『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
一ノ瀬蓮からの、あの静かで冷徹な宣戦布告から一週間が経った。
学校という狭い箱の中では、何事もなかったかのように日常が流れていく。十月も半ばを過ぎると、夕暮れの早さは加速し、放課後の廊下には冷たい影が長く伸びるようになった。
「ねえ一ノ瀬くん、ここの背景のグラデーションさ、もう少し濃い青にした方が夜空っぽくなるかな?」
「そうだね。でも、あまり暗くしすぎると、文字が見えなくなっちゃうから、少しだけ白を混ぜてみようか」
美術室の大きな机の上。結衣と一ノ瀬は、文化祭の模擬店で使う巨大な看板パネルを前に、肩を並べて筆を動かしていた。
二人の距離は、一週間前よりも確実に近くなっている。結衣の屈託のない笑い声に、一ノ瀬が優しく目を細めて応える。その空間だけが、まるで最初から完成された一つの絵画のようだった。
「……葵、そっちの電飾、絡まってねえか?」
少し離れた工作スペースで、律が低い声で私に話しかけてきた。
彼の前には、看板の縁に取り付けるための木枠が置かれているが、手にしたヤスリはほとんど動いていない。律の視線は、作業をしながらも、時折激しい焦燥を孕んで結衣と一ノ瀬の姿を捉えていた。
「あ、ううん、大丈夫。今、ちゃんと解いてるよ」
葵は絡まったコードを指先で弄びながら、小さく息を吐いた。
一ノ瀬が結衣を見つめる目。結衣が一ノ瀬に向ける、少し特別な笑顔。そして、それを見て拳を握りしめる律。
すべての矢印が、自分の頭上を通り過ぎていく。葵の胸の奥には、冷たい澱(おり)のような寂しさが、日に日に深く積もっていくようだった。
「よし、今日のところはこれくらいにしようか。結衣ちゃん、乾くまで触らないように気をつけてね」
「はーい! あ、一ノ瀬くん、今日もこれから塾?」
「うん。でも、駅までは一緒に歩けるよ」
結衣は嬉しそうに微笑み、自分のカバンを肩にかけた。
「律、葵! 私たち先に行くね。鍵、戸締まりよろしく!」
「おう」
律は短く答えた。その声は、驚くほど低く、冷めていた。
二人の足音が廊下に消えていく。
美術室に残されたのは、強烈な絵の具の匂いと、気まずいほどの静寂。そして、誰にも選ばれなかった葵と律の二人だけだった。
「……律」
葵が声をかけると、律は乱暴にヤスリを机に放り投げた。乾いた音が室内に響く。
「やってらんねえよ」
律は前髪を乱暴にかき上げ、窓の外の濁った夕空を睨みつけた。
「あいつ、本当に譲る気はねえってわけだ。佐倉も佐倉だ。あんな分かりやすい優等生のどこがいいんだよ」
律の言葉には、棘があった。それは結衣への怒りではなく、自分の手が届かない場所へ行ってしまう彼女への、どうしようもない焦りと恐怖の裏返しだった。
「一ノ瀬くんは、優しいから……」
葵は一ノ瀬を庇うような言葉を口にしてから、すぐに後悔した。一ノ瀬の優しさが、自分のためではなく結衣のために向けられていることを、誰よりも痛感しているのは葵自身なのに。
「優しい? ああ、そうだな。あいつは完璧だよ。成績もよくて、誰にでも好かれて。……俺とは大違いだ」
律の自嘲気味な言葉が、葵の胸を抉る。
「そんなことないよ。律にだって、良いところはたくさん……」
「慰めんなよ、葵」
律は葵の言葉を遮り、冷たい目で私を見た。
「お前だって、あいつのこと見てるだろ」
心臓が、氷水を浴びせられたように冷たくなった。
「え……?」
