『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
十二月に入ると、学園を包む空気は一気に現実の冷たさを帯びるようになった。
文化祭の喧騒は完全に過去のものとなり、代わりに廊下を支配したのは、迫り来る大学受験への焦燥感と、どんよりとした冬の寒さだった。
クラスの雰囲気も変わった。私と律に下されていた自宅謹慎の処分や、あの放課後の激しい衝突の噂は、時が経つにつれて「受験勉強」という巨大な現実の前に、少しずつ風化していった。
もちろん、すべてが元通りになったわけではない。
親同士の間にできた深い亀裂は修復不可能なままだし、学校の先生たちを見る私の目はどこか冷めたものに変わった。他人の視線に怯えることはなくなったけれど、自分の胸の奥にある、あの夜の生々しい記憶が消えることはない。
「……ここ、ちょっと分かりにくいな」
放課後の図書室。窓際の特等席で、私は一人で赤本(過去問題集)を広げていた。
志望校の判定は、依然として厳しいまま。だけど、今の私はあの秋の日のように、時間が足りないと狂ったように焦ることはなくなっていた。自分の弱さも、醜さも、すべてを受け入れた今の私は、ただ淡々と、目の前にある課題に向き合う強さを手に入れていた。
「水瀬さん」
静かな声がして、私が顔を上げると、そこに一ノ瀬くんが立っていた。
制服のブレザーのポケットに両手を突っ込み、眼鏡の奥の切れ長な目で、私の手元の参考書を見つめている。彼と二人きりで話すのは、あの放課後の教室での本音のぶつかり合い以来のことだった。
「一ノ瀬くん……。どうしたの?」
「いや、ちょっと図書室に用事があってね。……これ、僕が使わなくなった数学の対策プリント。もし良かったら、使って」
一ノ瀬くんは、数枚の綺麗にホチキス留めされたプリントを、私の机の上にそっと置いた。彼の丁寧な文字で、解法のコツが細かく書き込まれている。
「いいの? 一ノ瀬くんだって、これから受験なのに」
「僕は推薦が決まったから、もう必要ないんだ。……それに、これは僕なりの『お詫び』でもあるから」
一ノ瀬くんは、薄く微笑んだ。その微笑みには、かつての完璧な優等生の冷たさはなく、自分のエゴを認めた人間としての、静かな誠実さが宿っていた。
「君の気持ちを踏みにじって、道具みたいにしてしまったこと。本当にすまなかったと思ってる。……長谷川くんにも、よろしく伝えておいて」
「……ありがとう、一ノ瀬くん。ありがたく使わせてもらうね」
私はプリントを両手で受け取り、真っ直ぐに彼の目を見返した。
もう胸がちくりと痛むことはなかった。一ノ瀬蓮への淡い恋心は、あの激しい嵐の中で、完全に燃え尽きて灰になっていた。残ったのは、同じ痛みを共有したクラスメイトとしての、心地よいディスタンスだけだった。
「結衣ちゃん、最近またバレー部の練習に顔を出し始めたよ」一ノ瀬くんが、去り際にぽつりと言った。「髪を短くしてから、なんだか前より強くなったみたいだ。……君のおかげでもあると、僕は思うよ」
一ノ瀬くんはそれだけ言うと、静かな足取りで図書室を去っていった。
私は彼の背中を見送りながら、机の上のプリントに視線を落とした。
世界は歪んだままだ。だけど、私たちはその歪みのなかで、確かに自分たちの新しい関係性を構築し始めていた。
図書室を出ると、外はもうすっかり薄暗くなっていた。
冬の夕暮れはせっかちで、午後五時を回る頃には、空は深い群青色へとその表情を変えていく。
渡り廊下を歩いていると、体育館の方から、キュッ、キュッ、というバッシュが床を擦る音と、バレーボールを叩く乾いた音が響いてきた。
私は足を止め、格子窓から体育館の中を覗き込んだ。
「――ナイスキー!」
コートの中央で、短い髪を振り乱しながら、大きな声を上げている結衣の姿があった。
彼女のレシーブは、以前よりもどこか鋭く、そして正確になっていた。親友の顔をして彼女を裏切り、彼女の大切な幼馴染を傷つけた私。だけど結衣は、その傷跡さえも自分の血肉に変えるようにして、コートの中で必死にボールを追いかけていた。
結衣が、ふと窓の方を振り返った。
私と目が合う。
一瞬、結衣の動きが止まった。だけど彼女は、すぐにいつもの、太陽のような笑顔を私に向けて、小さくVサインを作ってみせた。
言葉はなくても分かった。
「私はもう大丈夫だから、葵も頑張って」
結衣のその無言のメッセージが、私の胸の奥に、じんわりとした温かさを広げていく。
失った純粋さや、かつての無邪気な友情は、二度と元には戻らない。私たちが犯した過ちの事実は、一生消えることはない。
だけど、私たちはその傷を抱えたまま、お互いの存在を許し合い、それぞれの場所で前を向いて生きている。それだけで、私たちの四角形は、十分に新しい未来を描き始めているのだと思えた。
校舎を出て、いつもの駐輪場へと向かう。
冷たい夜風がブレザーの襟元をすり抜けていき、身体が小さく震えた。
「遅えよ、葵。寒さで指の感覚がなくなってきたわ」
暗闇の中から、自転車に跨った大きな影が話しかけてきた。
律だ。彼は学ランのポケットに両手を突っ込み、マフラーに顔を埋めるようにして、白い息を吐き出していた。
「律……待っててくれたの?」
「おう。お前、今日進路指導室に赤本返しに行くって言ってたからな。一緒に帰るぞ」
