『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
「……葵。何だよ、こんなところに呼び出して。また一ノ瀬たちに……」
入ってきた律の顔には、二週間の謹慎の疲労と、まだ引きずっている結衣への未練、そして私への気まずさが混ざり合っていた。
私は何も言わずに、カバンの中からティッシュに包まれたあのプラスチックのスティックを取り出し、律の目の前に差し出した。
「これ、見て」
律は眉をひそめ、不審そうにそれを受け取った。ティッシュを開き、赤い二本のラインを目にした瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
「……これ、何だよ」
「妊娠検査薬。……赤ちゃんが、できた。律と私の、子供だよ」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。
しかし、私の予想していた「覚悟」や「優しさ」は、そこにはなかった。
律の顔からみるみるうちに血の気が引き、その瞳に宿ったのは、見たこともないような激しい「拒絶」と「恐怖」だった。
「……は? 何言ってんだよ」
律の声が、低く、低く地を這うように響いた。
「嘘だろ。お前、何言ってるの? 冗談だろ、おい!」
「冗談じゃないよ、律! 二回試したの。朝もずっと吐き気が止まらなくて……」
私が一歩近づこうとすると、律はまるで汚い生き物を見るかのように、激しくのけぞって私を拒絶した。
「ふざけんなよ!」
律は狂ったように叫び、手の中のスティックを床に叩きつけた。プラスチックの割れる高い音が、静かな美術準備室に響き渡る。
「俺の子供なわけねえだろ! お前、一ノ瀬のことが好きだったじゃん! あいつにフラれた腹いせに俺と寝たくせに、なんで俺のせいにすんだよ! 嵌(は)めようとしてんのか!?」
「律、そんなこと……!」
頭を殴られたような衝撃だった。あの雨の夜、私の部屋で「俺をお前の代わりにしろ」と言ったのは、他でもない律だったはずなのに。
「俺はサッカー推薦で大学に行くんだよ! これからってときなんだよ! なんでお前みたいな地味な女のせいで、俺の人生がめちゃくちゃにされなきゃいけないんだよ!」
律の目は完全に血走り、正気を失っていた。彼の中の「高校生のプライド」や「未来への保身」が、突然突きつけられた巨大な現実に耐えかねて、凶暴な怪物となって剥き出しになっていた。
「下ろせよ!」
律は私の肩を、骨が軋むほどの力で強く掴み、壁に押し付けた。
「今すぐ下ろせ! なかったことにしろ! あの夜のことだって、全部嘘で忘れるって約束しただろ! お前が全部抱えて消えろよ!」
「痛い……律、離して……!」
私は恐怖で身体を震わせ、お腹を守るようにして身を縮めた。
律は私を突き放すように強く押し出すと、近くにあった木製のイーゼルを力任せに蹴り飛ばした。バキバキと音を立てて木枠が壊れ、デッサン用の石膏像が床に落ちて粉々に砕け散る。
「全部お前のせいだ! お前と寝たのが間違いだったんだ! 近寄るな、この人殺し!」
律は、私にひどい言葉の暴力を叩きつけ、耳を塞ぐ私を冷たい目で見下ろした。
そこには、生まれた時から一緒にいた優しい幼馴染の面影は、一微塵も残っていなかった。現実に恐怖し、保身のために私を悪者に仕立て上げようとする、哀れで醜い一人の男がいるだけだった。
律は乱暴にカバンを掴むと、ドアを壊さんばかりの勢いで開け、美術準備室を飛び出して行った。
激しい足音が廊下に響き、やがて消えていく。
真っ赤な夕日に染まった部屋に残されたのは、粉々に砕けた石膏像と、床に転がった壊れた検査薬。そして、壁に背中を預けて座り込み、声も出せずに震えている私だけだった。
「……あ、あ……」
お腹のあたりを両手で強く抱きしめる。
律に投げつけられた「下ろせ」「消えろ」という言葉の刃が、私の胸に深く、深く突き刺さって血を流していた。
