『放課後、僕らは嘘を重ねる』   作:トート

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第3話:崩れる足元

美術室のドアの向こうで見た光景は、網膜の裏に焼き付いて離れなかった。

一ノ瀬くんの長い腕が、結衣の華奢な肩を包み込んでいた。結衣は一ノ瀬くんの胸に、あまりにも自然にその顔を預けていた。

あんな風に誰かに縋(すが)る結衣を、私は見たことがなかった。いつも誰かを照らす太陽のような彼女が、一ノ瀬くんの前でだけは、守られるべき可憐な一輪の花になっていた。

「最悪、だよね……」

翌々日の月曜日。放課後の図書室の片隅で、私は誰もいない本棚の隙間に身を潜めるようにして、持参した参考書を睨みつけていた。

文字が全く頭に入ってこない。シャーペンの先をノートに押し当てると、パキリと乾いた音を立てて芯が折れた。

あの雨の金曜日から、4人の空気は完全に凍りついていた。

土日の間、結衣から何通かLINEが届いていたけれど、私はすべて既読スルーしてしまった。「体調が悪いから」と一言だけ送ればよかったのに、文字を入力する指がどうしても動かなかった。

クラスでも、私たちは目も合わせられずにいた。

結衣はいつも通り明るく振る舞おうとしていたけれど、時折私や律の席を不安そうに見つめていた。一ノ瀬くんはいつも以上に静かで、ただ、その視線は以前よりも明確に、結衣の後ろ姿を追うようになっていた。

そして律は――。

「……何、そんなに深刻な顔してんの」

低く掠れた声がして、私はビクリと肩を揺らした。

見上げると、本棚の影に律が立っていた。制服のシャツの第一ボタンを外し、カバンを片手で乱暴にぶら下げている。その目の下には、明らかに寝不足だと分かる濃い隈が刻まれていた。

「律……。図書室、珍しいね。いつもならすぐ帰るのに」

「家にいても、やることねえし。サッカー部の練習も、なんか行く気になんなくて、サボった」

律は私の隣の席に、大きな身体を滑り込ませるようにして座った。

彼から漂うのは、いつも通りのシーブリーズの匂い。だけど、その奥にある彼の気配は、いつになく荒んでいて、触れれば壊れてしまいそうなほど尖っていた。

「あいつら、付き合ってんのかな」

律は机の上に肘をつき、組んだ指の間に顎を乗せて、ぽつりと言った。

主語がなくても分かった。結衣と一ノ瀬くんのことだ。

「……分からない。でも、あの後、結衣が『違うの、相談に乗ってもらってただけ』って言ってたから……」

「信じるわけねえだろ、そんなの」

律は吐き捨てるように言った。その目が、憎しみと悲しみが混ざり合った複雑な光を宿して歪む。

「あいつ、一ノ瀬のやつ……俺に宣戦布告までしといて、本当に手出しやがった。佐倉も、あんな奴のどこがいいんだよ。ただのすました優等生じゃねえか」

「一ノ瀬くんの悪口言わないで」

気づけば、私は律を睨みつけていた。

「……何だよ。お前、まだあいつを庇うわけ?」

「悪口は関係ないでしょ。一ノ瀬くんが完璧だから、結衣が惹かれるのは当然だよ。……私だって、一ノ瀬くんのそういうところに、惹かれたんだから」

言葉にすると、自分の胸の傷口がさらに深く割れるようだった。

一ノ瀬蓮は、私にとっても、律にとっても、決して勝つことのできない「完璧な存在」だった。彼が結衣を選び、結衣が彼を選ぶ。それはあまりにも残酷で、あまりにも美しい、世界の正しい秩序のように思えてしまう。

「勝手に諦めてろよ」

律は席を立ち、私を見下ろした。その目は、冷たい怒りに満ちていた。

「俺は、あいつに佐倉を渡すつもりはねえから」

律はそのまま、大きな足音を立てて図書室を出て行った。

残された私は、折れたシャーペンの芯で真っ黒に汚れたノートを、ただ見つめることしかできなかった。

その日の夕方、学校の裏手にある駐輪場は、人気がなくなって静まり返っていた。

私は、自転車の鍵をポケットから取り出そうとして、手を止めた。

駐輪場の奥、太い銀杏の木の影。

そこに、二人の人影が見えたからだ。

「――待って、一ノ瀬くん。私は、まだちゃんと答えられない」

結衣の声だった。いつもよりずっと細くて、少し泣きそうな声。

私は咄嗟に、コンクリートの壁の陰に身を隠した。心臓が早鐘を打つ。見てはいけない、聞いてはいけない。そう思うのに、足が地面に張り付いたように動かない。

「結衣ちゃん、困らせるつもりはないんだ」

一ノ瀬くんの声は、どこまでも優しく、そして真剣だった。

「でも、僕は長谷川くんに自分の気持ちを伝えた。もう、嘘をつくのはやめたんだ。僕は、結衣ちゃんが好きだ。ただのクラスメイトとしてじゃなく、一人の女の子として、ずっと見ていたい」

