『放課後、僕らは嘘を重ねる』 作:トート
雨の音は、世界のすべてを洗い流してくれるわけではなかった。
ただ、私たちが犯した過ちの境界線を、どこまでも曖昧に、ドロドロと溶かしていくだけだった。
「……っ、葵……」
律の低い声が、耳元で激しく震えていた。
彼の大きな身体が私を組み敷き、濡れた制服の布地が、肌に冷たく張り付いてくる。なのに、肌が触れ合っている場所だけは、皮膚が焦げてしまいそうなほどに熱かった。
律の指先が、私のブラウスのボタンを不器用にはずしていく。その手がカタカタと震えているのが分かった。彼もまた、自分が今、人生で一番取り返しのつかない間違いを犯していることに気づいているのだ。
だけど、止まれなかった。止まるための理由が、今の私たちには一つも残されていなかったから。
「律……きつい、よ……」
私が細い声を漏らすと、律は応える代わりに、私の唇を乱暴に塞いだ。
それは、お互いを慈しむためのキスではなかった。
息ができないほどの苦しさの中で、私はただ、一ノ瀬くんの切れ長な目や、あの穏やかな声を頭から消し去ることだけを考えていた。律の口づけを受け入れながら、私は目を強く閉じ、心の奥で一ノ瀬くんの幻影を追いかけていた。
そして、律も同じだった。
私を抱きしめる彼の腕は、強すぎるほどに強かったけれど、それは私を求めているからではなかった。私の背中に回された彼の指先は、まるでそこにいない結衣の身体を探り当てようとするかのように、必死で、悲痛だった。
「佐倉……なんで、だよ……」
激しいピストンの最中、律の口から、掠れた声でその名前がこぼれ落ちた。
一瞬、心臓が凍りつくような感覚がした。
やっぱりね、と思った。分かっていたことだ。私は結衣の身代わりにすぎない。律が今、その荒い息のなかで抱きしめているのは、水瀬葵という幼馴染ではなく、自分を拒絶した佐倉結衣という幻なのだ。
だけど、不思議と怒りは湧いてこなかった。
なぜなら私も、律の広い背中に爪を立てながら、そこに一ノ瀬くんの温もりを重ね合わせていたからだ。
私たちは、お互いを都合のいい身代わり(人形)にして、一番欲しかった人たちにフラれた惨めな現実から、必死に目を背け合っているだけだった。
窓の外では、雷鳴が轟いていた。
ピカッと白く光る稲妻が、カーテンの隙間から室内の陰影を不気味に浮かび上がらせる。
私たちは、言葉を交わすのをやめた。これ以上言葉を重ねれば、自分たちがどれほど醜く、歪んでいるかを、完全に自覚してしまうから。
ただ、肉体がぶつかり合う音と、お互いの肺から漏れ出る、獣のような荒い呼吸の音だけが、雨の音に混ざって部屋を満たしていた。
愛なんか一滴も含まれていない、ただの孤独のぶつけ合い。
それが、私たちの「初めて」の夜だった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
嵐が去った後の部屋には、重苦しい静寂と、冷え切った空気が満ちていた。
私はベッドの端で、毛布を胸元まで引き上げて壁を向いて丸まっていた。
背後からは、規則正しい、だけどどこか浅い律の寝息が聞こえてくる。
身体のあちこちが、鈍く痛んだ。
初めて知った男の重さと、肉体が繋がった感覚。だけど、胸の奥にある空洞は、満たされるどころか、以前よりもずっと大きく、深く、冷たく広がっていた。
(何をやっちゃったんだろう、私……)
天井を見つめると、涙が耳の後ろへと伝って落ちた。
一ノ瀬くんに選ばれなかった寂しさを埋めるために、一番やってはいけない相手と、一番やってはいけない方法で一線を越えてしまった。
幼馴染。生まれた時から一緒で、お互いの良いところも悪いところも全部知っていて、何があっても壊れないと思っていた、唯一の安全地帯。
それを、私は自分の心の弱さのせいで、自ら粉々に破壊してしまったのだ。
ゆっくりと上体を起こし、ベッドの下を見る。
そこには、床に無造作に散らばった、お互いの制服が落ちていた。雨水を吸って重くなり、ぐしゃぐしゃに汚れたブレザーとブラウス。それはまるで、私たちの現在の心をそのまま表しているようだった。
「……葵」
低い声がして、私は肩を震わせた。