「隠したって無駄だ。お前、一ノ瀬が佐倉と話してるとき、いつも泣きそうな顔して見てるじゃん。幼馴染を舐めんな。お前の考えてることくらい、全部分かるよ」
律の言葉は、正確に葵の秘密を暴いた。
誰も見ていないと思っていた自分の片思いを、一番近くにいる幼馴染に知られていた。その恥ずかしさと、指摘された事実の痛みに、葵の目からじわっと涙が滲みそうになる。
「……最低」
葵は小さな声で呟き、カバンを掴んで美術室を飛び出した。
後ろから律が自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、振り返る気にはなれなかった。
階段を駆け下り、誰もいない放課後の渡り廊下を走った。
涙が頬を伝う。一ノ瀬への想いが届かないこと。それを律に指摘されたこと。そして何より、自分も律も、誰の一番にもなれないという惨めな現実が、葵を押し潰しそうにしていた。
気がつくと、葵は校舎の最上階、屋上へと続く重い鉄の扉の前に立っていた。
普段は施錠されているはずの扉が、なぜか少しだけ隙間を空けている。葵は吸い寄せられるように、その扉を押し開けた。
十月の夜風が、濡れた頬に冷たく吹きつける。
空はもうすっかり夜の帳を下ろしており、街の明かりが遠くでパズルのピースのように輝いていた。
フェンスに近づき、冷たい鉄格子に額を押し当てる。
「……何やってるんだろう、私」
誰にも届かない恋をして、勝手に傷ついて、親友を羨んで。自分の心の醜さが嫌でたまらなかった。
「……そこにいたのか」
背後から、静かな、だけど少し息を切らした声がした。
振り返ると、律が立っていた。制服のブレザーを手に持ち、肩を小さく上下させている。美術室から、葵を追いかけてきてくれたのだろう。
葵は慌てて袖で涙を拭い、顔を背けた。
「……来ないで。一人にして」
「嫌だね。お前、今にもフェンスから飛び降りそうな顔してたからな」
「そんなことするわけないでしょ。バカにしないで」
律はため息をつきながら歩み寄り、葵から少し離れたフェンスに背中を預けた。
二人の間に、冷たい夜風が通り抜けていく。
「さっきは、悪かった」
律がぽつりと言った。いつになく素直な謝罪だった。
「……俺も、イライラしてた。一ノ瀬に煽られて、佐倉があいつに笑いかけてるの見て、自分が情けなくなって。……八つ当たりした。ごめん」
律の横顔は、街灯の光に照らされて、ひどく寂しそうに見えた。
いつもはぶっきらぼうで、何でも力づくで解決しそうな律が、こんなにも弱く、傷ついている。葵はその姿に、自分と同じ「孤独」を見た。
「……いいよ」葵は膝を抱えるようにして、フェンスに寄りかかった。「私も、一ノ瀬くんのことが好きなの。律の言う通りだよ。結衣と一ノ瀬くんが楽しそうにしてるのを見るの、本当は、すごく苦しい」
初めて、自分の本音を言葉にした。
口にすると、余計にその事実が重くのしかかってくる。
「あいつら、お似合いだよな」律が自嘲気味に笑う。「誰も口には出さないけど、クラスの奴らもみんなそう思ってる。俺たちがどんなに足掻いたって、あの二人の間には入れねえんだよ」
「うん……」
「笑っちゃうよな。一番近くにいるのにさ。俺なんて、生まれた時からあいつの隣にいるのに、あいつの『特別』にはなれなかった」
律の声が、かすかに震えていた。
お互いに、別の誰かを求めている。
だけど、今この暗闇の中で、隣同士で傷を舐め合っているのは、その求めている相手ではない。
葵と律は、互いの「失恋」という共通の痛みを媒介にして、奇妙な、そしてどこか歪んだ連帯感を抱き始めていた。
「ねえ、律」
「ん?」
