 

晴人の動きが止まった。

 

わたしも少し遅れて、自分の言葉を思い返す。

 

合鍵。

 

晴人の部屋の。

 

「……何の?」

 

「晴人の部屋の」

 

言ってしまった。

 

晴人がこちらを見る。

 

その顔を見た瞬間、胸の奥が急に騒がしくなった。

 

「何でそんな当然みたいに」

 

「だって、今日みたいな時にすぐ来られるし。ご飯置いておけるし。晴人が寝込んだ時も入れるし」

 

「最後の理由が重い」

 

「大事だよ?」

 

本当に大事だと思う。

 

晴人は無理をする。

大丈夫と言う。

放っておくと、元きゅうりを生み出す。

 

合鍵があれば便利だ。

 

便利。

 

それだけのはずだ。

 

でも、晴人が妙に困った顔をしているのを見ると、わたしまで落ち着かなくなる。

 

合鍵を持つ。

 

晴人がいない時にも、この部屋へ入れる。

晴人の生活の中に、もっと自然に自分の居場所ができる。

 

そこまで考えて、急に恥ずかしくなった。

 

「陽菜」

 

「ん?」

 

「合鍵は、距離感としてだいぶ踏み込んでる」

 

「そうかな?」

 

分からない。

 

分からないふりをしたのかもしれない。

 

「そうだよ」

 

「でも昔、晴人の家によく行ってたし」

 

「それは実家だろ」

 

「今も晴人の家だよ?」

 

「言葉の地面をさらっと崩すな」

 

晴人は困っている。

 

わたしも困っている。

 

でも、引っ込めるなら今しかない。

 

「冗談だよ」

 

笑って言った。

 

「……本当に?」

 

「ほんとほんと」

 

手を軽く振る。

 

ちゃんと笑えたと思う。

 

でも、尻尾はうまくいかなかった。

 

背中の後ろで、少しだけ落ち着かなく揺れている。

 

止まって。

 

今は止まって。

 

そう思うほど、動いてしまう。

 

晴人はたぶん気づいている。

 

恥ずかしい。

 

「まあ、合鍵は置いておくとして」

 

「置いておくんだ」

 

「今日の作り置き、冷蔵庫に入れておくね」

 

「それは助かる」

 

「あと、元きゅうりは処分します」

 

「丁重に頼む」

 

どうにか、いつもの調子に戻れた。

 

たぶん。

 

片づけを終えて、帰る準備をする。

 

玄関で靴を履きながら、わたしは部屋の中を振り返った。

 

ソファの上の洗濯物は、半分以上片づいている。

テーブルの上もきれいになった。

冷蔵庫には作り置きが入っている。

 

少しだけ安心する。

 

「晴人、明日ちゃんと食べてね」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

「母親か」

 

「幼なじみです」

 

言ってから、少しだけ胸が引っかかった。

 

幼なじみ。

 

間違っていない。

 

ずっとそうだった。

これからも、たぶんそうだ。

 

でも。

 

合鍵が欲しいと思った理由は、本当に幼なじみだからだけだろうか。

 

「じゃあ、またね」

 

「気をつけて帰れよ」

 

「うん」

 

扉が閉まる。

 

廊下は少しひんやりしていた。

 

部屋の中より静かで、足音が少しだけ響く。

 

エレベーターの前まで歩いて、ボタンを押す。

 

待っている間、わたしは両手で耳を押さえた。

 

熱い。

 

たぶん、ずっと熱い。

 

「……何言ってるんだろ、わたし」

 

誰もいない廊下で、小さくつぶやく。

 

合鍵。

 

便利だから。

 

本当に、それだけ?

 

エレベーターの扉が開く。

 

中へ入り、鏡を見る。

 

耳はまだ少し伏せている。

尻尾も落ち着かない。

 

次に晴人に会った時、どんな顔をすればいいんだろう。

 

少し考える。

 

たぶん、いつも通りでいい。

 

いつも通り笑って。

いつも通り話して。

いつも通り、少し近くにいる。

 

それでいい。

 

ただ。

 

いつも通りが、一番難しくなってきている気もした。

 

エレベーターの扉が閉まる。

 

鏡の中で、わたしの尻尾はまだ少しだけ、落ち着かずに揺れていた。

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