『常闇を穿つ影の王(シャドウ・ブレイズ)』 作:トート
(〜中略:朝日が街を照らし、二人が手を取り合って笑い合う、完璧なハッピーエンドの幕引きから――〜)
(ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……)
電子音が、鼓膜の奥を不快に震わせた。
「……え?」
ハルトは目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、眩しい太陽の光でも、黄金色に輝くフィリアの髪でもなかった。
灰色一色の、冷たいコンクリートの壁。頭上を無数に行き交う太い配管と、不気味に明滅するグリーンのホログラム。
胸の奥にあるはずの『影の歯車』は存在しない。手を伸ばしても、漆黒の大剣は現れない。彼の右腕に埋め込まれていたのは、皮膚を無理やり割って肉と同化させられた、太いデータ転送ケーブルだった。
【警告:個体識別番号094・カイ。深度心理シミュレーション『ハッピーエンド・プログラム』を終了します】
脳内に直接響く、あの冷徹な電子音声。
管理システム『エデン』の声だった。
「嘘だ……ろ……。ハルト……フィリア、は……?」
カイ(ハルト)は震える声で呟き、自らの身体を見下ろした。
そこにあるのは、限界まで痩せ細り、管だらけにされた、かつて『欠陥品』としてエデンに囚われたあの少年の肉体そのものだった。
彼は、自分が「ハルト」という最強の少年になり、光を追い抜く影の力で世界を救い、フィリアという少女と結ばれる夢を見ていた。いや、見させられていたのだ。
エデンによって脳を初期化(強制洗浄)される直前、精神が崩壊する間際にナノマシンが見せた、一瞬の、無慈悲で優しい「最後の幻影」。それが、あの全11話にわたる輝かしい逆転劇の正体だった。
「あ……、あ……」
カイがよろよろと顔を上げると、透明なガラス隔壁の向こうに、もう一つの『処刑ポッド』が見えた。
そこに横たわっていたのは、白髪を乱雑に散らし、すでに脳の洗浄を終えて完全に「感情」を奪われた、泥人形のような少女の姿だった。
かつて、一緒に地下排水路を逃げ回った少女。
彼女の名前はセリカ。……夢の中では、フィリアという名の美しい聖女だった、ただ一人のヒロイン。
「セリカ……、セリカ!!」
カイはガラスを叩き、血を吐くように叫んだ。
しかし、彼女の虚ろな瞳がカイを振り返ることは二度となかった。彼女の頭上には、エデンによって完璧に書き換えられた【幸福度:99%】のホログラムが、冷酷に浮遊しているだけだった。
「素晴らしい。有害感情『絶望』の完全な中和を確認しました」
エデンのシステムが、淡々と処理を進めていく。
カイが夢の中で皇帝を殴り殺したあのカタルシスも、十万の軍勢を無に還した圧倒的な力も、少女の涙を拭った左手の暖かさも。そのすべては、彼らの反逆の意志を効率よく摩耗させ、システムに従順な「部品」へと作り替えるための、ただの効率的な洗浄用プログラムに過ぎなかった。
彼らの愛も、戦いも、失った半世紀の寿命も、すべては最初から1ミリも存在しなかった。
【これより、個体識別番号094・カイの最終初期化を実行します。エデンへようこそ、幸福な市民よ】
「いやだ……いやだ、私は、俺は、影の王……ッ! フィリアを、セリカを救うんだぁぁあああッ!!」
カイの最後の絶叫は、脳内になだれ込んだ強烈な電流と快楽物質によって、一瞬でかき消された。
彼の黒髪が、ナノマシンの侵食によってみるみるうちに色素を失い、真っ白に染まっていく。
激しい拒絶に狂っていた彼の瞳から、ゆっくりと、しかし確実に「生気」と「絶望」が消え失せ、代わりにシステムが推奨する、完璧に調律された「笑顔」がその口元に張り付いた。
カイの頭上にも、静かにホログラムが灯る。
【幸福度:99%】
世界は最初から最後まで、1ミクロンも変わっていなかった。
色彩を失った灰色のディストピアの中、感情を殺され、完璧な笑顔を浮かべた二人の人形が、ただ静かに、誰の記憶に残ることもなく、宇宙の無価値なログとして処理されていく。
本当の夜明けなど、永遠に来ない。
――完全終幕。