誰も私を選んでくれない。一番近くにいたはずの幼馴染さえも、現実の前には私を化け物のように拒絶して逃げ出した。
世界中に、私を必要としてくれる人なんて、最初から一人もいなかったのだ。
私は、激しい精神的なショックと絶望のなかで、冷たい床の上で意識を失うようにして、深く、深い闇の中へと沈み込んでいった――。
美術準備室の扉が、再び静かに開いた。
戻ってきたのが誰なのか、私にはもう確かめる気力さえ残っていなかった。冷たいコンクリートの床に横たわったまま、ただ天井の染みを見つめていた。
「――葵!?」
悲鳴のような声が、静まり返った室内に響いた。
短い髪を揺らしながら、結衣が私の元へと駆け寄ってくる。彼女の足元で、律が蹴り飛ばした木製のイーゼルの破片がカラカラと音を立てて転がった。
「どうしたのこれ……。葵、しっかりして! 体、すごく冷たいよ!」
結衣が私の肩を抱き起こそうとする。その手の温かさが、今の私にはあまりにも遠い世界のもののようで、逆に胸が締め付けられるように痛かった。
結衣の後ろには、一ノ瀬くんが立っていた。
彼は床に落ちて粉々に砕けた石膏像と、その傍らに転がっているプラスチックのスティック――くっきりと二本の赤いラインが浮かび上がった妊娠検査薬――を静かに見つめていた。一ノ瀬くんの眼鏡の奥の目が、驚きと、すべてを察したような深い色に染まっていく。
「結衣ちゃん、触らない方がいい」
一ノ瀬くんが低い声で言った。
「え……? でも、葵が……」
「長谷川くんと、さっき廊下ですれ違ったんだ。ひどい顔をして、僕たちを突き飛ばして走っていった。……水瀬さん、これを長谷川くんに見せたんだね」
一ノ瀬くんが床のスティックを指差す。結衣がそれを見つめ、ハッと息を呑んだ。
「これ……嘘、でしょ……」
結衣は両手で口を覆い、一歩後ろに下がった。彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちる。
「全部、本当だよ、結衣」
私は、乾いた声を絞り出した。
「赤ちゃんができたの。律との子供。……さっき、律に言ったらね、ものすごく怒られた。『お前のせいで人生がめちゃくちゃだ』って。私の肩を掴んで、壁に押し付けて……今すぐ下ろせ、消えろって言われたよ」
私は自嘲気味に笑った。涙すらもう出なかった。
「私たちは最低なことをした。親友の結衣を裏切って、お互いを身代わりにして、体を重ねた。その報いが、これ。律は逃げちゃった。私は一人ぼっち。……これが、私たちの嘘の結末だよ」
「葵……」
結衣は、私の醜い本音を聞いても、私を責めることはしなかった。ただ、床に膝をつき、私の泥だらけの手を、ぎゅっと、壊れ物を扱うように強く握りしめた。
「ごめんなさい、葵。私が、律をただの幼馴染って場所に閉じ込めて、甘えてたから……二人にこんな悲しい思いをさせちゃったんだよね。葵を一人になんかさせない。私が、ずっと一緒にいるから……」
結衣のその純粋な優しさが、今の私には何よりも残酷で、そして何よりも救いだった。
一ノ瀬くんが、私の前に歩み寄り、静かに見下ろした。
「水瀬さん。僕は君たちを軽蔑していた。だけど……長谷川くんのやったことは、男として、人間として絶対に許されることじゃない。君がこれからどうするにしても、学校や大人たちを巻き込んで、ちゃんとした手順を踏むべきだ」
一ノ瀬くんの言葉は、どこまでも現実的で、冷徹だった。だけど、そこには確かに、私を守ろうとする彼なりの誠実さが含まれていた。
夕暮れの赤い光が、美術準備室を静かに、だけど容赦なく真っ赤に染め上げていく。
4人の四角関係は、恋愛のすれ違いなんていう綺麗な言葉では片付けられない、引き返せない現実の奈落へと、完全に崩れ落ちていった――。
あの燃えるような夕暮れの美術準備室から、私たちの時計の針は、容赦なく現実の冬へと進められた。