振り返ると、律が目を覚ましていた。彼はシーツを腰に巻いたまま、上半身を起こし、呆然とした目で自分の両手を見つめていた。
彼の瞳には、昨夜の狂気じみた光はもうなかった。残っていたのは、底知れない後悔と、我に返った人間の、生々しい恐怖の表情だった。
「律……」
私が声をかけると、律はビクリと身体を強張らせ、私から視線を逸らした。
「……クソっ」
律は短く吐き捨て、頭を抱え込んだ。彼の大きな背中が、丸まって小さく見える。
「俺……何、やってんだよ。頭おかしくなってた……」
「律のせいじゃないよ。私も、どうかしてた」
私は精一杯、声を震わせないようにして言った。だけど、毛布を握る指先は冷たく震えていた。
「違う、俺のせいだ。お前を……葵を、こんなことに巻き込んで……」
律の声は、今にも泣き出しそうだった。いつも強気で、他人に弱みを見せない律が、こんなにも激しく狼狽している。その姿を見て、私はさらに深い罪悪感に襲われた。
私たちは、お互いの顔を見ることができなかった。
昨夜までは、ただの「幼馴染」として、どんなくだらないことでも笑い合えたのに。一度肌を重ねてしまった今、二人の間には、目に見えない巨大な、そして不透明な壁が立ち塞がってしまった。
「……帰るわ」
律はベッドから降りると、床の濡れたズボンとシャツを無言で拾い上げ、身に付け始めた。
濡れた服が肌に張り付く不快感にも、彼は気づいていないようだった。
「律、あの……」
私は彼の背中に向かって、必死に言葉を探した。
「昨夜のことだけど……」
律はドアノブに手をかけたまま、動きを止めた。
「……何もなかった。いいな、葵」
彼の声は、冷徹なほどに硬かった。
「お前も、俺も、昨日は雨で頭がバグってただけだ。だから、全部嘘だ。忘れる。……佐倉にも、一ノ瀬にも、絶対言うなよ」
「……うん。分かってる」
ガチャリとドアが閉まり、律の気配が部屋から消えた。
残された私は、再びベッドに倒れ込み、枕に顔を押し当てて声を殺して泣いた。
嘘。全部、嘘にしなければいけない。
そうしなければ、私たちは今日から、どうやって生きていけばいいのか分からなかったから。
翌週の火曜日。雨はすっかり上がり、突き抜けるような青空が広がっていた。
しかし、私たちの世界の歪みは、その青空の下でより一層、鮮明になっていった。
「葵! おはよう!」
校門をくぐると、後ろから結衣がいつものように駆け寄ってきた。彼女の笑顔は、相変わらず太陽のように眩しい。
「体調、もう大丈夫? 週末、全然連絡取れなかったから心配したんだよー」
「うん……ごめんね、結衣。ちょっと熱が出ちゃって、ずっと寝てたんだ」
私は、人生で一番滑らかな嘘をついた。胸の奥がキリキリと痛んだが、顔には完璧な笑顔を張り付かせることができた。人間は、本当に守りたい秘密があるとき、驚くほど器用に嘘をつける生き物らしい。
「そっか、良かった! 治ったなら安心。あのね、文化祭の看板、一ノ瀬くんと二人でほぼ完成させたんだよ! あとは電飾をつけるだけ!」
結衣は嬉しそうに私の腕に絡みついてくる。その手の温かさが、今の私にはまるで、汚れた身体を咎める火傷のように熱かった。
「……あ、長谷川くんだ」
結衣の視線の先、下駄箱の前に、律が立っていた。
律はカバンを肩にかけ、いつものように不機嫌そうな顔でスマホを見ていた。
「律ー! おはよう!」
結衣が大きな声で手を振る。
律は一瞬、顔を上げた。彼の視線が、結衣を通り過ぎて、私のところでピタリと止まる。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
しかし、律はすぐに目を逸らし、「おう」とだけ短く答えると、私たちを無視するようにして足早に校舎の中へと入っていった。
「あれ……? 律のやつ、まだ怒ってるのかな」
結衣が寂しそうに唇を尖らせる。
「金曜日、私がちゃんと断っちゃったから……やっぱり、気まずいのかな。私、律とはずっと仲良しでいたかったのに」
結衣のその純粋な言葉が、私の耳に、不協和音のように不快に響いた。
結衣は悪くない。彼女はただ、自分の気持ちに正直に行動しただけだ。
