喫茶店のドアに取り付けられた真鍮の鈴が、チリンと涼やかな音を立てた。
濡れた傘をたたむ音と共に、聞き慣れた少し高めの声が店内に響く。
「ごめんサイ! 塾が長引いちゃって遅くなった!」
入ってきたのは、カナメだった。
少し湿ったお気に入りの上着を気にしながら、彼女は僕の向かいの席へと滑り込む。マスターが気を利かせてすぐに運んできてくれた、温かいココアの湯気の向こうで、カナメは悪戯っぽく微笑んだ。
「さっきガクからメッセージが来たよ。『サイが茅場の親戚の女子に言い負かされて、凹んで喫茶店に逃げ込んだ』って」
「あいつ、余計なことを……。言い負かされたわけじゃないよ。ただ、ちょっと考え事をしてただけさ」
苦笑いする僕を見て、カナメはクスクスと笑った後、少しだけ真面目な顔になって俺の手元を見つめた。手元には、もうすっかり冷めてしまった珈琲のカップがある。さっきまでマスターと話していた「人間の在り方」の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。
「でも、あの茅場晶彦の親戚なんだ。……ねえ、サイ。本当に始めるんだよね、ソードアート・オンライン」
「ああ。絶対にやるよ。ガクや蓮さんと一緒にな」
「そっか」
カナメはココアのカップを両手で包み込み、愛おしそうにその温もりを確かめながら、窓の外の雨を見つめた。
「私も、予約はしてあるんだ。戦闘系とかあんまり得意じゃないけど……サイが大剣を使うなら、私は細剣(レイピア)にしようかな。現実のフェンシング部じゃ、私の方が先輩なんだから。ゲームが始まったら、サイに大剣の戦い方をみっちり教えてあげる」
「はは、頼りにしてるよ、先輩」
冗談めかして笑い合う。雨の夜の静かな喫茶店。マスターが淹れてくれた珈琲の香りと、カナメの優しい笑顔。バックグラウンドで流れる静かなジャズ。
それが、僕の知る「最も美しい現実」の、最後の記憶だった。
――その数日後、俺たちはあの鳥籠に閉じ込められた。
世界初のVRMMORPG『ソードアート・オンライン』の正式サービス開始日。俺は期待に胸を膨らませてナーヴギアを頭部に装着し、「リンク・スタート」と呟いた。
まばゆい光の先に広がっていたのは、現実と見紛うほどの美しい浮遊城『アインクラッド』の大地。しかし、その輝きは数時間後に絶望へと反転する。
鳴り響く不穏な鐘の音。強制転移させられた中央広場。
そして、夕暮れの空を血のように真っ赤に染めて現れた、巨大な守護者――の姿をした、茅場晶彦。
『これはゲームであっても、遊びではない』
彼が告げたのは、ログアウトボタンの消失。そして、ゲーム内での死、あるいは現実世界でのナーヴギア強制取り外しが、そのまま本物の「死」に直結するという、狂気のデスゲームの幕開けだった。
広場が阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。叫び、泣き喚き、現実の肉体を求めて虚空を掻き毟るプレイヤーたち。
あの放課後、コンビニのイートインコーナーで、同級生の茅場七海が冷淡に言い放った「そんな事にお金と時間を費やしてる暇があるなら」という言葉が、今、最悪の形で脳裏に蘇っていた。
(現実逃避の報いが、これなのか……?)