壁に背中を預け、私は強く目を閉じた。

一ノ瀬くんの口から、明確な、一点の曇りもない「好き」という言葉が放たれる。その言葉が、私の耳を通して、胸の奥の、一番柔らかい場所をナイフのように突き刺した。

彼が誰かを好きになる瞬間を、私はこんなにも近くで、最悪の形で知ることになるなんて。

「ありがとう、一ノ瀬くん。すごく、嬉しい。……でも、私……」

結衣はためらっていた。その躊躇(ちゅうちょ)の理由が、律なのか、それとも私なのかは分からなかった。だけど、彼女のトーンは、一ノ瀬くんの想いを完全に拒絶しているわけではなかった。

「急がなくていいよ。文化祭が終わるまで、待ってるから」

一ノ瀬くんは、結衣の頭を優しく撫でた。あの、私には一度も向けられたことのない、慈愛に満ちた手つきで。

二人の影が、ゆっくりと駐輪場から離れていく。

私は壁に寄りかかったまま、地面にヘタリ込みそうになるのを、かろうじて堪えていた。

視界が涙で滲む。

分かっていた。一ノ瀬くんが結衣を好きなことも、私が選ばれないことも、全部最初から分かっていたはずなのに。

本物の告白を聞いてしまった瞬間の絶望は、想像を遥かに超えて私の心を破壊した。

「……私の、恋が終わった」

ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届くことなく、秋の冷たい風にさらわれて消えた。

同じ頃、学校の正門近くの坂道で、律もまた、決定的な現実を突きつけられていた。

「律!」

自転車を押して坂を下りようとしていた律の後ろから、結衣が走って追いかけてきた。一ノ瀬くんと別れたすぐ後のことだった。

「佐倉……」

律は足を止め、振り返った。その顔には、隠しきれない期待と、それ以上の恐怖が入り混じっていた。

「あのさ、金曜日のこと、ちゃんと話したくて。美術室で、一ノ瀬くんに抱きつかれてるみたいに見えたよね。あれね……」

「付き合ってんのか」

律は結衣の言葉を遮り、単刀直入に尋ねた。

「え……?」

「一ノ瀬と、付き合ってんのかって聞いてんだよ」

律の声は低く、脅すような響きを含んでいた。結衣は一瞬、怯えたように肩をすくめたが、すぐに真っ直ぐな目で律を見返した。

「付き合ってないよ。でも……私、一ノ瀬くんのこと、真剣に考えたいって思ってる」

「なんでだよ!」

律は叫んでいた。自転車のハンドルを握る手が、白くなるほど強張る。

「あんな奴、お前のこと何も分かってねえよ! お前が部活で悩んでるときも、お前が本当は寂しがり屋なことも、あいつは何も知らねえだろ! ずっとお前の隣にいたのは俺だ! 一番近くで、お前のことを見てきたのは俺なんだよ!」

律の、何年も溜め込んできた想いが、一決壊した水のように溢れ出した。それは告白というよりも、悲鳴に近かった。

結衣は、そんな律の姿を、悲しそうな、そしてどこか戸惑ったような目で見つめていた。

「律……。ありがとう。律が私のこと、そんな風に思ってくれてたなんて、気づかなくてごめんね」

「謝るなよ……」

「でもね、律」

結衣は一歩、律に近づき、彼の自転車のハンドルにそっと手を重ねた。その手の冷たさが、律の熱くなった頭を、無情にも冷ましていった。

「私にとって律は、生まれた時から一緒にいる、家族みたいな存在なの。何でも話せて、一緒にいるのが当たり前で……だから、男の子として意識したことは、一度もないんだ。一ノ瀬くんと一緒にいるときに感じるドキドキとは、違うの」

家族みたいな存在。ただの幼馴染。

それは、どれだけ時間を積み重ねても、決して「男と女」にはなれないという、絶対的な拒絶の宣告だった。

「律のことは、誰よりも大切だよ。でも、それは恋じゃないの。ごめんなさい」

結衣は深々と頭を下げた。

彼女の優しさが、誠実さが、逆に律のプライドと心を完璧に粉砕した。

もし結衣が「律なんて大嫌い」と言ってくれたなら、まだ怒りに任せて諦めることもできたかもしれない。だけど、彼女はどこまでも律を「大切な幼馴染」として扱い、その枠の外へ出ることを拒んだのだ。

「……そうかよ」

律は結衣の手を振り払い、自転車に飛び乗った。

「律、待って!」

結衣の声が後ろから聞こえたが、律は狂ったようにペダルを漕ぎ続けた。

坂道を猛スピードで駆け下りる。目に飛び込んでくる涙が風に流されていく。

どんなに近くにいても、どんなに長い時間を一緒に過ごしても、届かないものは届かない。

その残酷な現実が、律の胸をズタズタに引き裂いていた。

その日の夜。

空は、まるで私たちの心を映し出すかのように、再び重い雨雲に覆われ、激しい雨を降らせ始めていた。

ザーザーと窓を叩く雨の音を聞きながら、私は自分の部屋のベッドで、毛布を頭から被って丸まっていた。

スマホの画面には、結衣からのLINEの通知が溜まっている。一ノ瀬くんに告白されたこと、律に告白されて断ったこと。きっと、親友である私に聞いてほしいことがたくさんあるのだろう。

