善良なるマダオの手記   作:ヤン・デ・レェ

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善良なる碇ゲンドウ

2011年。手紙。

 

 

 

 

シンジ君へ

 

私がすべて悪かった。君は何も悪くない。

 

今更父親面をするだなんて恥知らずにもほどがあるとは理解しています。

 

けれど、これだけは言わせてください。

 

君は何一つ、なにひとつも悪くなかった。

 

君を一人ぼっちにしてしまったこと、私が勝手に独りになったこと。

 

そのすべてにおいて、君は何一つ悪くなかった。

 

当たり前なんだ。本来、こんな話をするまでもなかった。

 

すべて私が悪かったんです。

 

そして、その上で、どうか私にもう一度だけ、シンジ君の父親になる機会を下さい。

 

不器用だったなんて、とんだ欺瞞です。

 

私には勇気がなかった。惰弱で、臆病で、ただそれだけのことだったんです。

 

お母さんがいなくなってしまったことの責任を、どこかで、勝手に息子である君に押し付けていたのかもしれません。

 

私の身勝手が、本当に長い間、シンジ君の人生を台無しにしてきたのだとすれば、到底許されることではないと理解しています。

 

だから、許してくれとは言いません。

 

ただ、シンジ君のために出来ることをさせてはくれませんか。

 

私がこれ以上の身勝手を積み上げないために、こうしてお手紙を書かせていただきました。

 

君のことを愛してるだなんて、口が裂けても今の私には、言う権利すらありません。

 

でも、君を怒らせることを承知で言います。

 

私は貴方のことを愛しています。

 

もしも、お返事をいただければ、その時はどうか会いに行かせてください。

 

それから、その後で、これからについて話し合いたいと考えています。

 

もしも叶うならば、今すぐにでも君のことを迎えに行きたいけれど、それは余りにもこれまでの自分の振る舞いに対して、恥知らずすぎると思うので自重いたします。

 

それじゃあ、願わくば、また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1999年。某日。

 

私は激しい頭の痛みと共に覚醒し、私が『六分儀ゲンドウ』なる人間であることを発見した。

 

頭痛の原因は、居酒屋で突発的に発生した乱闘の際に、因縁をつけてきた相手から食らわされた右の拳が見事に顎に炸裂し、その勢いのままに後頭部を居酒屋で出されていたお通しの豆腐に激しくぶつけたからである。

 

悲しいかな、私の頭の下では豆腐がまだ原型を留めており、私の後頭部からは生温い液体が流れ落ちる、真夏の日射に晒されて垂れる汗の如き感触がしていた。

 

そこから導き出されることは、推論にしかすぎないが、豆腐が未解凍のままで私に供されていたということであり、であると同時に私の後頭部の組織がこの冷凍冷奴により破壊されたということである。

 

私が先に激しく出血したことで、周囲は俄かに同情的になり、また同時に事態はより混乱を極めているようにも感じる。

 

とりあえず、私は応急手当を、見慣れない、けれど確かに私のものであると認識されるハンカチーフを押し付けることで行い、速やかにその場を辞さんとした。

 

だが、現実はそううまく運ばず、間もなく警察のご厄介になることとなった。

 

警察からの事情聴取には努めて協力的な態度で臨んだおかげで、私が何らかの罪に問われることはなさそうであった。

 

それどころか、警察官は殊勝な態度の私に対して終始親身になって接してくれたように感じ、そのことについて非常に心強く思った。

 

ただ、身元引受人の指定を所望された段階で、私は今一度自分自身が未だ『六分儀ゲンドウ』であることを思い出すに至った。

 

私は、私という人間が断じて『六分儀ゲンドウ』ではないことを知っているにもかかわらず、今の自分のことについては『六分儀ゲンドウ』以外の私については全く以て無知であった。

 

それは悲嘆に暮れる上で十分すぎる理由となったが、同時に現実に対処するべく、私は『原作』の道理にタダ乗りして、自身の身元引受人に冬月コウゾウを指定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2000年。9月13日。

 

今日、南極でセカンドインパクトが起きることを私は去年の段階で知っていた。

 

そのことを、交際している碇ユイにも伝えることはなかった。

 

誰にも伝えることはなかった。

 

この先も、決して無いと考えていた。

 

そして、事実、私は誰にもそのことを告げないまま今日という日を迎えた。

 

だが…何が起こるかを告げなかっただけで、何もせずにいられたわけではなかった。

 

今日、葛城調査団は葛城博士と娘である葛城ミサトを残して全滅する。

 

今、南極から離れ行くばかりの船内に留置した葛城博士は原因不明の食中毒により、急遽、南極から去ることになった。

 

無論、彼の娘である葛城ミサトも一緒である。

 

