『放課後、僕らは嘘を重ねる』   作:トート

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第1話:交差点のシグナル

 

高校二年生の秋は、西日に照らされた埃のように、どこか退屈で、それでいてひどく不穏な光を孕んでいた。

「葵、またそれ読んでるの? 本当に飽きないよね」

放課後の教室。窓際の席で文庫本を広げていた水瀬葵(みなせ あおい)は、頭上から降ってきた弾むような声に顔を上げた。

そこにいたのは、ポニーテールを小さく揺らした佐倉結衣(さくら ゆい)だ。彼女の手には、購買部で買ってきたばかりのいちごミルクの紙パックが握られている。結衣の周りには、いつも果物の甘い香りと、遮るもののない太陽のような明るさが満ちていた。

「うん。この作家さんの文章、静かで好きなんだ。結衣こそ、部活はいいの?」

「今日はね、体育館がワックスがけで使えないの。だから女子バレー部は全員一斉にオフ! 最高でしょ」

結衣は葵の前の席に、背もたれを前にする形でまたがって座った。短いスカートが不躾に揺れる。誰もがその無邪気さに惹かれ、彼女の行く先を目で追ってしまう。クラスの人気者。それが結衣という少女だった。

「あ、そうだ。ねえ葵、今日の塾、何時からだっけ?」

「私は五時からだけど……どうしたの?」

「じゃあ、それまでマック行かない? 律と一ノ瀬くんも誘ってさ。四人で話したいことがあって」

結衣の口から「一ノ瀬くん」という名前が出た瞬間、葵の胸の奥で、小さな冷たい針がちくりと跳ねた。

一ノ瀬蓮(いちのせ れん)。同じクラスの男子で、学年トップの成績を維持し続ける特進クラスの異端児。誰に対しても一線を引き、冷めているようでいて、その実、誰よりも他人のことを見ているような、不思議な目をした少年。

葵は、その一ノ瀬に対して、誰にも言えない淡い憧れ――いや、恋心を抱いていた。

「一ノ瀬くんも……来るかな?」

「来る来る! 律がさっき『一ノ瀬も暇そうにしてたから捕まえた』って言ってたし。ほら、噂をすれば」

結衣が教室の前方のドアを指差す。

そこから入ってきたのは、制服のネクタイを乱暴に緩めた大柄な少年だった。長谷川律(はせがわ りつ)。葵の家が隣同士で、生まれた時からの幼馴染だ。ぶっきらぼうで口が悪く、いつも面倒くさそうにしているが、葵が困っている時には必ず最初に手を差し伸べてくる、そんな存在だった。

「おい、佐倉。一ノ瀬を連れてきたぞ。図書室で大人しく自習してたところを、無理やり引っ張ってきたからな。感謝しろよ」

律の後ろから、静かに教室に入ってきたのが一ノ瀬蓮だった。

彼は眼鏡の奥の切れ長な目を少し細め、手にした参考書を鞄にしまいながら、薄く微笑んだ。

「無理やりっていうか、長谷川くんの握力が強すぎて、断ったら腕が折れそうだっただけだよ」

「あはは! 律、また乱暴したの? 一ノ瀬くん、ごめんね。でも誘いに乗ってくれて嬉しい!」

結衣が両手を合わせて一ノ瀬に笑いかける。その瞬間、一ノ瀬の瞳が、ほんの少しだけ柔らかく揺れた。

葵はそれを見逃さなかった。

一ノ瀬は、誰にでも優しい。だけど、結衣に向けるその眼差しだけは、他の誰に向けるものとも違っていた。深い海の底から、眩しい水面を見上げるような、そんな切なさを孕んだ目。

(一ノ瀬くんは、結衣が好きなんだ……)