「逃げるなんて、絶対に許さないから」
結衣のあの泣きながらの怒号と、一ノ瀬くんが大人たちを動かした迅速な対応によって、事態は学校全体、そして両家を巻き込む巨大な裁判のようになっていった。
律は部屋を飛び出したその日の夜、駅前の繁華街を宛てもなく彷徨っていたところを、一ノ瀬くんから連絡を受けた彼の父親によって捕まえられた。翌日、進路指導室に集められた大人の前で、律は借りてきた猫のように小さく丸まり、ただ「すいません」と震える声で繰り返していた。
あの日、私に「下ろせ」「消えろ」と叫び、イーゼルを蹴り飛ばした狂気じみた怪物の姿は、そこにはなかった。ただ、自分の仕でかした過ちの大きさに怯え、未来を失う恐怖に泣きじゃくる、未成熟で哀れな17歳の少年の姿があるだけだった。
「水瀬さん、本当に申し訳ありませんでした」
律の両親は、私の両親の前で何度も頭を下げた。律の推薦入学は取り消され、彼は自主退学という形でひっそりと学校を去ることが決まった。
私の両親も、怒りと悲しみで疲れ果てていた。「おろしなさい」「これからの人生をどうするんだ」という母の涙ながらの説得に、私はもう、あの美術準備室のときのような絶望は感じていなかった。
なぜなら、私の隣には、ずっと結衣がいてくれたからだ。
「葵は悪くないよ。みんなで傷つけ合って、こうなっちゃったんだもん。私が、葵とこの子を、一生支えるから」
結衣は親たちを前に、一歩も引かずにそう言い切ってくれた。彼女が私の手を握ってくれていたから、私は自分の人生に、そしてお腹の中に宿った小さな現実に対して、まっすぐに向き合う覚悟を決めることができた。
私は、律との関係をすべて終わらせることにした。
彼は私の部屋に、一度だけ謝罪に来た。だけど、私はドアを開けなかった。インターホン越しに聞こえる彼の震える声を聞きながら、私はただ「もう来ないで」とだけ告げた。
お互いを別の誰かの身代わりにし、現実の恐怖から逃げるために傷つけ合った、歪んだ幼馴染のディスタンス。それは、あの美術準備室で律がイーゼルを蹴り飛ばした瞬間に、完全に、修復不可能なほど粉々に砕け散っていたのだ。
一月。冷たい木枯らしが吹き抜ける中、私は結衣と並んで、少し離れた街にある大きな総合病院のロビーを歩いていた。
お腹のあたりは、ブレザーの上からでも少しだけ丸みを帯び始めているのが分かる。
「葵、体調は大丈夫? 寒くない?」
結衣が、私のカバンを持ってくれながら、心配そうに顔を覗き込んでくる。肩の上で切り揃えられた彼女の短い髪が、冬の風に揺れていた。
「うん、大丈夫。結衣がついててくれるから、全然怖くないよ」
私は微笑んだ。
私は学校を辞めなかった。通信制の課程へと編入し、出産に向けて自宅での学習を続ける道を選んだ。一ノ瀬くんが、自分の推薦の合間を縫って、編入の手続きや学習のサポートに必要なプリントを何度も届けてくれたおかげだった。
「水瀬さん、長谷川くんは地元の小さな自動車整備工場で見習いとして働き始めたらしいよ」
いつだったか、一ノ瀬くんが静かな声で教えてくれた。
「彼は自分のしたことから逃げた。だけど、これからは自分の力で、その責任の重さを一生背負って生きていくことになる。……それが、彼に下された本当の処分だと思う」
一ノ瀬くんの言葉には、かつての傲慢な軽蔑はなかった。彼もまた、結衣への執着から私を利用してしまったという自身の「歪み」を認め、それを補うようにして、私と結衣の生活を陰から支えてくれていた。
病院のロビーの大きなガラス窓から、突き抜けるような冬の青空が見えた。
かつて私が図書室の窓から見上げていた、あの一ノ瀬くんの綺麗な瞳のような、冷たくて、だけどどこまでも澄んだ青。
「あ、一ノ瀬くんだ」
結衣が窓の外を指差す。
病院の門の前、マフラーに顔を埋めながら、参考書を片手に私たちの診察が終わるのを待っている一ノ瀬くんの姿があった。