そんな暗い思考に呑まれそうになった時、俺の袖を強く引く手がふたつあった。
「おい、サイ! しっかりしろ! ぼさっとしてっと置いてかれるぞ!」
怯えを隠すように大声をあげるガク。その隣には、すでに冷静に周囲の動向を観察し、長槍を背負ったガクの兄――蓮(reddo)が立っていた。
そして、もうひとり。
「サイ……」
震える手で俺の制服の裾を握りしめていたのは、カナメだった。彼女の腰には、現実のフェンシングを模した細剣(レイピア)が吊るされている。恐怖で顔は真っ青だったが、その瞳はしっかりと俺を見つめていた。
「大丈夫だ、カナメ。ガクも、蓮さんもいる。みんなで、一緒に動こう」
僕は彼女の手を握り返し、自分を鼓舞するように頷いた。まずはこの狂気の広場を脱出し、生き残るための足がかりを探さなければならない。
俺たちは人混みを掻き分け、始まりの街の路地裏へと走った。
その時だった。
薄暗い石畳の片隅。誰も見向きもしない街の死角で、ただ一人、膝を抱えて絶望に震えている一人の少女がいた。
長い髪の隙間から見えるアバターの顔は、驚くほどに見覚えがあった。
「……茅場、七海?」
僕の呟きに、ガクと蓮さんが足を止める。
彼女の頭上に表示されているカーソルには「nana」と刻まれていた。
あの、現実世界で俺たちの趣味を冷酷に切り捨てた少女。だが今の彼女には、あの時の毅然とした冷たさは微塵もなかった。ただ、見えない鎖にがんじがらめに縛り付けられているかのように、激しく身体を震わせ、涙を流している。
「あいつ……あの天才科学者の親戚じゃねえか」ガクが苦い顔で呟く。
この世界を作った男の血縁。その事実が、今の彼女をどれほどの罪悪感で押し潰しているかは想像に難くなかった。周囲のプレイヤーたちから「人殺しの身内」と罵られるのを恐れ、誰とも関わらず、ただここで消えていくのを待つ。それが自分の運命なのだと諦めているような、哀れな瞳。
その時、僕の脳裏に、あの雨の夜の喫茶店でマスターがくれた言葉が、鮮烈に響き渡った。
――相手がどう返してくるかは、相手の課題だ。コントロールはできない。だけどね、本当に大切なのはそこじゃないんだよ。
――たとえどれほど不誠実な対応をされようと、自分は何を持って『人間』として立つか。それを決める権利は、君自身にだけある。
現実世界の彼女は、俺たちに冷たかった。ゲームをくだらないと一蹴した。
だが、そんなことは関係ない。相手の出方に合わせて自分の在り方を変えるなら、僕の人生は、僕の心は、この理不尽な世界に支配されたことになる。
「僕は……誠実でありたい。どんな世界でも」
ポツリと溢した俺の言葉に、隣のカナメが気づいたように顔を上げ、優しく微笑んだ。
そして、俺よりも先に動いたのは、やはりあの猪突猛進の男だった。
「おい、そこのお前! 一人で何ボケっとしてんだよ。俺たちとパーティー組もうぜ!」
ガクが大声をあげて強引に走り込み、ナナの手を引っ張り上げた。
「え……?」と呆然とするナナ。
蓮さんは「おいガク、初対面の人に失礼だろ」と苦笑しながら頭を下げ、槍の石突きで地面を軽く叩いた。
そして、俺は背中に背負った初期装備の重い大剣の位置を確かめ、彼女の一歩前へと進み出た。恐怖を噛み殺し、できる限り穏やかで、安心させるための優しい微笑みを意識して、彼女に右手を差し伸べる。
「俺たち、これから攻略組より前を目指すんだ。良ければ、一緒に来てくれないか」
ナナは、自分が「茅場の従兄弟」であることを俺たちが知っていると気づき、怯えの混じった視線を泳がせた。けれど、俺たちの態度に拒絶の色がないのを見て、信じられないというように目を見開いた。
「そんなの関係ねえよ。お前はお前だろ」
ガクのその一言が、彼女の心を縛っていた見えない鎖を、確かに解きほぐした音が聞こえた気がした。
たとえここが茅場晶彦の作った血も涙もない絶望の鳥籠であっても。
俺は、俺たちのやり方で、人間らしく生きてみせる。仲間を一人も見捨てず、全員で生きて帰る。その芯だけは、絶対にこの世界に変えさせない。
僕の手を、ナナの小さな手が恐る恐る握り返してくる。その温もりを感じながら、俺は心の中で、自分自身に強く誓っていた。
これから始まる、泥臭くて、けれど何よりも眩しい、僕たちの戦いの日々の幕が上がった。