気づいてしまってから、もう数ヶ月が経つ。

そして同時に、葵はもう一つの「視線」にも気づいていた。

一ノ瀬をまっすぐに見つめ、嬉しそうに笑う結衣。その結衣の後ろ姿を、苦しそうに、だけど愛おしそうに見つめている律の視線。

誰もが、一番近くにいる人の背中を見つめている。

だけど、その人の視線は、自分の隣を通り過ぎて、さらに別の誰かへと向かっている。

放課後の教室に差し込む斜光の中で、4人の見えない矢印が、複雑に交差していた。

駅前のファーストフード店は、近隣の高校生たちでごった返していた。ポテトの油の匂いと、けたたましいお喋りの声が充満する中、4人は奥のボックス席に腰を下ろした。

席の配置は、自然とそうなった。

窓側に葵と律。その向かい側に、結衣と一ノ瀬。

葵の斜め向かいには一ノ瀬がいて、彼の綺麗な指が、冷たいコーラのグラスを弄んでいるのが見える。

「で、話って何だよ、佐倉。わざわざ男二人を引っ張り出してさ」

律がポテトを数本まとめて口に放り込みながら、面倒くさそうに言った。

「あのね、来月の文化祭のことなんだけど」

結衣が身を乗り出す。

「うちのクラス、模擬店でチュロスやることになったじゃん? その看板と内装のデザイン、私と一ノ瀬くんで担当することになったの。ね?」

一ノ瀬はコクンと頷いた。

「うん。委員長に頼まれてね。僕は絵が得意なわけじゃないから、足手まといにならないか心配だけど」

「何言ってるの一ノ瀬くん! 一ノ瀬くんのノート、いっつも図が綺麗で分かりやすいじゃん。私、そういうセンス尊敬してるんだから」

結衣が屈託のない笑顔を向ける。一ノ瀬は少し照れたように視線を落とし、「ありがとう」と小さく呟いた。

その二人のやり取りを、葵は胸の奥をきゅっと締め付けられるような思いで見つめていた。一ノ瀬のそんな顔、自分と二人の時には見たことがない。

「だからさ」結衣が言葉を続ける。「買い出しとか、実際の製作のとき、律と葵にも手伝ってほしいなーって。4人でやった方が絶対楽しいし、進むのも早いじゃん?」

「は? なんで俺まで巻き込まれなきゃいけないんだよ。俺、サッカー部の助っ人で忙しいんだけど」

律が露骨に嫌そうな顔をする。だけど、その目は結衣から逸らされていない。

「いいじゃん、律! 頼むよー、力仕事もあるんだから。葵も、手伝ってくれるよね?」

結衣に真っ直ぐな瞳で見つめられ、葵は断ることができなかった。

「私は、いいよ。塾がない日なら、いくらでも」

「やった! さすが葵、大好き!」

結衣がテーブル越しに葵の手を握る。その手の温かさが、今の葵には少しだけ眩しすぎて、痛かった。

「……チッ。葵が行くなら、俺も行くわ。こいつ、どんくさいから変なところでケガしそうだしな」

律が不機嫌そうに、だけどどこか諦めたような吐息を漏らす。

「言ったね! じゃあ決定! 4人で最高の看板作ろうね!」

結衣は嬉しそうにいちごミルクを飲み干した。

その時、一ノ瀬の視線が、ふと葵へと向いた。

「水瀬さん、無理はしないでね。受験勉強も忙しくなる時期だし」

「あ……うん。大丈夫。ありがとう、一ノ瀬くん」

一ノ瀬の、何気ないその優しさが嬉しくて、同時に悲しかった。彼は私を見てくれている。だけどそれは、ただの「クラスメイト」としての親切でしかないのだ。彼の心の中心にあるのは、きっと、今も隣で笑っている結衣なのだから。

「おい、葵。ポテト食わねえなら、俺がもらうぞ」

律が葵の前にあったポテトの箱に手を伸ばす。

「あ、ずるい。私も食べる」

「遅い。早い者勝ちだ」

律はわざと意地悪く笑って、葵の頭を軽く小突いた。いつも通りの、幼馴染の距離感。安心できるはずのその場所が、今の四角関係の中では、どこか偽りの避難所のようにも思えた。