律の右手の傷跡は、もうすっかり塞がって、赤黒い一本の線になっていた。彼はその傷跡を隠すことなく、ハンドルを力強く握りしめた。
「一ノ瀬くんから、これ預かったよ。律にもよろしくって」
私はカバンから一ノ瀬くんのプリントを取り出して見せた。
律はそれを一瞥し、「ふん」と鼻で笑った。
「あいつ、相変わらずお節介だな。まぁ、もらっといてやるよ。俺も、少しは勉強しねえと、あいつにバカにされたままだからな」
律の言葉には、かつての刺々しさはなかった。
彼は結衣への未練を、そして一ノ瀬くんへの劣等感を、完全に吹っ切ったわけではないのだろう。今でも、結衣の後ろ姿を見る彼の目は、どこか切なそうに揺れることがある。
だけど、彼はもう、その寂しさから逃げるために、誰かを道具にすることはしないと、その真っ直ぐな瞳が語っていた。
二人は並んで、夜の坂道を下り始めた。
「なぁ、葵」
自転車を押しながら歩く律が、ぽつりと言った。
「ん?」
「俺たち、本当に最低なことしたよな。佐倉を泣かせて、一ノ瀬を怒らせて、親にも学校にも迷惑かけて。思い出すたびに、自分の頭を殴りたくなるわ」
「うん……そうだね。私も、一生忘れないと思う」
私たちは、あの二度の過ちを、決して「美しい思い出」に昇華させることはない。
愛のないセックス、孤独のぶつけ合い、身代わりとしての抱擁。それはどれだけ時間が経っても、ただの生々しい「過ち」であり、「傷跡」として私たちの胸に残り続ける。
「でもさ」律は足を止め、冬の星空を見上げた。「あの夜、お前の部屋で、お前の体温を感じてなかったら……俺、本当に自分が消えちゃいそうだったんだ。お前が隣にいてくれたから、俺は今、こうして立ってられる」
律の言葉は、私の本音でもあった。
「私もだよ、律。誰も私を一番に選んでくれなかった世界で、律だけが、私と同じ暗闇の中にいてくれた。……だから、後悔はしてるけど、律と重ねた嘘のすべてが、無駄だったとは思わない」
私たちは、お互いの顔を見つめ合った。
かつてのような「何も知らない幼馴染」の距離感ではない。一度肌を重ね、お互いの汚い部分をすべて晒し合ったからこそ生まれる、深く、そして重い、特別な絆がそこにあった。
恋なんて名前は、とうにつけられない。
だけど、私たちはこれからも、お互いの傷跡を確認し合うようにして、一番近くで生きていくのだろう。
「帰ろう、葵。腹減った。今日こそお前の奢りな」
「だから何でよ。律の方が背が高いんだから、食費も高いでしょ」
「関係ねえよ、年上が奢るのが世の常だ」
「同学年でしょ、バカ律!」
私たちは、冬の冷たい空気の中に、笑い声を響かせながら歩を進めた。
数ヶ月後。
卒業式の日の放課後、私たちは再び、あの二年B組の教室に集まっていた。
それぞれの胸には、卒業証書の入った筒が握られている。
一ノ瀬くんは東京の難関私立大へ、結衣は地元のスポーツ推薦のある大学へ。そして私は、あの日一ノ瀬くんにもらったプリントをボロボロになるまで解き明かし、かろうじて第一志望の大学への合格を掴み取っていた。律もまた、サッカーの強豪大学への進学が決まっている。
4人は、それぞれ違う未来へと、違う道を歩き出そうとしていた。
教室の窓から差し込む、春の柔らかな光。
あの秋の日の、ドロドロとした夕暮れの光とは違う、すべてを新しく塗り替えるような眩しい光だった。
「みんな、今まで本当にありがとう!」
結衣が、少し短くなった髪を揺らしながら、4人の真ん中で両手を広げた。
「たくさん傷つけ合っちゃったし、最悪なこともいっぱいあったけど……私、この4人で過ごした放課後が、世界で一番大好きだったよ!」
結衣の涙混じりの笑顔に、一ノ瀬くんが優しく微笑み、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
律はそんな二人を見て、ふっと静かに目を細めた後、ポケットから怪我をしていない左手を出して、結衣の頭を一度だけ、優しく小突いた。
「元気でやれよ、佐倉。一ノ瀬、アイツを泣かせたら、今度こそ本当に殴るからな」
「ああ、肝に銘じておくよ」
一ノ瀬くんが、律に向かって真っ直ぐに手を差し出した。律はその手を、男らしく、強く握り返した。
4人の見えない矢印は、もうどこにも交差していなかった。
それぞれが自分の足で立ち、自分の未来を見つめている。
「葵、行こうか」
律が私の方を振り返った。
「うん」
私はカバンを肩にかけ、結衣と一ノ瀬くんに向かって、深く、深く頭を下げた。
「バイバイ、みんな。元気でね」
教室のドアを閉め、廊下に出ると、私たちの影が、春の光に照らされて長く、真っ直ぐに伸びていた。
幼馴染という絶対的な安全地帯を自ら壊し、重なる嘘の泥の中に沈み込んだ、あの放課後。
失った純粋さは二度と戻らないけれど、私たちの胸に刻まれたあの不協和音の傷跡は、これから大人になっていく私たちを、底の方でずっと支え続けてくれるに違いない。
「なぁ、葵」
階段を下りながら、律が私の手を、包帯の外れた右手で、ぎゅっと握りしめた。
「ん?」
「俺たちの未来さ、少しぐらい歪んでた方が、退屈しなくていいよな」
「ふふ、そうだね。律といると、退屈する暇なんてなさそう」
私は、律の手を強く握り返した。
放課後のチャイムが、私たちの新しい始まりを告げるように、春の空へと、どこまでも澄んだ音を響かせ続けていた――。
(『放課後、僕らは嘘を重ねる』・全10話・完)