「私たち、似た者同士だね」
「ふん、一緒にするな。俺の方が少しはマシだ」
「何それ、ひどい」
葵は少しだけ笑った。涙はいつの間にか乾いていた。
律がブレザーを葵の肩にかける。その布地からは、微かに部活の汗と、彼がいつも使っているシーブリーズの匂いがした。一ノ瀬の持つ、洗練された大人の匂いとは違う、泥臭くて、だけど安心する匂い。
「寒いだろ。帰るぞ」
「うん」
二人は並んで、夜の屋上を後にした。
この時、二人の距離は確かに縮まっていた。しかしそれは、純粋な好意によるものではない。お互いの胸にある「別の誰かへの未練」が引き寄せた、偽りのディスタンスだった。
それからの数日間、4人の関係は奇妙なバランスを保っていた。
結衣と一ノ瀬は、文化祭の準備を通じてさらに親密さを増していった。放課後だけでなく、昼休みも二人で中庭のベンチで熱心に打ち合わせをしている姿が目撃されるようになる。
「ねえ葵、最近一ノ瀬くんと話すのが、すごく楽しいんだ」
ある日の移動教室の途中、結衣が少し頬を染めながら葵に耳打ちした。
「一ノ瀬くん、一見冷たそうに見えるけど、本当はすごく周りのこと見てて、優しいの。私、あんな風に人のことちゃんと考えてる人、初めてかもしれない」
結衣の瞳は、恋をする女の子のそれだった。
「……そうなんだ。良かったね、結衣」
葵は引き攣った笑顔を返すのが精一杯だった。親友の恋を応援したいという気持ちと、それを引き裂いてしまいたいという醜い独占欲が、胸の中で激しく渦巻く。
一方、律はそんな二人をあえて見ないようにしているようだった。
放課後の美術室でも、必要最低限の言葉しか交わさない。その代わり、律は何かから逃げるように、葵の側にいる時間が増えていた。
「葵、今日の塾、終わったら駅前のマックな」
「え? 今日も?」
「おう。お前、数学の補習あるんだろ。俺が教えてやるよ。サッカー部の助っ人期間も終わったし、暇なんだよ」
律はぶっきらぼうに言うが、それが彼なりの「寂しさを紛らわせる方法」なのだと、葵には分かっていた。
二人でいる時間、律は結衣の話をしない。葵も一ノ瀬の話をしない。
それは、お互いの傷口に触れないための、無言の暗黙の了解だった。
ある日の放課後、買い忘れた材料を揃えるため、葵と律の二人で再びホームセンターへ向かうことになった。
結衣と一ノ瀬は、学校に残って看板の背景を塗る作業を進めている。
「雨、降ってきたな」
ホームセンターの出口。律が暗くなった空を見上げて眉をひそめた。
ポツポツと降り始めた雨は、瞬く間に激しさを増し、地面を白く叩きつけるような豪雨へと変わっていった。
「どうしよう、傘、一本しかないや」
葵がカバンから折りたたみ傘を取り出す。小さな、一人用の傘だ。
「俺、持ってねえ。……チッ、最悪だな。お前の傘に入れろよ」
「え、でも、これ小さいから、二人だと濡れちゃうよ」
「いいから。ほら、貸せ」
律は葵の手から傘を奪い取り、バサリと開いた。
「入れよ」
狭い傘の下。自然と、二人の身体が密着する。
律の大きな肩が葵の肩とぶつかり、彼の体温がダイレクトに伝わってくる。
「ほら、お前左側入れ。濡れるだろ」
律は傘を葵の方へと大きく傾けた。そのため、律の右肩はすぐに激しい雨に打たれて黒く染まっていく。
「律、濡れてるよ。もっとこっち入って」
「うるせえ。お前が風邪ひいたら、お前の母親に俺が怒られるんだよ」
律の不器用な優しさが、今の葵には少しだけ切なかった。
(どうして、この優しさが結衣に向けられているんだろう……)