買い出しの日は、それから一週間後の土曜日に決まった。

秋の空は移り気で、朝からどんよりとした雲が垂れ込めていた。

集合場所の駅前。葵は少し早めに到着してしまった。

肌寒い風が吹き抜ける中、ブレザーのポケットに手を突っ込んで待っていると、「よお」と声がした。

振り返ると、大きなスポーツバッグを肩にかけた律が立っていた。

「律、早いね。部活は?」

「午前中で終わり。佐倉たちが遅れるって連絡あったぞ。なんか、バスが遅延してるとか何とか」

「あ、そうなの……じゃあ、二人で待ってようか」

「おう」

律は葵の隣に並び、自販機で買った温かい缶コーヒーを手渡してきた。

「ほら、冷えてるだろ」

「ありがとう」

缶の熱が、かじかんだ指先に染み渡っていく。

律はしばらく無言で、駅前のロータリーを見つめていた。彼の横顔は、普段のふざけた様子とは違い、どこか物憂げに見えた。

「……なあ、葵」

「ん?」

「佐倉と一ノ瀬ってさ。お前、どう思う?」

唐突な問いかけに、葵の心臓がドクリと跳ねた。

「どう、って?」

「お似合いじゃん、ってことだよ。一ノ瀬は頭いいし、顔もいいし。佐倉みたいな明るい奴には、ああいう落ち着いた奴が合うのかもな、って」

律の声は、いつになく低く、掠れていた。

彼は気づいているのだ。結衣の視線が、自分ではなく一ノ瀬に向いていることに。そして、一ノ瀬もまた、結衣を特別に思っていることに。

「律は……結衣のことが、好きなんだよね」

ずっと言えなかった言葉が、気づけば口からこぼれていた。

律は一瞬、目を見開いたが、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべて髪を乱暴に掻いた。

「……バレてたか。幼馴染ってのは、隠し事ができなくて困るな」

「隠せてなかったよ。律、結衣のこと見るときだけ、目が全然違うもん」

「そうかよ」

律は缶コーヒーのプルタブをパキリと開け、一気に口に含んだ。

「でもさ、アイツが見てるのは俺じゃねえんだよな。昔からずっと一緒にいるのに、一番近くにいるはずなのに、アイツの目が向くのは、いつも俺の知らない別の誰かだ」

その言葉は、そのまま葵の胸にも突き刺さった。

(私も同じだよ、律……)

葵だって、一番近くにいる幼馴染の律が、自分ではなく結衣を見つめているのを知っている。そして、自分が憧れる一ノ瀬もまた、結衣を見つめている。

この場にいない結衣という存在が、二人の心をどうしようもなく翻弄していた。

「お待たせー!」

その時、ロータリーの向こうから、大きく手を振りながら走ってくる結衣の姿が見えた。その後ろを、長い足で静かに歩いてくる一ノ瀬が追っている。

「ごめんね二人とも! バスが全然来なくて!」

結衣は息を切らせながら、律の前に飛び込んできた。

「遅えよ、佐倉。罰として重い荷物は全部お前が持て」

「えー! 律、ひどい! 一ノ瀬くん、言ってやってよ!」

結衣が一ノ瀬の袖を引く。一ノ瀬は困ったように笑いながら、「僕が持つから大丈夫だよ」と結衣の荷物に手を伸ばした。

「いいよ一ノ瀬くん、そんなの悪いよ!」

「男だから、これくらい平気だよ」

二人の間に流れる、どこか甘やかで、他者を寄せ付けない空気。

葵はそれをただ見つめることしかできなかった。

そして、隣に立つ律の拳が、ポケットの中で固く握りしめられているのを、葵は静かに見届けていた。

大型ホームセンターでの買い出しは、想像以上に時間がかかった。

大きな木製のパネル、アクリル絵の具、大量の刷毛に装飾用の電飾。結衣と一ノ瀬がリストを見ながら熱心に品物を選び、律がそれをカートに積み込んでいく。葵は二人の指示に従って、細かい部品を探す係だった。

