『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
私たちが歩き出した未来は、お世辞にも綺麗だとは言えないものだった。
「ふざけるのもいい加減にしなさい!」
あの放課後の翌晩、リビングに響き渡った母の悲鳴と、机をひっくり返さんばかりに激昂した父の姿を、私は一生忘れないと思う。隣の家からも、律の父親が怒鳴り散らす声と、何かが激しく壊れる音が夜通し聞こえていた。
当然だった。17歳の高校生が、それも親友を裏切って重ねた過ちの果てに「子供ができた」と言い放ったのだ。親たちのプライドも、長年築いてきた隣人としての信頼関係も、すべてを私たちの身勝手な行動が粉々に踏みつぶした。
何日も何日も、両家が集まって冷たい修羅場が続いた。
「おろしなさい」「学校はどうするの」「人生を棒に振る気か」
投げつけられる正論の刃に、私はただお腹をかばうようにしてうつむくことしかできなかった。
だけど、律は違った。
私の父に胸ぐらを掴まれ、床に押し倒されても、彼はまっすぐに父の目を見据えて言い放った。
「逃げません。葵も、この子も、俺が一生かけて働いて養います。だから、二人でいさせてください」
その言葉通り、私たちは12月の頭に揃って高校の退学届を提出した。
クラスメイトたちに挨拶をする時間も、卒業アルバムに載るための写真を撮ることもなく、私たちは制服を脱いだ。大人になるための正規の手順をすべて放り出し、社会のレールから強制的に弾き飛ばされたのだ。
「……葵、体調はどう? 寒くない?」
12月の半ば。冷たい冬の風が吹き抜ける駅前のロータリーで、作業着姿の律が私に駆け寄ってきた。
彼は学校を辞めた翌日から、知り合いの伝てを頼って建設会社で見習いとして働き始めていた。ゴツゴツとした大きな手は、冬の寒さと泥にまみれてあちこちがひび割れ、かつての高校生だった頃の面影はもうどこにもない。
「うん、大丈夫。律の方こそ、お仕事お疲れ様。手が、また荒れてる……」
「これくらい何でもねえよ。ほら、これ、お前の好きなココア」
律は怪我の跡が残る右手で、自販機で買った温かい缶ココアを私の手に握らせてくれた。
缶の熱が、かじかんだ指先を通して胸の奥へと染み渡っていく。
私たちは、実家を半分勘当されるような形で飛び出し、駅近くの古いアパートの一室で、二人きりの共同生活を始めていた。家賃4万円の、日当たりも良くない小さなお部屋。だけど、そこが私たちの、嘘のない本物の居場所だった。
「葵、ちょっと待って」
アパートへの帰り道。駅前の大きな本屋のガラス窓の前で、律がふと足を止めた。
視線の先、文芸書のコーナーの棚には、大きなポップとともに、見覚えのある名前が並んでいた。
『特進クラスの一ノ瀬蓮、難関私立大学へ現役合格。文芸コンクール最優秀賞受賞』
学校の掲示板ではなく、本屋の広報誌に載っていた彼の名前。一ノ瀬くんは、あの嵐のような日々の中でも、自分の才能と知性を腐らせることなく、完璧に自分の未来を掴み取っていた。
「あいつ、相変わらず完璧だな」
律がマフラーに顔を埋めながら、自嘲気味に笑った。
「うん……。でも、一ノ瀬くんだから、当然だよ」
私はカバンの中から、一ノ瀬くんが最後にくれた数学のプリントを取り出した。結局、私がこのプリントを使って受験会場に向かうことはなかったけれど、今でもお守りのようにカバンの中に大切にしまってある。
彼への届かなかった恋も、彼に見捨てられた惨めさも、今はもう遠い過去の記憶だった。一ノ瀬くんは彼の世界で、一番綺麗な光の中を歩いている。それでいいのだと、心から思えた。
「――葵! 律!」
その時、スクランブル交差点の向こうから、聞き覚えのある高い声が響いた。
振り返ると、短い髪を寒そうにすぼめて、ダッフルコートを着た女の子が走ってくるところだった。
結衣だった。
「結衣……」
私は息を呑んだ。学校を辞めて以来、一度も連絡を取っていなかった親友が、目の前に立っていた。
「やっぱり二人だ! 良かった、会えて」
結衣は息を切らせながら、私たちの前で立ち止まった。彼女の頬は冬の寒さで赤くなっていたけれど、その瞳には、あの美術準備室での涙はなく、いつもの太陽のような温かい光が戻っていた。
「結衣、どうしてここに……」
私が尋ねると、結衣は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「一ノ瀬くんに聞いたの。二人がこの近くのアパートにいるって。だから、どうしてもこれ、渡したくて」
結衣がカバンから取り出したのは、小さな、手編みと思われる白い小さな靴下だった。赤ちゃんの、生まれたばかりの足にぴったり合うような、小さな小さな靴下。