(どうして、私は律じゃなくて、一ノ瀬くんを求めてしまうんだろう……)
雨の音は、周囲の雑音をすべて消し去ってくれる。
世界に、この小さな傘の下の二人だけが残されたような錯覚。
「なあ、葵」
激しい雨音に消されそうなほど、低い声で律が呟いた。
「ん?」
「俺たち、何やってんだろうな」
律の視線は、雨の向こうの暗闇を見つめていた。その瞳には、屋上で見せたのと同じ、深い絶望の色が浮かんでいた。
「……分からない。でも、こうしていると、少しだけ楽になるよ」
葵の本音だった。
誰も自分を選んでくれない世界で、せめてこの瞬間だけは、お互いの存在を感じていられる。それが、どんなに歪んだ、偽りの関係であったとしても。
律は何も言わず、ただ葵の肩を、少しだけ強く抱き寄せた。
傘を叩く激しい雨の音だけが、二人の嘘を覆い隠すように、鳴り響き続けていた。
学校に戻ると、美術室の明かりがまだ点いていた。
葵と律は、濡れた服を制服のハンカチで拭きながら、美術室のドアを開けた。
「ただいま。材料、買ってきたよ……」
葵の言葉が、途中で凍りついた。
美術室の中央。巨大な看板パネルの裏側。
そこには、結衣と一ノ瀬の姿があった。
荷物を置くために近づいた葵と律の目に飛び込んできたのは、あまりにも決定的な瞬間だった。
一ノ瀬が、結衣の肩を優しく抱き寄せている。
そして、結衣は拒むことなく、一ノ瀬の胸に顔を埋めていた。
窓の外の雷光が、一瞬だけ室内を白く照らし、二人の影を壁に大きく映し出す。
二人は、葵たちの足音に気づくと、慌てて離れた。
結衣の顔は真っ赤で、その目には涙が浮かんでいるように見えた。一ノ瀬はいつになく動揺した表情で、眼鏡の奥の目を泳がせている。
「あ……葵、律。おかえり」
結衣の声は震えていた。
「違うの、これは……その、一ノ瀬くんが、私の相談に乗ってくれてて……」
言い訳をする結衣の言葉は、誰の耳にも届かなかった。
葵の隣で、律の空気が一瞬で変わるのが分かった。
律の身体が、怒りと絶望で小刻みに震えている。彼の目は、一ノ瀬を殺さんばかりに睨みつけていた。
「……長谷川くん、水瀬さん。これは……」
一ノ瀬が説明しようと一歩前に出た。
「すまねえ、俺、帰るわ」
律はそれだけ言うと、買ってきた材料の袋を床に叩きつけるように置き、美術室を飛び出して行った。激しい足音が廊下に響き、やがて消えていく。
「律!」
結衣が後を追おうとしたが、一ノ瀬がその腕を掴んで止めた。
「行っちゃダメだ、結衣ちゃん。今は、何を言っても逆効果だ」
葵は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
胸の奥が、バキバキと音を立てて壊れていくのが分かった。一ノ瀬が結衣を抱きしめていた。その事実が、葵の頭の中を何度も、何度もループする。
「葵……ごめんね、変なところ見せちゃって」
結衣が申し訳なさそうに葵を見る。その優しさが、今の葵には反吐が出るほど鬱陶しかった。
「ううん、大丈夫。……私も、もう帰るね」
葵はカバンを掴むと、二人の視線から逃げるように、美術室を後にした。
外は、まだ激しい雨が降り続いていた。
傘を開く気力もなく、葵は校門へと向かって歩き出した。身体が冷え切っていく。だけど、胸の奥のドロドロとした黒い感情だけは、熱く、激しく燃え上がっていた。
誰も、私を見てくれない。
誰も、私を一番にしてくれない。
激しい雨の音が、葵の声を、心を、すべて掻き消していく。
この壊れた夜の向こうに、さらなる奈落が待っていることを、葵はまだ知る由もなかった。