腐った牛乳を飲ませることができたのは葛城博士だけだったことが悔やまれたが、遠からず世界を混沌へと誘うセカンドインパクトが起こることになる。

 

私は、死ぬはずだった人を一人救った。

 

そして、死ぬはずだった人間の過半をそのままに死なせることしかできなかった。

 

それはともかく、実は一つだけ懸念がある。

 

それは、ミサト嬢に葛城博士のマグカップに香料で誤魔化した腐った牛乳を注ぐ場面を見られたことだ。

 

聡い彼女は私がどうしてそんなことをしたのか、いつの日にか気づくことがあるかもしれない。

 

もし、仮に本当にその瞬間が訪れたとして、彼女が私を軽蔑するのか、私を危険視するのかは、彼女ではない私には想像もつかないことだ。

 

少なくとも、食中毒にされた当人である葛城博士には殺されかけるほど怒られるだろうし、或いは本当に殺されるかもしれなかったが、それでも、私は彼と彼女が無事であること以上の事実に価値を見出すことはできそうになかった。

 

今は、という注釈がつくかもしれないが。

 

それでも、負わなくていい傷を負わずに済む人間を、一人でも増やせるのならば、非力の私にとってはこれ以上の喜びも、自己満足もないだろう。

 

今後の私に出来ることは、葛城博士とミサト嬢が、例え何かに気付いてしまったとしても、そのことが理由で傷つけられるようなことがないように、できる限り手を回すことくらいだろうか。

 

手を伸ばした以上は、届く限り、あなた方に触れ続けていたいと思う。

 

決して、この繋がりが切れて、見知らぬ運命にも、望まぬ運命にも呑まれてしまわないように。

 

せめて、選択肢が奪われて、余裕のない世界で内に沈みながら死んだように生きずには済むようにと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2001年。

 

6月6日、碇シンジ誕生。

 

あの後も、葛城家との関係性は続いている。

 

葛城博士は健在だが、ミサト嬢はあれから何故か『原作』通りに失語症になってしまった。

 

今の私と葛城家との関係性の全ては、私の吐いた嘘に縋ってのものに過ぎない。

 

『私』は、失語症を直すエキスパートだと嘘を吐いた。

 

葛城博士は…なぜだろうか、何故か『私』のことを信じてくれた。

 

いや、信じてなどいないのかもしれない。

 

だが、それでも大事な一人娘を託してくれている。

 

そして私も、週の数日は彼女の失語症を直すために力を、文字通りこの『碇ゲンドウ』の肉体の限界まで力を尽くしている。

 

それで、一体どこまでいけるのかはわからないが、それでも、ミサト嬢を癒す何かを私は見出さなければならないのだ。

 

…閑話休題。

 

セカンドインパクトから一年が経っても、幸いなことに我が家の家計には余裕があった。

 

それもこれも私自身と妻である碇ユイが高所得かつ社会的地位の高い、また同時に機密保持の必要性の高い研究職に就いているからであろう。

 

もともとの『私』には到底理解できそうもない難解な問題を、この『碇ゲンドウ』の頭脳と肉体ならば理解できるようである。

 

御蔭か、仕事は概ね順調である。何の波風も立っていない。

 

ただ…シンジの育児を初めて間もなく、私は碇ユイに黙って孤児を二人引き取った。

 

加地リョウジと、その弟だ。

 

彼らを引き取るにあたって、私は彼らの遠縁であるというありきたりな嘘を吐いた。

 

この際に残念な事実が判明した。

 

嘘をついたりする能力は、どうやら元の『私』由来のものでしかないらしい。

 

二人は戸惑い、けれど行く先がないという現実的な理由で、私の手を取った。

 

『原作』に存在しなかった弟の名前を、『私』に決める権利は存在しないが、仮称として『加地リョウスケ』と名付けておこうと思う。

 

これが…これが、いつの日にか覚めるような、長い夢のような代物だった時の為の保険のようなものだ。

 

彼の実在は、ほとんど私の実在を担保するものと同等だと、私は勝手に考えているのだ。

 

これはまるきり、葛城博士に対して抱いている感傷と同質のものだろうが…赦してほしいとも思う時がある。

 

とはいえ、現実は留まらず、流れ続けていくものであるようだ。

 

シンジという実の息子とは逢わせられないままに、私はリョウジとリョウスケを育て始めた。

 

育てると言っても、シンジ君の父親と、ユイさんの伴侶と、二足の草鞋どころではないから、だいぶ疎かなものではある自覚があるのだが…。

 

満足していないし、満足させられているとも思わない。

 

ただ、借り家で帰りを待つ二人に週に何度か会いに行くと、最近では喜んでくれるようになったことは、私にとって密かな救いになっている。

 