結衣が嬉しそうに窓をコンコンと叩き、大きく手を振る。一ノ瀬くんが顔を上げ、少し照れくさそうに眼鏡の位置を直しながら、小さく手を振り返してくれた。
二人の距離は、以前のような他者を寄せ付けない甘いものではなくなっていた。お互いの「醜さ」を知り、傷を負ったからこそ生まれた、静かで、お互いを尊重し合う大人のような距離感。
その美しい世界の片隅に、私はもう入ろうとは思わなかった。だけど、その世界がそこにあることを、今はとても愛おしく、救いのように感じていた。
小さなアパートの一室。
私は、結衣が「これ、葵に似合うと思うんだ!」と買ってきてくれた、淡いピンク色のマタニティウェアを着て、コタツに入ってノートを開いていた。
窓の外からは、夕暮れの早鐘を告げるように、遠くの街のチャイムの音が響いてくる。
もう、あの雨の夜の匂いも、美術準備室での律の荒い呼吸の感触も、私の脳裏を狂わせることはなかった。それらはすべて、大人になるための過酷な儀式の記憶として、私の胸の奥の一番底深い場所に、静かに沈殿していた。
お腹にそっと手を当てる。
トントン、と、微かな、だけど確かな鼓動が手のひらに伝わってきた。胎動だ。
「……生きてるね」
私は小さく呟き、涙をひとしずく、ノートの端に落とした。
誰も私を一番に選んでくれなかった世界。
親友を羨み、大好きな人に届かず、幼馴染と傷つけ合った、ドロドロの四角関係。
だけど、その重なる嘘と過ちの果てに、私の身体の中には、一点の曇りもない本物の「命」が、確かに光を灯していた。
律はもういない。私たちは二人で親になることはできなかった。
だけど、私には結衣がいる。一ノ瀬くんがいる。そして、何より私のこれからの未来を共に歩んでくれる、この小さな命がある。
「葵ー! 焼き芋買ってきたよー!」
ガチャリとドアが開き、大きな袋を持った結衣が元気よく入ってきた。
「冷めないうちに食べよ! 一ノ瀬くんも、模試が終わったらここに来るって!」
「ふふ、ありがとう、結衣。いつも賑やかだね」
私たちは、コタツを囲んで笑い合った。
私たちの描いた四角形は、綺麗に形を保ったままハッピーエンドを迎えることはできなかった。一角が崩れ、歪み、誰もが血を流した最悪の壊れ方をした。
だけど、その歪んだ四角形の破片を抱えたまま、私たちはそれぞれ、自分の足で新しい未来に向かって歩き出している。
数年後の春。
暖かな桜の雨が降る、小さな公園のベンチ。
私は、3歳になったばかりの小さな女の子の手を引いて、お散歩をしていた。
女の子の足元には、あの冬の日に結衣がくれた、白い小さな靴下が、少しだけ汚れて、だけど愛らしく揺れている。
「ママ、お花綺麗ね」
「うん、綺麗だね。結衣おばちゃんが来たら、一緒に写真撮ろうね」
「葵ー! お待たせ!」
公園の入り口から、短大を卒業して立派な社会人になった結衣が、スーツ姿で走ってきた。その後ろからは、大学を卒業し、文芸の道で本格的に歩み始めた一ノ瀬くんが、穏やかな微笑みを浮かべながら歩いてくる。
二人は今でも、それぞれの道を歩みながら、私の、そしてこの子の「一番大切な家族」として、隣にいてくれている。
私たちは、あの放課後の教室にはもう戻れない。
犯した過ちの罪悪感も、失った純粋な時間も、二度と元には戻らない。
だけど、お互いの胸に刻まれたあの不協和音の傷跡があるからこそ、私たちは誰よりも強く、誰よりも優しく、人を愛することができるのだと知った。
「ママ、あっちに大きい時計があるよ!」
娘が、公園の中央にある大きな時計台を指差した。
その時計の針は、歪むことなく、まっすぐに、私たちのこれからの未来を刻み続けている。
「行こうか」
私は結衣と一ノ瀬くんに向かって微笑み、娘の手を強く握りしめた。
春の柔らかな光に照らされて、私たちの影が、真っ直ぐに、どこまでも続く未来の向こうへと伸びていた――。
(『放課後、僕らは嘘を重ねる』・全10話・完)