だけど、彼女が律を拒絶したから、律は私の部屋に来た。彼女が一ノ瀬くんを選んだから、私たちは過ちを犯した。
結衣の知らないところで、彼女を中心にした四角関係の破片が、私と律の身体に深く突き刺さっている。
「……大丈夫だよ、結衣。律も、そのうち普通に戻るよ」
私は、自分の声がどこか遠くから聞こえるような錯覚を覚えながら、結衣の背中を優しく叩いた。
教室に入ると、一ノ瀬くんがすでに席に座って本を読んでいた。
彼が顔を上げ、結衣を見て、ふわりと優しい微笑みを浮かべる。結衣も嬉しそうに微笑み返す。
私は自分の席に座り、ただ机の木目を見つめていた。
すぐ斜め後ろの席には、律が座っている。だけど、私たちは一言も交わさない。お互いがそこに存在していないかのように、徹底的に気配を消し合っていた。
それは、誰もが気づくほど不自然なディスタンスだった。
いつもなら、律が私の髪を引っ張ってからかったり、私が律のノートの字の汚さを文句言ったりするのが、この教室の日常だったはずなのに。
「……ねえ、水瀬さん」
昼休み、図書室へ向かおうとした私の前に、一ノ瀬くんが立ちはだかった。
彼の眼鏡の奥の目は、いつも通り冷静で、だけど鋭く私を観察していた。
「一ノ瀬くん……どうしたの?」
「少し、話せるかな。長谷川くんのことなんだけど」
一ノ瀬くんの口から律の名前が出た瞬間、私は背中に冷や汗が流れるのを感じた。
校舎の裏手、人気のない渡り廊下の陰。
一ノ瀬くんは、ポケットに手を突っ込んだまま、静かに私を見つめていた。
「最近、長谷川くんの様子がおかしいんだ」
一ノ瀬くんが切り出した。
「結衣ちゃんにフラれたから、気まずいのは分かる。でも、それだけじゃない気がするんだ。……水瀬さん、君に対しても、彼の態度が変わったよね?」
私は息を詰まらせた。一ノ瀬くんの洞察力は、私の想像を遥かに超えていた。
「え……? そんなこと、ないよ。律はいつも通りぶっきらぼうだし……」
「嘘をつかなくていいよ、水瀬さん」
一ノ瀬くんの声は優しかった。だけど、その優しさが、逆に私の嘘を許さないという無言の圧力を生んでいた。
「君たち、幼馴染だろ。今までは、お互いのこと空気みたいに自然に受け入れてた。なのに、今はまるでお互いを恐れてるみたいに見える。……何かあったの? あの、雨の金曜日の夜に」
金曜日の夜。
そのワードを聞いた瞬間、私の頭の中に、昨夜の律の荒い呼吸と、自分の部屋に漂っていた雨の匂いが鮮烈に蘇った。
身体が震えそうになるのを、必死で抑える。
「何もないよ……本当に」
私は声を絞り出した。
「律は、結衣にフラれて傷ついてるだけ。私は……それを、幼馴染として、どう慰めていいか分からないだけだよ」
一ノ瀬くんは、私の目をじっと見つめていた。
数秒の沈黙の後、彼は小さくため息をついた。
「……そう。ならいいんだけど」
一ノ瀬くんは一歩、私に近づいた。
「僕は、結衣ちゃんを傷つけたくないんだ。長谷川くんが荒れて、結衣ちゃんが責任を感じて泣くようなことは、絶対にさせたくない。だから……もし長谷川くんが何か無茶をしようとしてるなら、水瀬さん、君が止めてほしい」
一ノ瀬くんの言葉は、どこまでも結衣のためだった。
私への配慮なんて、そこには一微塵もなかった。
彼は私に「律のストッパー」になることを求めている。それが、どれほど今の私にとって残酷な要求なのか、彼は知りもしないのだ。
「……分かってるよ。一ノ瀬くん」
私は、歪んだ笑顔を作って答えた。
「律のことは、私がちゃんと見てるから。一ノ瀬くんは……結衣のことだけ、考えてればいいよ」
「ありがとう。頼むよ、水瀬さん」
一ノ瀬くんは満足そうに微笑み、教室へと戻っていった。
一人残された私は、壁に頭を打ち付けたいほどの衝動に駆られていた。
一ノ瀬くんは結衣を守りたい。
結衣は、誰も傷つけずにみんなと仲良くしたい。
そして私と律は、その綺麗事の裏側で、ドロドロの秘密を抱えて、窒息しそうになっている。
放課後のチャイムが鳴り響く。
その音は、まるで私たちの破滅へのカウントダウンのように、私の耳に、不快な不協和音を響かせ続けていた――。