…ユイさんは気づいているんだろうな、多分、わかっていて何も言わずにいてくれている気がする。

 

彼女は、言わないだろうな…だって、いや…そうだな。

 

彼女だって、勝手に一人でポッと消えてしまえる人だもの。

 

大事なものすべてを残して、大事なものすべてを遺す為に。

 

生憎、私は大事な者には目の前でなくとも元気で幸せに生きていて欲しいと思う口でね。

 

すべてを遺したり、すべてを救えるだなんて、初めから思っちゃいないのだ。

 

…シンジ君の為の最初の誕生日ケーキよりも先に、リョウジとリョウスケの為の誕生日ケーキを用意することになったことを悔いてはいない。

 

君たちの仲間…浮浪孤児のすべてを救うことができればと思わなかったことは、ない。

 

でも、君たちだけで構わない。

 

君たちには『名前』があった。

 

そして、弟には私が名前を付けた。

 

そういうことにしておく。

 

だから、金や機会で苦労はさせないから、元気に育って幸せになってくれ。

 

不幸にさえならなければ、元気でさえいてくれれば、君たちには、この先の舞台で名前がなくたって構わないんだ。

 

情が湧いて仕様がない。

 

私はこの夢が覚めるまでは、舞台に立ち続けようと思うが、君たちにそのことを強いるつもりは毛頭ない。

 

いや、むしろ、どこか遠くで安穏としていて欲しいとさえ思う。

 

…私は愚かだとも。

 

 

 

 

 

 

 

 

2004年。某日。

 

さようなら、ユイさん。

 

あなたの意志を多くの、実に多くの方々が全うしようと試みて、荒み、傷つき、癒えぬままに生きることを強いられることになりました。

 

いえ、これから、そうなるのです。

 

私はよい夫ではありませんでしたね。

 

家の外に子供を二人もこしらえて、週末はずっと他所の女の子の診療に掛かりきりで。

 

でもね、それでもあなたのこと、ちゃんと愛していたと思うんですよ。

 

だって、こんなにも、諦められないように思うんだから。

 

だって、こんなにも、悲しくてやりきれないんだから。

 

でもね、でもねユイさん。

 

私は、あなたと二度と逢いません。逢えません。

 

自然の流れに身を任せて、また逢える日まではね。

 

だから、どうかそこで待っていてください。

 

そして、今度逢えたらその時は、勝手に色々抱えこんだ私のことを叱って下さい。

 

私も、勝手にいなくなったあなたには言いたいことが一杯あるんですからね?

 

…シンジ君には、お母さんが消える所を見せませんでした。

 

睡眠薬を混ぜたココアを飲ませておいて、私がずっと抱えてましたよ。

 

シンジ君、重くなりましたね。

 

…怒ってますか?

 

これくらいの勝手は勘弁してください。

 

だって、非道いじゃないですか、目の前でお母さんが消えちゃうなんて。

 

誰だって、堪えられませんよそんなこと。

 

今だってほら、奥さんが目の前で消えちゃった自分が、こんなにも辛くて苦しいんですから。

 

別れは必ず訪れるものですけれど、こんなにも突然だったなんて、きっと『私』だからこんなに苦しくて済んでいるんでしょうね。

 

これが『碇ゲンドウ』だったなら、きっとこんなにも、あっさりと受け入れられなかったんでしょうね。

 

でも、さようならです。

 

私は、あなたの影を追いません。

 

私は、目の前で生きている大事な人の為に動きます。

 

遺すためではなくて。

 

忘れられてもなんでも、その人なりの幸せで、生きていてもらうために。

 

だから、さようなら、ユイさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

碇ユイの消失から一週間後、彼は1999年のあの日と全く同じ場所で発見された。頭部を負傷した状態で。

 

原因は冷凍冷奴(*甲物体とする)の解凍が足りず、高速で飛来した甲物体により後頭部を強打したことによる。

 

一時は意識不明の状態に陥り、間もなく職務復帰。

 

だが、見知らぬ天井の部屋で目覚めた彼は、人が変わっていた。

 

以前までの温厚篤実さとはかけ離れた、孤立を深めるような振る舞いが目立ち始めた。

 

幸い、葛城ミサトの失語症は完治していたし、加地兄弟も奨学生として大学進学が決まっており、既に彼の手からは離れていたかに見えた。

 

ただ、まだ幼いシンジだけを除いて。

 

そして、『私』の居ぬ間に『碇ゲンドウ』はまた同じ轍を踏んだ。

 

彼は幼いシンジ君を知人へと預け、稚い少年の元を無情にも立ち去った。

 

その咎を支払う者が、よもや、『私』であるとも知らずに。

 

そして、時はまた流れ出す。流れ続ける。

 

ただ、流れ続けた。

 

 

 

 

 

 

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