だけど、今の私には、それを受け止めるだけの心の器は一滴も残っていなかった。

「死にたいな……」

冗談でも何でもなく、ただ自分の存在が消えてしまえばいいのにと、本気で思っていた。

誰からも求められず、一番欲しい人には見向きもされない。私の17年間の人生は、一体何のためにあったのだろう。

その時、激しい雨の音に混ざって、コンコン、と窓を叩く小さな音が聞こえた。

私の部屋は一階にあり、窓の外は小さな庭を挟んで、律の家の壁と向かい合っている。子供の頃、よくこの窓越しに、お互いの部屋を行き来して遊んだものだった。

まさか、と思って毛布を跳ね除け、カーテンを開ける。

そこには、傘もささずに、激しい雨にずぶ濡れになった律が立っていた。

「律……!?」

私は慌てて窓の鍵を開け、ガラス戸を引いた。

冷たい雨の匂いと風が、一気に室内に流れ込んでくる。

「何やってるの!? こんな雨の中で……早く中に入って!」

私が手を引くと、律は抵抗することなく、泥人形のようにずるずると私の部屋に足を踏み入れた。

彼の制服は完全に水を吸って重くなっており、床にポタポタと黒い水滴を落としていく。

「律、大丈夫? 風邪ひいちゃうよ。今、タオル持ってくるから……」

私が洗面所に向かおうとした、その時だった。

背後から、冷たい、だけど驚くほど強い力で、腕を掴まれた。

「……行くな、葵」

振り返ると、律が私の腕を握りしめたまま、うつむいていた。

彼の前髪から滴る雨水が、床に落ちる。その身体が、寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか、小刻みに、激しく震えていた。

ゆっくりと顔を上げた律の目は、完全に光を失っていた。

いつもなら傲慢なほどにギラギラしている彼の瞳が、今はまるで、すべてを諦めた死人のように濁っている。

「律……どうしたの? 何があったの?」

尋ねながらも、私は気づいていた。彼がこうなっている理由は、ただ一つしかない。

「フラれた」

律は乾いた声で言った。

「佐倉に、完璧にフラれたよ。男として見られたことは一度もないってさ。家族みたいだって。一ノ瀬とは、違うんだってさ」

律の口から出た言葉は、私が駐輪場で聞いた一ノ瀬くんの言葉と、綺麗に対をなしていた。

一ノ瀬くんに選ばれた結衣。結衣を選んだ一ノ瀬くん。

そして、あの美しい二人の世界の「外側」に弾き飛ばされた、私たち二人。

「私も……私も今日、一ノ瀬くんが結衣に告白してるところ、見ちゃった」

気づけば、私も自分の傷口を晒していた。

「一ノ瀬くん、結衣のことが大好きなんだって。文化祭が終わるまで待つって言ってた。……私の入る隙間なんて、最初からどこにもなかったんだよ」

雨の音が、激しさを増していく。

世界中が、私たちの失恋を嘲笑っているかのように、容赦なく鳴り響く。

「……なぁ、葵」

律が一歩、私に近づいた。彼の身体から、雨の冷たさと、それとは相反する、焦げるような熱気が伝わってくる。

「俺たち、何のために生きてんだろうな」

「分からないよ……」

「誰も、俺たちのことなんか見てねえ。誰も、俺たちのこと一番に選んでくれねえんだ」

律の握る手に、さらに力がこもる。痛いほどだった。だけど、その痛みが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚のようにも思えた。

「……お前さ、俺のこと、一ノ瀬の代わりにすりゃいいじゃん」

律の口から出た突飛な言葉に、私は息を呑んだ。

「え……?」

「俺も、お前のこと、佐倉の代わりにするから」

律の目が、暗闇の中で妖しく光った。それは、正気のものではなかった。絶望のどん底で、これ以上傷つかないために、自暴自棄になった人間の目だった。

「嘘でもいいからさ、今だけ、誰かの一番になってみようぜ。……なぁ、葵」

律の顔が、近づいてくる。

私は逃げるべきだった。彼を突き放して、「目を覚ましなよ」とビンタでもするべきだった。私たちは幼馴染で、こんなことは絶対に間違っているのだから。

だけど、今の私の心もまた、完全に壊れていた。

一ノ瀬くんに拒絶され、誰からも愛されないという孤独の闇が、私の理性を麻痺させていく。

誰でもいいから、私を抱きしめてほしい。私を必要だと言ってほしい。たとえそれが、別の誰かを重ね合わせた「嘘」の温もりだったとしても。

「……いいよ、律」

私は拒むことなく、律の濡れた身体を受け入れた。

冷たい雨の滴が、私の制服の胸元を濡らしていく。

私たちは、お互いの寂しさを埋めるためだけに、望んでいなかった、そして決して踏み越えてはいけない一線を、ついに越えようとしていた。

激しい雨の音だけが、私たちの犯す過ちを、静かに覆い隠すように鳴り響き続けていた――。

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