「私ね、バレー部の推薦で地元の短大に行くことになったの。だから……これからは近くにいるから、何か困ったことがあったら、いつでも言ってね。私、これでも赤ちゃんの子守り、得意なんだから!」
結衣は、いつもの屈託のない笑顔で言った。
親友を裏切って、彼女の好きな人を傷つけた私。なのに、結衣は私たちの犯した過ちさえも、その大きな優しさで包み込んで、新しい命の誕生を祝福してくれたのだ。
「結衣……ありがとう……本当に、ありがとう……」
私は手編みの靴下を胸に抱きしめ、涙をボロボロと溢れさせた。
「もう、泣かないの、葵。お母さんになるんでしょ?」
結衣は優しく私の涙を拭って、最後に一度だけ、私と律を交互に見つめた。
「二人とも、絶対に幸せになってね」
結衣はそれだけ言うと、大きく手を振りながら、一ノ瀬くんが待つであろう駅の方へと走って行った。その背中は、以前よりもずっと大人びて、強く見えた。
失った純粋な時間は戻らない。友情の形は歪んでしまったかもしれない。
だけど、私たちはその歪みを抱えたまま、確かにお互いを許し合い、繋がっている。それだけで、私たちの四角形は、綺麗ではないけれど、どこまでも強固な未来を描き始めているのだと思えた。
小さなアパートの部屋に戻ると、窓の外にはすっかり夜の帳が降りていた。
四畳半の部屋にコタツを出し、二人で並んで座る。
律は作業着を脱ぎ、tシャツ姿になって、自分の割れた指先を見つめていた。
「なぁ、葵」
「ん?」
「俺さ、お前を学校辞めさせて、こんな狭い部屋に閉じ込めて、毎日後悔させてるんじゃねえかって、ときどき怖くなるんだよ」
律の声は低く、不器用だった。
「後悔なんてしてないよ、律」
私はコタツの中で、律の手をそっと握りしめた。
「確かに、みんなと同じように卒業式に出て、女子大生になって、普通の恋をする未来はなくなったよ。でもね、私は今、律の隣にいて、この子を一緒に育てられることが、世界で一番幸せだって思ってる」
私は、律の手を自分のまだ平らなお腹の上へと導いた。
「ほら、触ってみて。まだ動かないけど、ここに確かにいるんだよ。私たちの、嘘から始まった、たった一つの本当の光が」
律の手のひらから、泥臭くて、だけど温かい熱が、私のお腹を通して、内側の小さな鼓動へと伝わっていく。
律の目の奥から、一滴の涙が溢れ、私の手の甲に落ちた。
「ああ……。俺、絶対にお前らを幸せにする。何があっても、死ぬ気で働くからな」
私たちは、お互いの顔を見つめ合って、少しだけ笑った。
私たちが選んだ道は、決してハッピーエンドのシンデレラストーリーなんかじゃない。
これから先、親との確執や、経済的な苦しさ、若すぎる親への世間の冷たい目など、果てしない現実の嵐が私たちを待ち受けているだろう。
お互いを見るたびに、あの秋の日の背徳感と、結衣を傷つけた罪悪感が、一生胸を刺し続けるだろう。
だけど、私たちはその傷跡を勲章のように胸に抱いて、二人で生きていく。
誰の一番にもなれなかった二人が、お互いにとっての、そしてこの子にとっての「たった一つの一番」になるために。
翌年の春。
突き抜けるような青空から、柔らかな桜の花びらが舞い散る日の放課後。
私たちは、小さなベビーカーを押して、誰もいない駅前の公園のベンチに座っていた。
ベビーカーの中では、結衣がくれた白い靴下を履いた小さな赤ちゃんが、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
「なぁ、葵。今日、あいつらの卒業式だな」
律が、スーツ姿(就職活動や今後の手続きのために新調したもの)の襟元を少し緩めながら言った。
「うん。今頃、みんなで黒板に寄せ書き書いてるのかな」
私たちはその光の中にはいない。
だけど、私たちの胸には、あの放課後の喧騒も、激しい雨の音も、本音をぶつけ合った美術準備室の夕暮れも、すべてが大切な、そして絶対に消えない痛みの記憶として刻まれている。
「行こうか、パパ」
私が呼びかけると、律は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「おう、行くか、ママ」
律がベビーカーを押し、私がその隣に並んで歩き出す。
私たちの影は、春の暖かな光に照らされて、三人分の小さな影となって、真っ直ぐに、未来へと伸びていた。
歪んだ四角形のなかで、私たちは誰もが嘘を重ね、誰もが傷ついた。
だけど、重ねた嘘の果てに、私たちは自分たちだけの、絶対に壊れない「真実の家族」を見つけた。
遠くから、高校の終わりを告げる最後のチャイムの音が、かすかに響いてきた気がした。
その音は、私たちの過去を優しく見送るように、そして新しく始まる彼らの放課後を祝福するように、春の空へと、どこまでも澄み渡っていった――。
(『放課後、僕らは嘘を重ねる』・全10話・完)