「……そんなもの、なのかな」
モヤモヤとした思考が頭を巡る。ガクたちとコンビニ前で別れた後も、茅場七海の冷淡な言葉と、蓮さんの自嘲気味なセリフが、胸の奥にトゲのように刺さって離れなかった。
外に出ると、いつの間にか小さな雨が降り始めていた。
俺は頭を冷やすために、自宅へ直帰するのをやめ、いつも利用している古びた喫茶店へと足を運んだ。
雨の降る夜、喫茶店の片隅で、俺は未だ温かい珈琲のカップを両手で包み込みながら、人間関係の不条理にすっかり疲れ果てた顔をしていた。学校でのこと、そして自分の好きなものを「くだらない」「現実逃避」と一蹴された心の痛みが、どうしても消化しきれなかった。
そんな俺の様子を見て、カウンターの向こうからマスターが静かに口を開いた。
「人は言うよ。理性で伝えると理性で返すのが人間だ、と。感情でぶつけても、それよりも強い感情でしか返ってこない。だからいつでも冷静であれ、とね」
俺は力なく頷いた。自分がいくら言葉を尽くして理路整然と話そうとしても、あるいは誠実に向き合おうとしても、世間や他人はただ感情的な言葉をぶつけてくるか、あるいはひどく冷淡で、手を抜いたような生返事しか返してこない。そんなことばかりだ。
「でもね」と、マスターは手元のカップを拭きながら続ける。
「現実はそんなに美しくない。こちらがどれほど理性を保って伝えても、必ず理性で返ってくるわけじゃない。君が経験したように、適当にあしらわれることもあれば、理不尽な感情で返されることだってある。……それどころか、世の中にはね、こちらが理性を持って接しているのをいいことに、あえて『感情』を武器にして、こちらの理性を殴りつけてくるような人間だっているんだ」
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
俺は消え入るような声で言った。
理性を保つだけ損じゃないか。結局、人間なんてそんなものなら、こっちだって感情を剥き出しにして、大声を出した者が勝ちなんじゃないか。これから始まる新しい仮想世界だって、結局はそんな理不尽な人間の集まりなんじゃないか――。
マスターは小さく首を振った。そして、窓の外を流れる雨の滴を眺めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「相手がどう返してくるかは、相手の課題だ。コントロールはできない。だけどね、本当に大切なのはそこじゃないんだよ」
マスターの視線が、真っ直ぐに俺の目を捉えた。
「人間は、理性だろうが感情だろうが、何を持って『人』となすかは、自分自身で決めるものだ」
その言葉が、すとん、と俺の胸の隙間に落ちる。
「相手が感情的だからといって、自分も獣のように吠え返すのか。相手が手を抜いてくるからといって、自分も誠実さを捨てるのか。もし相手の出方に合わせて自分の在り方を変えてしまうなら、お前は自分の人生をその相手に支配されていることになる」
俺は自分の胸に手を当てた。
「誰かに理性的に返してもらうために、理性を保つんじゃない。自分が『理性的な人間』でありたいと願うから、理性を手放さないんだ。 たとえどれほど強い感情をぶつけられようと、どれほど不誠実な対応をされようと、自分は何を持って『人間』として立つか。それを決める権利は、他の誰でもない、君自身にだけある」
喫茶店のスピーカーから、静かなジャズが流れている。
俺は、自分の手元にある温かいカップを見つめた。冷え切っていた心に、マスターの言葉がじんわりと染み込んでいくのを感じていた。
相手がどうあれ、自分はどう在るか。
世界がどれほど混沌としていても、自分が「人」であるための芯は、いつでも自分の胸の中にしかない。
俺は深く息を吸い、それから少しだけ、確かに微笑んだ。
(そうだ……世界がどうであれ、俺は俺のやり方で、誠実でありたい)
この時、俺はまだ知らなかった。
数日後、俺たちは本当に「理不尽そのもの」の世界へと閉じ込められることになる。
そして、目の前で大切な幼馴染を奪われた時――俺は、このマスターの言葉を、最悪の形で捻じ曲げて思い出すことになるのだ。
『自分は何を持って、人間として立つか』
感情に呑まれず、圧倒的な機械(システム)のように強くなること。
誰に理解されずとも、冷徹な「英雄」の仮面を被り続けること。
それが、デスゲームの中で俺が見つけてしまった、歪んだ「俺の在り方」だった――。