「一ノ瀬くん、この色のリボンと、こっちの布、どっちがチュロスっぽいかな?」

「うーん、こっちの少し焦げ茶色っぽい方が、美味しそうに見えるんじゃないかな」

「なるほど! さすが入念だね。じゃあこっちにする!」

結衣の弾けるような笑顔と、それに答える一ノ瀬の穏やかな声。

二人が並んで歩く姿は、まるで最初からそう決まっていたかのように絵になっていた。

買い出しが終わり、学校の美術室に荷物を運び込んだ頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。時計の針は午後六時を回っている。

「ふぅ……疲れたー!」

結衣が美術室の椅子にドサリと座り込む。

「一ノ瀬くん、今日は本当にありがとう。私一人じゃ、何買っていいか分かんなくなってたよ」

「僕の方こそ、楽しかったよ。水瀬さんも、長谷川くんも、手伝ってくれてありがとう」

一ノ瀬が葵たちに向かって頭を下げる。

「いいって。俺は佐倉にパシリにされただけだからな」

律はそっ気なく言いながらも、自分のブレザーを結衣の肩にかけた。

「ほら、夕方は冷えるだろ。風邪ひくなよ」

「あ……律、ありがとう」

結衣が一瞬、驚いたように律を見つめる。その瞳に映る律は、ただの「男友達」なのだろうか。それとも――。

その様子を見ていた一ノ瀬の目が、かすかに曇ったのを葵は見逃さなかった。彼は一歩引き、自分のカバンを肩にかけた。

「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。塾の時間が迫ってるんだ」

「あ、一ノ瀬くん、待って。私も途中まで一緒に帰る!」

結衣が律のブレザーを脱ぎ、椅子に置いて立ち上がった。

「律、葵、今日は本当にありがとう! また来週ね!」

二人は並んで美術室を出て行った。

残されたのは、静まり返った美術室と、机の上に残された律のブレザー。そして、葵と律の二人だけだった。

「……行っちゃったね」

葵がぽつりと言った。

律は何も答えなかった。彼は机の上に置かれた自分のブレザーを見つめたまま、動かない。その背中が、ひどく小さく、寂しそうに見えた。

「律……」

葵が手を伸ばしかけた、その時だった。

ガラガラ、と美術室のドアが勢いよく開いた。

戻ってきたのは、一ノ瀬だった。息を切らせている。

「一ノ瀬くん? どうしたの?」

葵が尋ねると、一ノ瀬はまっすぐに律の元へと歩み寄った。その目は、いつもの冷静さを失い、激しい感情の光を宿していた。

「長谷川くん」

一ノ瀬の声が、静まり返った室内に響く。

「君が、結衣ちゃんのことを大切に思ってるのは知ってる。だけど……僕も、譲るつもりはないから」

一ノ瀬はそれだけ言うと、律の返事を待たずに、再び踵を返して去っていった。

結衣のいない場所で放たれた、一ノ瀬の明確な宣戦布告。

美術室に残されたのは、ただ重苦しい沈黙だけだった。

律はゆっくりと顔を上げた。その目は、怒りではなく、深い絶望と、歪んだ焦燥感に染まっていた。

「……あいつ、何なんだよ」

律が低く、絞り出すような声で呟いた。

「何で、全部持ってるあいつが、俺のたった一つのものまで奪おうとするんだよ……」

律の肩が、小刻みに震えている。

葵は、そんな律の姿を見て、胸が引き裂かれるように痛かった。大好きな律が、自分の見つめる幼馴染が、別の女の子のために傷ついている。その事実が、葵の心を暗い底へと引きずり込んでいく。

「律……」

葵は一歩、律に近づいた。

だけど律は、葵の方を見ようとはしなかった。彼の視線は、まだ開いたままのドアの向こう、結衣と一ノ瀬が去っていった暗い廊下の先へと向けられていた。

4人の想いが、完全にすれ違ったまま、秋の夜が更けていく。

これが、私たちの終わりの始まりだということに、この時の葵はまだ、気づいていなかった。

 

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